正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

袁術の急激な衰亡を考える

私は袁術のファンということではないのだが
ここのところ袁術絡みの記事を多く書いた。
袁術自体は記述が少なくその謎が多いながらも、
袁術の周縁(曹操劉備孫策呂布)には
考察の情報が豊富であるということも理由だろう。


190年代の袁紹陣営など
公孫瓚黒山賊張楊から考察しなければいけない。
それに比べればずっと楽だ。


それでも敢えて避けているテーマはある。
袁術の揚州入り前の揚州刺史を巡る疑問、
揚州入りの際の戦闘、
孫賁豫州刺史任命の問題など、
書こうかと思いつつも放置している。


だが、ここのところの袁術絡みの記事のついでに
頭の中で膨らんできた想像についてはメモをまとめておきたい。
それは袁術の衰亡に関してである。


197年春の皇帝僭称、これは結果的には悪手となった。
呂布との関係悪化の原因はいろいろあるが、
皇帝僭称は確実に原因のひとつである。
そしてその離反に怒った袁術呂布を攻撃し、敗北。
逆に呂布の侵攻を受け、揚徐州境の鍾離県まで迫られた。
また、孫策(と朱治)の離反の方はこれが確実に主因である。
その孫策には丹陽郡(東部)を奪われた。
同時期、豫州方面で曹操に敗北したが、
これは皇帝僭称とは直接は関係がない。

 


丹陽郡を失ったのが197年中なのか、
198年に掛けての事なのかは史書には明示されない。
だが、これ以降、199年夏に袁術が死ぬまで、
袁術陣営に何が起こったかは情報がきわめて少ない。


そしてその最期はこうである。


>術前為呂布所破,後為太祖所敗,
>奔其部曲雷薄、陳蘭于灊山,復為所拒,憂懼不知所出。
>將歸帝號於紹,欲至青州袁譚,發病道死。


(先には呂布に、後には曹操に敗北し、
配下の雷薄、陳蘭を頼って灊山へ逃げようとしたが、
これを拒まれ、恐怖してどうしたらよいか分からなくなった。
袁紹のもとへ逃げて帝位を譲り渡そうしたところ、道中、病死した。)


呂布曹操に敗北したのは197年である。
確かに大きな敗北ではあったろう。
しかしそのおよそ2年後、199年になって、
なぜ山中に逃げ込もうとするような事態になるのか、
なぜ部下からも見捨てられる事態になるのか。
そこが結びつかない。


いや、結びつく、という人もいるだろうか。
というのは袁術は以前に南陽を捨てて揚州に逃亡したような、
そういう「無能な群雄」であるのだから。


確かに袁術の最大の謎はそこにある。
根拠地を捨てて逃げ出したような者が
なぜ揚州に入るや否や再び勢いを盛り返し、
以前と同様に「列強」の顔をしているのだ。
南陽を捨てたイメージが強い人にとっては
揚州で勝手に袁術がひとり自滅することにも
違和感がないのかも知れない。


しかし、揚州で勢いを取り戻したことには
偶然ではない何かがあるのだろうと
袁術をある程度評価する立場からは
勝手に自滅することにむしろ違和感ばかり持つのかも知れない。


三国志袁術伝はその衰亡の原因について、
皇帝僭称後の奢侈が理由であるかのように書く。
原文はこうである。
>遂僭號以九江太守為淮南尹。置公卿,祠南北郊。
>荒侈滋甚,後宮數百皆服綺縠,餘粱肉,而士卒凍餒,江淮閒空盡,人民相食。


(奢侈は甚だしく、後宮の女人は着飾り、米肉はあり余っていたが、
士卒は飢え凍え、江淮一帯は空っぽとなり、人民は互いに喰らいあった。)


三国志より後代に成立した後漢書袁術伝は書き方が少し違う。
>術兵弱,大將死,眾情離叛。
>加天旱歲荒,士民凍餒,江、淮閒相食殆盡。
>時舒仲應為術沛相,術以米十萬斛與為軍糧,仲應悉散以給飢民。(中略)
>術雖矜名尚奇,而天性驕肆,尊己陵物。
>及竊偽號,淫侈滋甚,媵御數百,無不兼羅紈,厭粱肉,自下飢困,莫之簡卹。
>於是資實空盡,不能自立。


各行を意訳すると、
①敗戦(197年の)により、「衆情離叛」した
②日照りにより飢饉となり、江淮一帯では人が喰らい合い、いなくなった
③配下の舒仲應(沛相)は軍糧とした預かったものを飢民に分け与えた
袁術は名声こそあったが、性格は驕慢であった
後宮の女人は着飾り、米肉はあり余っていたが、飢民を気に掛けることはなかった
⑥これにより物資が空っぽになり、自立不能になった


こう比較すると分かるが、②⑤⑥は三国志の記述の書き換えに見える。
こう書き換えた方がしっくり来る、というような処置をされているが、
しかしそれが正確性を保っているかはよく分からない。


具体的には、飢饉の問題について差異がある。
三国志では奢侈が発端となり、その支配地の士民が飢えたようにも思えるが、
後漢書では天候不順による飢饉の存在を明示しており、
舒仲應の逸話も挿入している。
推測するに、舒仲應の逸話が先にあり、
これをもって飢饉があったはず、と解釈したのだろうか。
舒仲應は三国志注の(張華の)博物志では舒仲膺(名は邵)と書かれ、
袁術のときに阜陵長となった」とされ、沛相とは出てこない。
となると、この後漢書の逸話自体、信じていいものか、という問題もある。


後漢書献帝紀では、この飢饉のことが記される。
>是歲飢,江淮閒民相食。


これが三国志袁術伝に由来したものなのか、
別の根拠があるものなのかは不明である。
が、同じ箇所にはこうも書かれる。
>夏五月,蝗。秋九月,漢水溢。


つまり「献帝起居注」あたりが天災を記録しており、
それに基づいているのかも知れない。
だが江淮間の飢饉については具体的に何月のことか書かず、
「是歲~」とまとめている以上、
やはり三国志袁術伝由来なのではとの疑いは残る。
直接の根拠なく、編者が勝手に書き入れたのではないのか。


ただし居巣県長の周瑜魯粛のもとに出向いて行って
援助を要請したというあの逸話。
あれはもしかしたら飢饉と関係があるのかも知れない。


まぁ、以上はいつもの勘ぐりである。
飢饉はあった、として考察を進めていく。
しかしそれは本当に197年だったのか、ということは留保したい。
というのは197年9月に、豫州陳国で曹操に敗北している。
この時、陳国で袁術軍による包囲戦があり
住民は救援を待ち籠城するのだが
そこは曹操のいる許都の目と鼻の先の地である。
長期間の籠城戦があったとは思えない、というのは以前に書いた。
かなり推測混じりの論ではあるが、
そう考えるなら、197年9月の少し前に戦闘が勃発したことになる。
旧暦の197年9月は、現在の暦の9/30~10/28にあたるらしい。
後漢書袁術伝には「天旱(ひでり)」とあり、
降水量が不足し、収穫に影響があったということだろう。
つまり春以降の問題だと思うのだが
9月(実質10月)の軍事行動との整合性があるだろうか。
飢饉が起きつつあったなら、軍事行動を控えるのではないか。
それとも、本拠地で飢饉が発生しつつあったからこそ
豫州方面に侵出したということだろうか。
あるいは、197年は軍事的な敗北のみで、198年に飢饉が起こり、
それが199年の袁術軍壊滅につながったのではないのか。


いったん結論は先送りし、
197年に飢饉はあったとして考察を進めていく。


この場合、197年には飢饉と、
呂布曹操に対する敗北とが重なったこととなる。
そして孫策の離反も起き、丹陽も奪われた。


そしてその197年の毒が1年かけて全身を巡り、
199年に勢力瓦解を引き起こしたのだろうか。


それを確かめるために198年の袁術軍の気配を探る。
この頃の手がかりは大きく2つある。
1つは、呂布との同盟である。
呂布袁術と再び同盟し、劉備を攻撃する。
なぜ呂布はこんなことをしたのだろう。
この選択により曹操と敵対し、198年末に攻撃を受け、滅亡する。


呂布はころころと態度を変えると揶揄されるので
そうしたところが根本原因の可能性もゼロではない。
つまり、呂布の思い付きによる再同盟であった。
しかしもし再同盟にまともな理屈があるとしたら
それはどういう理屈になるだろうか。


それは「袁術が弱くなりすぎた」ということではないのか。
そもそも曹操呂布との和解は
「強い袁術」に対抗するための手段だった。
いや、袁術って強いか?という疑問もある。
その疑問は妥当だが、孫策袁術の配下と見なし、
195~196年に呉郡、会稽郡も手中に収めたと考えれば
強くなりつつあった、とは言える。


そして197年、呂布曹操に敗北しただけでなく、
孫策の離反も合わせて考えれば、
かなり弱体化したとは言える。
となれば、曹操には呂布の機嫌をうかがう必要は無くなる。
それを呂布は察知したのだろうか。
そして今度は袁術に手を差し伸べて、曹操と対抗する。
そう考えた。
袁術の方はこれを断る理由はない。


あるいはこういう可能性もある。
呂布袁術と再同盟して、まず劉備を攻撃するわけだが、
実は劉備は裏で曹操とつながっていて、
呂布の準備をしていたのではないか。
この劉備側の挙動不審があり、それを受けて呂布袁術と同盟したのか。
つまり、曹操側から、そう仕向けられた可能性もあるのかも知れない。


いずれにしても、弱っていた袁術側としては
この再同盟を断る理由はなかったのではないか。


こう考えると1つの疑問が浮かぶ。
呂布は198年冬、曹操に包囲される。
そして袁術からの援軍を切望していた。


三国志呂布伝注の英雄記にいう、
この時、呂布袁術に救援要請の使者を送っていた。
袁術は以前に呂布が婚姻の約束を反故にしたことから、これを渋った。
呂布が敗れれば次は陛下の番ですぞと使者が言うと、
袁術は軍備を整え、呂布救援の姿勢をとった。
呂布は娘を与えないから袁術の救援が来ないのだと思い、
自ら馬に乗り、娘を抱いて袁術のもとへ送ろうと試みたが、
曹操軍に阻まれて帰還せざるを得なかった。


これは三国志の各ドラマ、小説での1つの見せ場であろうか。
しかしこの内容は疑わねばならない。
すでに袁術とは再同盟をしているのならば、
以前のことを理由に出兵を渋るのは、やはり不自然に感じる。
さらに、娘をやれば援軍が来ると呂布が信じるのもよく分からない。
なぜなら、娘自体に価値があるのではなく、
婚姻による同盟強化自体が目的なのであり、
そしてなぜ同盟強化が必要なのかといえば、
それは「生存」のためである。
本当に娘が来るならば救援する、
そうでなければ救援しない、そういう問題ではないはずだ。


そして結局、袁術の救援が来ていない、
ということはもっと考えねばいけない。
呂布の使者が言うように、呂布が滅べば次は袁術なのである。
事実、その半年後に袁術軍は滅亡する。
もっともそれは曹操軍の攻撃を受けたからではなく、
まるで自壊するように消えてなくなるのである。


つまり、私の推測では、呂布が包囲されている時、
袁術はとても救援を送れるような状況ではなかった。
なにか、そういう理由があった。
そしておそらくそれと同じ理由で、半年後に滅亡した。


ではその理由は、いつ持ち上がったのか。
私はそれは198年の途中であったろうと思う。
もしそれ以前であったならば、
呂布側で袁術と再同盟する選択肢はとらない。
弱体化をきわめた袁術を頼ることは出来ない。
呂布としては何があっても曹操と上手くやっていかなければいけない。


やはり、もし江淮に飢饉があったのなら
198年の方が有り得そうに思ってしまう。


さて、この頃の袁術軍を考える2つめの手がかり。
それは孫輔伝にある。


>策討丹楊七縣,使輔西屯歷陽以拒袁術,并招誘餘民,鳩合遺散。
>又從策討陵陽,生得祖郎等。


孫策が丹陽の七県を討つとき、孫輔を(江北の)歷陽に駐屯させ、
袁術軍を拒ませると共に、餘民を招誘させ、遺散を鳩合させた。
また孫策に従って陵陽県を討ち、祖郎らを生け捕りにした。)


この丹陽の七県が丹陽西部を指すのか、
あるいは丹陽東部の袁胤攻撃を指すのかよく分からないとは以前に書いた。
祖郎との戦いとは別ものにも思えるので、そうであれば
袁胤攻撃時の話ということになる。


正直なところ、私はこの一文にいままで注目したことがなかった。
しかしこれは大きな意味を持つと気付いた。
こういう気付きの楽しみが、三国志にはある。
つまり、孫策袁術と袂を分かったとき、
孫策は江北にもちょっかいが出せただけでなく、
それに対して袁術が反撃をできなかったようでもある、ということだ。
さらに「餘民を招誘」、「遺散を鳩合」。
つまり袁術の統制から外れていた逃亡民やら何やらを吸収した。
この「餘民」「遺散」はなぜ発生したのか。
それはもしかしたら飢饉が原因なのかも知れない。
であれば、やはり197年に飢饉があり、
孫策による袁胤討伐はその後と考えた方が自然なのか。

 


気になるのは周瑜のことである。
歴陽と居巣はほど近い。
周瑜孫策のもとに身を投じるのなら、
孫輔が歴陽に来たこのタイミングがベストであったはずだ。
なぜそれをしなかったのか。
まさか周瑜魯粛のもとを訪ねていた時で
居巣にはいなかったということなのだろうか。
あるいはおじの周尚が寿春にいるなどして
周瑜が逃亡を躊躇するような状況だったのだろうか。
そして後に周尚が病死するなどして
周瑜の身が軽くなった、ということもあるかも知れない。


さて、袁胤討伐後、時期は不明だが、
孫策は丹陽西部の攻略に乗り出す。
先ほどの孫輔伝の注の江表伝によれば、
袁胤を破られた袁術孫策を恨み、
丹陽西部の祖郎らに印綬を与え、山越を煽動させ、
孫策を攻撃させた。


なお、同じころ、反袁術同盟の一員として
行吳郡太守、安東將軍の陳瑀が広陵にいた。
孫策伝注の江表伝によれば
陳瑀もまた丹陽西部の祖郎ら(そして呉郡の嚴白虎)に印綬を撒き、
孫策を図ろうとした。


こう同じような話が並ぶと、どうにも信憑性が気にかかる。
どちらかがウソのように思える。
ひとまず、袁術による工作が事実として話を進めよう。
つまり、この頃は袁術も工作活動する程度の元気があったということだ。
一方で、孫策相手に自ら討伐軍を差し向ける余力はなかったか。


整理すると、こういうことかも知れない。


・197年春、袁術が皇帝を僭称
・反袁術同盟が築かれる。呂布孫策袁術から離反する。
・江淮では旱(ひでり)が続く
袁術呂布を攻撃するが撃退される。
呂布袁術領に侵攻し、勝利して引き返す
・江淮で飢饉が起きる
豫州駐屯の袁術軍が陳国に侵攻する
・9月、曹操豫州袁術軍を殲滅する
・同じ頃、孫策が丹陽の袁胤を攻撃する
孫輔が江北に渡り、逃亡民を糾合する
・197年冬、袁術は体制立て直しに努める


・198年初頭、呂布袁術と再同盟する
袁術が丹陽西部の祖郎らと手を結び、孫策を攻撃させる
・逆に孫策が丹陽西部を攻略する


この整理にはある程度の真実があるような気がする。
外地を呂布曹操孫策に切り取られた。
飢饉により発生した「餘民」「遺散」も孫策に盗まれた。
そして、孫策に自ら反撃を加える余力はない。
だが、呂布との再同盟にはこぎつけた。
まだ淮南と廬江とは、確保している。


これがだいたい198年の初頭頃の話。
同年9月、曹操は東征し、10月、下邳を包囲する。
1か月余りして城は陥落する、というのは武帝紀の記述で、
呂布伝によれば籠城戦は3か月に及んだという。
後漢書献帝紀および資治通鑑によれば、
呂布が処刑されたのは12月の癸酉の日である。


これを袁術は救援しなかった。
あるいは、出来なかった。


そして例の滅亡へと繋がる。
灊山にいる部曲の雷薄、陳蘭を頼ろうとするも拒まれ、
袁紹のもとに身を投じようするが、その途上で病死する。
韋昭の呉書によれば、雷薄に拒まれたあと寿春へ向かい、
江亭(壽春まで八十里)に至って病死したという。


武帝紀、先主伝によれば、袁術の北上に対し、
曹操劉備を派遣して攻撃しようとした。
だが、至る前に袁術は病死したという。
ここれで劉備を派遣したことが、後の劉備の叛旗に繋がるわけで
韋昭の呉書の方がおそらく不正確なのであろう。


後漢書袁術伝には、雷薄を頼ろうとした時期も書かれる。


>四年夏,乃燒宮室,奔其部曲陳簡、雷薄於𤅬山。
>復為簡等所拒,遂大困窮,士卒散走。


このあと袁紹を頼ろうとする話になるが、
雷薄を頼ろうとした「夏」は4月~6月のうち、いつなのか。
袁術が死ぬのは6月である。
そしてこの年には閏月は存在しない。


三国志袁術伝注の(王沈の)魏書には
袁術袁紹にあてた書簡の内容が記載される。
この内容(書簡を送ったということ)が事実なら
袁紹のもとへ出奔するにあたり、事前に使者の往来など
猶予期間があったことになる。


であれば、たとえば4月に雷薄を頼ろうするも拒まれ。
5月に袁紹に連絡を取り、
6月に実際に北上するも、その途中で病死した。
そういうこともあり得るだろうか。


そして4月に𤅬山に逃げ込もうとするのであれば
その数か月前には何か、大問題が発生したのだろう。
だいたい、山に逃げ込むとは何事か。
生きるか死ぬかの大問題が起きていたはずだ。


198年初頭はまだ二郡を有する群雄としての体裁があった。
呂布との再同盟もした。
この年、居巣県長の周瑜孫策のもとへ出奔する。
また、揚州に寄留していた劉馥が、
袁術将」の戚寄、秦翊を誘って曹操のもとに投降するのも同じ年だろうか。
しかしそれ以外はよく分からない。
周瑜や劉馥の離反が大事を招いたとも思われない。


だが、後漢書が「術兵弱,大將死,眾情離叛」と書くように
散発的な離反が相次ぎ、それが勢力の瓦解をもたらしかのかも知れない。


前回の魯粛の記事で書いたが、
鄭寶、張多、許乾といった小軍閥
江淮の地で発生したのもこの頃だろうと思われる。
あるいは199年に入ってからか。


この袁術の最後の局面で
一番気になるのはどこか。
それは廬江太守の劉勳の動向である。


袁術死後、その妻子は劉勳を頼ったという。
江表伝によれば、袁術死後、
從弟の袁胤、女婿の黃猗らが壽春を捨てて劉勳を頼ったというから
この時の話であろう。
𤅬山により南北に分断される廬江にあって、
劉勳は皖城を拠点にしていた。
廬江太守とは言え、劉勲の勢力範囲は、
この𤅬山以南の一帯だけかも知れない。


また、袁術の死後、
長史楊弘、大將張勳が孫策のもとに出奔しようとしたが
劉勳はこれを攻撃して捕虜にしたともいう。


劉曄伝によれば、劉勳の兵は江淮において精強で、孫策はそれを憎んだという。
その精強というのは、袁術残党を吸収したがゆえなのか、
それ以前から精強であったという話なのかは分からない。
が、それ以前からある程度の戦力を整えていたからこそ、
張勳らを破ることが出来たのだと思う。


こうして考えて見ると、新たな疑問が湧く。
なぜ袁術はこの劉勳を頼らなかったのだろうか。
劉勳を頼って皖城に拠点を移すとか、
あるいは劉勳を呼び寄せて寿春を固めるとか、
まだまだ選択肢はあったように思える。
少なくとも山中に逃げ込もうとするよりは、である。


だが、それをしなかった。
劉勳を頼るのは山中に逃げるよりも悪手、
という判断があった可能性もないではないが、
劉勳を頼ることができない状況だったのではないだろうか。


つまり、劉勳は袁術から離反していたのではないか。
劉勳はもともとは袁術の「故吏」と書かれるが、
一方では曹操とも旧交があり、
のちに曹操に投降してからは優遇されることになる。
197年の反袁術同盟に参加したとは思わないが、
その後、離反者が相次ぐ中で
次第に袁術と距離を取り始めたのではないだろうか。
そして袁術もそれに気づき、不信の念を募らせた。
たとえば、飢饉に際して寿春への支援を要請しても、
いろいろと誤魔化しを言いながら、それに応じなかったとか。
曹操との間に使者の往来があり、それがバレたとか。


ではなぜ袁術の妻子や袁胤は
劉勳を頼ることができたのだ、という疑問はある。
だが、袁術本人と、その妻子とでは全く状況が異なる。
「死に体」の主君、まして皇帝を僭称した者が
自陣に逃げ込んでくるほど恐ろしいことはない。
その主君にすべてを投げ出して臣従したとしても、
なにかと警戒されて処刑される可能性はある。
であれば先に殺すしかない。
劉勳には袁術本人を受け入れることは出来ないし、
袁術にも劉勳を頼ることは出来なかった。


こうして考えて見ると、
やはり劉勳と袁術の関係に亀裂が入っていた可能性は十分にある。
そしてそうであるならば、それはやはり198年中頃のことかも知れない。
それこそが袁術軍崩壊を引き起こす、
直接的なきっかけだったのかも知れない。


最期に、劉勳の離反がなかったとしたら、
他に何が起こり得たか、ということを考えてみたい。


袁術は皇帝を僭称すると、
九江太守を淮南尹に改称し、公卿百官を置いた。
皇帝僭称前、陳紀が九江太守であり、
惠衢が(袁術側の)揚州刺史であった。
また謀臣としては李業がおり、もしかしたらこの人は
袁術のもとで三公になっていたかもしれない。
あるいは軍人で言えば、
197年に小沛にいる劉備征討軍の指揮官であった紀霊。
彼らの消息は不明である。


そして、見落としていけない人物としては孫香がいる。
孫香は孫策の族兄である。
呉景が袁術広陵太守となった頃、
孫香は袁術の汝南太守であった。
袁術が皇帝を僭称すると、孫策は呉景と孫賁を呼び寄せたが、
孫香は遠くにいたため、孫策のもとへ行くことが出来なかった。
孫香は袁術の征南將軍となり、寿春で死んだという。


中文Wikiではこの孫香の死について「病逝」と書いている。
病死とする根拠はなにかあるのだろうか?
どうも怪しい。
確かに戦死などであれば、それについて史書が触れてもおかしくないはずだが
そうした描写がないからといって、
それをただちに病死と見なして良いはずもない。
ではこう考えてみる。
孫香が病死でないなら、どう死んだのか。
それは処刑か、戦死か、であろう。


処刑とはどういうことか。
孫賁は寿春にあって兵を領していたが、孫策のもとへ逃走したという。
族兄弟の孫香も疑いの的になった可能性はある。
あるいは離脱者が相次ぐ中で、それを防止するため、
離脱者の親族が処刑されるということもあったかも知れない。


次に、戦死とはどういうことか。
この間、寿春が戦闘に遭ったということはない。
呂布袁術領に侵攻した際も、寿春には到達していない。
それでも寿春に死んだという孫香の死因が戦死であれば、
それは内乱が起きたということである。


そして寿春で内乱が起きていたということであれば、
先の李業、陳紀、惠衢、紀霊らが消息不明の理由にもなり得る。
また、袁術が山中への逃亡を考えるほど追い詰められた理由にもなる。
この場合は、それが198年中頃に起きたとは思わない。
おそらく、呂布曹操と戦っている最中、
198年の終盤に起きたのではないか。
呂布が敗北に向かう報に接し、恐怖した臣下が
寿春で反乱を起こしたかも知れない。
その反乱は鎮圧されたのだろうが、
おそらく寿春は物資を焼失し、住民は逃亡し、
袁術はお先真っ暗という状態になったのかも知れない。


もし劉勲の離反がなかったとしても
曹操と旧交のある劉勲を疑うような心境になっていたのかも知れない。
その袁術にとって、唯一頼れそうな相手が
「部曲」の陳蘭、雷薄であったということか。
その彼らが袁術を拒んだというのは、
もしかしたら寿春内乱の前後に、
袁術による処刑なども横行しており、
それが受け入れ拒絶の理由だったのかも知れない。


以上、想像に次ぐ想像で書きなぐり、冗長な記事となってしまったが、
197年の敗戦や飢饉だけで
199年の袁術軍の急激な崩壊の理由とすることはできない、
そこには何か別の要因があったのではないか、
というのが本稿のまとめである。


※およそ書き終わったところで、張範伝も確認しておく必要があると気づいた。
張範兄弟は江淮に疎開しており、袁術には仕えなかったものの、
何度か諮問を受けた。
そのひとつに、曹操冀州進出を目論んでいる時期のこととして
曹操袁紹に勝てるか、という問いがある。
これはおそらく199年の中頃以降のことだと思われるが
そうであれば、袁術軍は崩壊目前の時でもある。
この張範伝の逸話自体の信憑性が疑われるのか、
あるいは、袁術の衰亡に関して新たな考察をする資材となり得るのか。
よく分からないので、これを考えるのはいったん先送りとする。