正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

涼茂①

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涼茂は兗州山陽郡の昌邑県の出身である。
若い頃から学問を好み、その議論は常に経典に依拠した。
曹操によって司空掾に召されたあと、侍御史となった。
泰山太守となったあと、樂浪太守に転じた。
しかし遼東で公孫度に引き留められ、任地には行けなかった。
曹操が鄴が留守した際に公孫度が鄴襲撃を計画すると
涼茂は激しい言葉でこれを諫止した。
後に召還されて魏郡太守、甘陵相を歴任した。
曹丕が五官將となると、その長史となった。
左軍師に転じた。
魏公国が建つと尚書僕射となり、中尉、奉常へと遷った。
曹丕が太子となると太子太傅となり、死去した。
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涼茂の前半生を見ていきたい。
山陽人と言えば劉表、王粲ほか著名な人物が多くいるが
彼らとの逸話はない
また、同県出身の滿寵との関係性も不明である。
滿寵は曹操兗州刺史となった頃に出仕した(192/193年頃か)。
が、涼茂が仕えたのは遅く、196年後半頃だろう。

 

192年には黄巾の侵入があり、
194/195年には呂布による兗州の大混乱があったが、
涼茂の動向は不明である。
あるいは、どこかに疎開していたのかも知れない。
疎開していた者が曹操が司空になった頃に
献帝が許都に入った頃に)
故郷に戻り、曹操の辟召に応じるというのは一つの典型である。

 

まぁ実際に疎開していたかも不明だが
涼茂はその頃に初めて曹操に仕えることとなり、
「舉高第,補侍御史」
優秀者として推薦され侍御史に任命された。

 

後漢書の「百官三」の注を見ると
侍御史について「公法府掾屬 高第補之」とあり、
これは既定ルートだったように思われる。
曹操が涼茂を身近におくことを嫌ったとかではなく、
名誉ある異動だったのだろう。

 

その後、泰山太守となる。
これはいつなのか。

 

この頃の泰山太守と言えば、薛悌がいる。
薛悌は兗州東郡の人で曹操に早くから仕えた。
22歳だった時に、兗州從事から泰山太守となった。
193年、曹操の最初の徐州侵攻があった頃、
泰山太守は應劭だったが、袁紹のもとへ逃走した。
この時、曹操は誰かを泰山太守に任命したはずだが
薛悌は兗州反乱時(194年)にはまだ州從事のまま。
もし薛悌が泰山太守に任命されるとしたら
張邈の反乱が平定に近づいた195年の後半だろうか。

 

では薛悌はいつまで泰山太守だっただろうか。
この頃、廣陵郡功曹の陳矯との逸話がある。
陳矯を任用した廣陵太守は陳登である。
陳登が廣陵太守となったのは197年頃だろうか。
そして陳矯は陳羣の推挙を受けて司空掾屬となる。
200年頃のことだろう。

 

さて、薛悌より先に涼茂が泰山太守であった可能性も
ゼロではない。
だがここはいったん、それは無視して話を進める。

 

薛悌が先に泰山太守であったとして
いつ涼茂に交代したか。
ヒントは、後に涼茂が樂浪太守となることである。
樂浪に行くにはまず遼東半島へと海を渡る。
それは青州からである。
であれば、袁紹との抗争が始まる前であったはずだ。

 

◆※追記。公孫度青州の先端の東萊郡を支配していた(はず)ということを失念していた。一方、曹操呂布を降すと、東萊郡と接する北海太守に孫觀、城陽太守に孫康を任命した。であれば、それ以降のどの時期においても遼東半島へは行けそうである。ただし、曹操陣営が北海、城陽の全域を実効支配できていたのかは不明である。当時の青州情勢の整理は別の機会に行いたい。なお、今回の記事についてはこの追記により全面書き換えは行わないこととする。※◆

 

そしてもうひとつ、なぜ樂浪太守となったのか。
通常の場合、前任の太守が死亡し、
あるいは郡を捨てて逃亡してしまったため、
郡民が後任を要請してきた、というケースはある。
だが遼東半島以東は公孫度が支配しており、
公孫度が勝手に太守を任命していたはずだ。

 

であれば、なぜ樂浪太守となったのか。
ひとつは公孫度自身が要請した可能性である。
それは曹操政権に対する外交戦略の一環である。

 

だが、曹操側から涼茂を送り込んだ可能性を考えたい。
曹操袁紹の関係の亀裂は少し前から始まっていた。
200年には官渡の戦いがあるが
199年の早い時点で交戦間違いなしと計画していただろう。
その際に、公孫度を味方に引き込むための使者こそが
涼茂だったのではあるまいか。
涼茂は司空掾となっており、
曹操は彼のひととなりをよく知っていたはずだ。

 

またもうひとつ注意すべきは
青州袁紹陣営に足止めされる時期ではない、ということだ。
まだ完全には緊張感が高まっていなかった時期のはずだ。
199年の前半だろう。

 

あるいはもっと早く、198年などの可能性はないのか。
この頃は徐州は呂布と泰山諸将に抑えられているが
青州入り自体は問題なく出来るだろう。
だが、この時期であれば
わざわざ有意な人材を辺境に送り込む理由が判然としない。
当面の敵は呂布なのであるから。
やはり、199年の前半頃に遼東半島に渡ったと考える。

 

ここで先ほど無視した可能性、
涼茂の後任が薛悌であるケースを考える。
199年後半も陳矯は廣陵郡功曹であったから、
そこに齟齬は起きない。
だが薛悌は兗州反乱の時(194年)に兗州從事であり、
22歳の時に泰山太守となったという。
199年に22歳ならば、194年には17歳だったことになる。
これくらいの年齢で官吏になる例は三国志にもいくらかあるが
決して名門の出でなさそうな薛悌が
17歳で兗州從事というのはあり得るのかどうか。
確かに曹操実力主義な面があった。
実力主義だった、とは言わない)
だが、兗州反乱の前なのだから、他にいくらでも人材はいたはずだ。

 

ここは取り合えず、薛悌が先に泰山太守となった説を取る。

 

さて、涼茂は199年に遼東半島に渡る。
ではいつから泰山太守だったのか。
涼茂が太守となった頃、郡には盗賊が多かったが、
就任して「旬月の間」に1000余家が「至った」という。
これは盗賊が降伏してきたのか。
盗賊を恐れて逃散していた民が戻ってきたのか。
よく分からない。
また、「旬月」の正確な意味は何だろうか。
ちくま訳では「10か月」である。
ネットで検索すると、それとは別の意味として
「またたく間」「10日から1か月ほど」といった情報も出てくる。
どちらの解釈も絶対に成り立たないとは言えない。
だが、盗賊を討伐した記述は見当たらないので
1か月の間に急にそんな変化が起きることはあるまい。
だんだんと郡が治まっていき、
それで信頼を得たことでの1000余家の到来であろう。
であれば、任期は10か月ほどだったのだろうか。
となると就任時期は逆算して198年の中頃だろうか。

 

薛悌はかなり若かったが、曹操陣営の古参であり、
兗州反乱の後とあっては
曹操は何としても、まず信じられる人物、
裏切らない自分を要所に配置する必要があった。
だが、泰山は呂布陣営とも接する前線のひとつであり、
その余波を受けて盗賊も跳梁跋扈し、
なかなか治まらなかった。
そこで配置換えを行い(※)、
朝廷に「余っている人材」の中でも
特に優秀だった人物を登用して送り込んだのだろうか。
そしてそのような優秀な人物を、
袁紹との開戦前夜にどうしても辺境の地で送る必要があった。
それには大きな戦略的な意図があった。

 

※もちろん薛悌も閑職に異動となったわけではないだろう。

 

さて、この時代に遼東半島に渡った士人は多かったが
任官のために赴いた人物はいただろうか。
私は思い出せない。
また、彼のその後のキャリアも
意外と特殊なものになっていく。
それは次回以降のお話。

 

次回のために個人的に覚えておきたいこと(推測レベルのものを含む)
・涼茂は任官前の事績はほとんど描かれない
・同州人との交友関係も不明
・だが、経典に依拠して意見を言う「清流派タイプ」だった(?)
曹操の司空掾となったあと侍御史に異動したのは「優秀だったから」
・優秀さを買われて「前線の」泰山太守となった(198年頃)
・樂浪太守となったのは199年頃、まだ青州が通れる頃
・樂浪太守となったのは公孫度との連携のため。曹操が送り込んだ