正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

孫策と二張(張昭と張紘)

分かっているようで分かっていない(私が)なのは、
二張はいつ孫策に仕えたか、である。


三国志演義をざっと調べて見ると
両者は孫策が劉繇攻撃に赴く際に合流している。
推薦したのは周瑜で、「江東有二張」という文句が出てくる。
だが、二張はどちらも徐州人であって、
江東(長江以南)の出身ではない。
劉繇攻撃前に孫策に合流できるなら、
その時点では江北にいた可能性が高いはず。
江東(江南)に疎開する前だったはずだ。
とは言え、これは小説の話であり、
その詳細を吟味しても仕方がない。
しかし、このような整合性のない脚色がなされたのは
ひとえに両者の具体的な仕官時期が不明だからだろう。


二人のうち、張紘の方が情報は豊富である。
張紘伝によれば、張紘は京都の遊学から戻った後、
仕官せずに故郷にいた。
その後、江東に避難し、孫策が創業するとそれを支えたという。


孫策伝からは、より詳細な状況が分かる。
孫堅が義兵を起こした頃、孫策は母と共に廬江の舒県に居留した。
ここで周瑜と友人となる。
そして孫堅が死に、その亡骸は曲阿に葬られたが(なぜ?)
しばらくすると(孫策は)長江を北に渡って、江都に住んだ。
しかし徐州刺史の陶謙孫策を警戒したため(なぜ?)、
孫策は母を曲阿に移すと、自分はおじの丹陽太守の呉景を頼った。


注の呉歴が孫策と張紘の邂逅を記している。
それによれば、孫策が江都にあったとき、
張紘は喪中であったが、それを孫策が訪ね、
時世について諮問した。
この時、孫策の真心ある言葉に張紘も感じ入り、
両者に結びつきが生まれた。
会話の内容をどこまで信じていいかという問題はあるが、
呉景が丹陽太守であることが語られ、
また袁術を「袁揚州」と呼んでおり、193年中頃のことと思われる。
そして、孫策は「母と弟を貴方に預ければ後顧の憂いはない」と言う。
つまり、関係性は生まれたとはいえ、
張紘は浪人状態の孫策の臣従したわけではない。
この頃に孫策に従っていたのは、呂範や孫河だけ、とも書かれる。


さて、孫策は江都にいたが、張紘はどこにいたのか。
張紘は「廣陵人」と書かれる。
これは「廣陵郡の出身だが、出身県は不明」な可能性もゼロではないが、
「廣陵郡廣陵県の出身」を意味する可能性は大きい。
江都と廣陵県はきわめて近い。
二人の出会いのエピソードの真実性が高まる。

 




しかし気になるところもないではない。
朱治伝によれば、朱治孫策と劉繇が事を構えた頃、吳郡都尉だった。
そしておそらく朱治は錢唐県にいたと思われるが、
曲阿にいる孫策の母と弟(孫権ら)を迎え入れた、という。


孫策の母と弟たちは張紘が庇護していたのではなかったのか。
あるいは、曹操の徐州侵攻(193年秋~)に合わせて
張紘もまた江東に疎開した、そして孫策の母らも曲阿に移ったのだろうか。
曹操自体は徐州の下邳国中部あたりまでしか侵攻していない。
だが、この戦闘で下邳国相の笮融が逃亡して廣陵太守の趙昱を頼り、
後に趙昱を殺害して(廣陵を)大いに略奪して江東に去る、
という騒乱が起きる。
笮融は劉繇を盟主に頂いて、丹陽郡の秣陵縣に駐屯する。


しかし張紘はしばらく史書から姿を消す。
再び登場するのは呂布の逸話においてである。
韋昭の呉書によると、呂布が徐州を奪うと、
張紘を茂才に推挙して、召しだそうとした。
張紘はこれを恥に思い、孫策もこれを拒絶するのだが、
これは単に呂布が徐州を奪った時期の出来事ではなく、
袁術同盟が築かれた時の話なのだろう。
であれば、呂布孫策陣営に公然とちょっかいを出すのは
おかしなことではない。
つまり、197年中頃の話であろう。


では張紘はいつ孫策に合流したのか。


①笮融により廣陵が混乱に陥り、
それに伴い、江東の曲阿に移住し、劉繇の勢力下にいた。
それを孫策が打倒し、そこで両者が再会したのだろうか(195年頃)。


②あるいは、張紘は故郷に残っていたが、
孫策が曲阿を落とした時点で江東に赴き、
孫策に合流したのだろうか。


③あるいは、次に廣陵に災難が降りかかったタイミング、
つまり袁術が淮水沿いに徐州に侵攻した196年、
この頃に江東に避難し、孫策に仕えたのだろうか。


私は最近、この③に傾きつつあった。
つまり、孫策陣営への合流時期はかなり遅くなるのだが
これこそが真実なのではないかという思いがあった。
ただしこの場合は少し気になることがある。


陶謙が194年の終盤に死に、劉備がそれを引き継ぎ、
しばらく徐州には平穏が訪れる。
袁術が徐州に侵攻する196年中頃までに
劉備が張紘を召しだすことはなかったのだろうか、という疑問がある。


この疑問を重視するのなら、
①のケース(劉備時代には張紘はもういなかった)が答えとなる。


ただし、この頃の価値観として、
自分の出身地の統治者(郡守など)が殺害されると
それを恥に思う(そして殺害した者へ復讐心を抱く)というのがままあるが
張紘は、笮融と同盟する劉繇の元におめおめと疎開したのか。
そういう疑問も湧いてくる。
なかなか答えは出ない。


張紘は最後まで孫策の家族を庇護していなかった件については、
そもそも呉歴のその逸話が脚色されたものである(庇護の約束はない)、
または、途中で庇護から外れた、それぞれの可能性があろうか。
たとえば193年秋の曹操の徐州侵攻では廣陵はまだ安全であったが、
孫策の母(呉夫人)あたりが決断し、
いち早く江東へと移ったのかも知れない。
だが、劉繇が袁術と敵対したので、結果的には危険な判断となった。


さて、次に張昭である。
二張と並び称されるが、やはり張昭こそがビッグネームという気がする。
なお、正史三国志には二張という表現は出てこないが、
孫権が張昭を張公と呼び、
張紘を東部と呼び(張紘は會稽東部都尉であった)、
他の群臣を字(あざな)で呼ぶのとは区別したとあり、
そういう意味でも二張という呼称(後代の創作とは言え)は秀逸であろう。


演義ではvs劉繇戦で進言を行う張昭だが、
正史にはやはりそのような記述はない。
それどころか、いつ孫策に仕えたのか、
あるいはいつ江東に避難したのか、手がかりが極めて少ない。


徐州人の張昭だが、陶謙の招聘に応じず、
怒りを買って拘禁されるという事態に遭遇している。
しかし韋昭の呉書には張昭が陶謙の死に向けた哀辭を載せており、
けっして仇敵関係にあったというわけではなさそうだ。
その拘禁事件を救ってくれたのが趙昱であった(また出てきた)。
徐州人の張昭、趙昱、王朗は共に名を知られ、親交があった。
さて、拘禁事件のあとのことである。
漢末の動乱で多くの徐州人は揚州へと避難したが
張昭もまた長江を渡り、孫策の創業を助けた、という。


端的に言えば、張昭の疎開と出仕の内容は、これだけである。
ここから可能性を絞っていきたい。


まず、陶謙が徐州刺史となったのは
そもそも徐州の黄巾賊(188年発生)討伐のためである。
孫堅董卓軍を破り、一時洛陽に入ったが、
その頃に徐州への援軍として朱治を派遣している。
これはおそらく191年頃のことで、
徐州の治安回復は191年いっぱいまで掛かったかも知れない。
192年になると陶謙はだいぶ余裕が出てきて、
朝廷工作も始める。
張昭を拘禁するという事件も、ある意味で余裕の表れと言えるので
この頃のことかも知れない。


もっとも、拘禁事件がもっと前であれば、
解放後にも徐州黄巾の乱は継続していたわけであり、
いつ揚州に疎開してもおかしくない。
これだけと可能性は絞り込めないので、
まだ張昭は徐州に残っていたして、考察を進める。


その場合、次の疎開のタイミングは、
やはり曹操の徐州侵攻であろう。
張昭は「彭城人」と書かれる。
おそらく彭城郡彭城県の出身であり、
193年秋から194年春にかけての曹操の徐州侵攻(第一次)、
これにより彭城は破壊しつくされたと思われる。
疎開の原因はこちらなのか。


193年には趙昱は廣陵太守となっている。
廣陵は曹操の徐州侵攻の範囲外である。
下邳国相の笮融が逃亡して趙昱を頼ったのもその証左である。
のちに廣陵太守となった陳登は射陽県に駐屯するが、
趙昱がどこにいたかは不明である。
後漢書の地理志を見ても、
廣陵郡治がどこかは明言していない。


いずれにせよ、いったん趙昱を頼った可能性はないのか。
そして趙昱の横死により、張紘などと同じく、
曲阿に移住した可能性もあるのか。
そして孫策が曲阿を陥し、それが仕官のきっかけとなった。


先ほどは書かなかったことをふと思ったが、
この場合、張紘や張昭はなぜ劉繇に仕えなかったのか。
張紘は孫策と旧知であり、「相思相愛」であった。
張昭はその張紘から孫策の話を聞いていたのだろうか。


あるいは疎開の本来の目的、「生存」が念頭にあったのかも知れぬ。
もし曹操の徐州侵攻後に曲阿に来たのなら
それは袁術と劉繇の関係が悪化していった時期でもある。
戦争へ突入する劉繇陣営に身を託すほど
劉繇との個人的な関係は深まらなかったか。


実際、孫策に敗れた劉繇の逃避行に同行したのは
劉繇と同郷の青州人が多い。


そもそも、張昭と張紘の関係性もあまりよく分からない。
それを言うなら、実は孫策と張昭の関係性も
よく分かっていない。具体的な逸話がない。


もちろん張昭と張紘が同行していなかった可能性はある。
張昭が194年から曲阿におり、195年に孫策に仕官。
張紘は196年に袁術の徐州侵攻を避けて
始めて江東に移住し、孫策に合流。
そういう可能性もある。


張昭と張紘とは共に孫策の参謀となり、
ひとりは常に留守を預かり、ひとりは常に従軍したという。
また、「張昭、張紘、秦松、陳端らが孫策の謀主になった」、
「張昭、張紘、秦松が上賓となった」など
重用されたことを示す表現はある。


また、張昭が晩年に孫権とたびたび揉めた際、
太后孫権の母)と桓王(孫策)は陛下(孫権)を
私めにお預けされた」という言葉を残している。
実際、死に際に後事を託すだけの関係性はあったのだろう。


孫策が張昭をどのように評価していたか、
その言葉も知りたかったものである。


さて、上にフラっと出てきた秦松、陳端のことは
三国志ファンであれば知っていようが、
彼らは孫策の信任を受けたという意外は事績がろくに残っていない。


むしろエピソードに事欠かないのは虞翻である。
二張以上に孫策から重用されたのではと思うほどである。
つまり、二張という括りは、孫権時代を含めての評価なのではないか。
虞翻孫権時代は疎んじられ、ついには南方に配流された。
孫策が長生きし、虞翻に活躍の場がもっと与えられていたら
「二張一虞」と称されていたやも知れぬ。


などと最近は考えていたところで、ふと思った。
虞翻は王朗に仕えた。
では張昭が王朗に仕えた可能性はないのか。
張昭は趙昱、王朗と親交があった。
江東に渡ったとして、もう少し足を延ばして、
会稽太守の王朗を頼る方が話の筋が通るのではないか。
汝南人の許靖が旧知の王朗を頼った例もある。
王朗が敗北すると、許靖はさらに交州へと逃げた。
一方、虞翻孫策に仕えることとなった。
王朗は孫策に譴責されながらも命は許された。
張昭も虞翻と同じ道をたどったということはないのか。
会稽郡の郡治は山陰県である。
王朗を頼ったのなら、山陰に居留していた可能性は高い。


もし張昭が195年に曲阿で孫策に合流しているのなら
196年のvs王朗戦でどういう態度を取ったのかは気になる。
降伏の呼びかけなり何なりで、役割があったはずである。
旧友への降伏勧告などは
あまり名誉あることではないので史書が書き残さなかったのか。
あるいは、やはりこの時はまだ孫策に仕えていなかったのか。


張紘の時も書いたが、劉繇は笮融と同盟した。
張紘にとって趙昱は郷里の太守であり、
張昭にとって趙昱は旧友である。
張昭にとって劉繇が含みのある相手ならば
劉繇ではなく王朗を頼る方が筋が通る。


もしそうだとするなら、
孫策は196年の中頃に至るまで、
二張のどちらも手に入れていなかったということもあり得る。
周瑜も195年の曲阿平定後に離脱。
孫策に再合流するのは198年だ。


その頃の孫策陣営のメンバーを書き出し、
誰が戦略立案に関与していたかを考えてみるのも一興だろう。
たとえば徐琨の母(孫堅の妹)は
vs劉繇の長江渡河に関して秀逸な助言をしており、
呉夫人(孫堅の妻)も知略の人として知られる。
もしかしたら意外な人たちが孫策のブレーンだったのかもしれない。