正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

涼茂②

前回の続き。
前回はアップしたあとに気づいたことがあり、追記してある。
公孫度青州に拠点を持っており、
曹操陣営の領域である北海郡、城陽郡からであれば
袁紹の勢力圏を通らずに遼東半島に行けそうだ。
それならば199年以降のどのタイミングに
樂浪太守となっても問題はない。
ただし、太守任命が公孫度対策と関係あるならば
袁紹との開戦前夜の199年に任命するのが自然だろう。

 

さて、涼茂は遼東半島に渡ると
公孫度はこれを引き留め、樂浪郡へ行かせなかったが
涼茂が公孫度に屈服することはなかった。」
私の推測では、抑留されることは想定通りで、
ただし公孫度の属官任命などは受けず、
客分として、曹操陣営の使節として
意見を言う立場にあったのではないだろうか。

 

このあと、曹操が鄴を留守にして遠征した際に
公孫度は鄴襲撃を群臣に提案した。
涼茂は意見を求められると正論をもってこれを諫止した。

 

これについて裴松之が自分の見解を述べており、
公孫度が死去したのは204年で、
曹操が鄴を平定したのも204年であり、
その後に鄴を留守にするのは柳城遠征(207年)のため
この逸話に疑義を示している。

 

だが裴松之の分析も正確ではない。
曹操は鄴平定後も
204年末には平原、205年初には勃海を攻撃している。
もっともこれは同じ冀州内の軍事作戦であり
遠征とは呼び難いかも知れない。
そして、もし公孫度青州経由で鄴襲撃を目指すとしても
おそらく曹操に待ち構えられることになる。
そういう距離感である。

 

(※この205年初の勃海攻撃で袁譚は死亡。
袁譚の根拠地であった青州張遼が攻撃し、
遼東賊の柳毅らを破ったという。
柳毅は別のところでは公孫度の部下として名が見える。
おそらくこの時に公孫度青州の拠点を失ったかも知れない。
だがこの地域は袁譚の残党と、黄巾賊、海賊集団とが蠢き、
しばらくは安定しない)

 

だがそれ以降にも州外への遠征はある。
205年4月に幽州で反乱が起きるとこれを平定に赴き
(正確な出征時期は不明)
鄴に帰還するのは205年10月である。
また、この時期に反乱した高幹討伐のため、
206年1月に并州に赴いている。
いずれも州外とは言え、鄴に近いと言えなくもないが、
遠征先で相手に粘られた場合には
鄴襲撃のチャンスはゼロとは言えない。
とりわけ、幽州反乱には烏丸が絡み、
平定が長期化した可能性はある。
そして幽州反乱には高幹が関与していた可能性のあることは
以前の記事で少し触れた。
同時期には東海国で昌豨も反乱している。
青州もまだ安定化しておらず、
206年中ごろには曹操自ら青州へ「海賊平定」に向かう。

 

もし鄴襲撃を涼茂が諫止した逸話が
ゼロから生み出されたものでないなら
この205年の幽州反乱と連動していた可能性はあると思える。
青州の拠点は失っていたかも知れないが
まだ不服従な勢力は多く
公孫度の上陸作戦は歓迎されたはずだ。

 

では柳城遠征(207年)の時の可能性はないのか。
もちろんそれも無いことはないが
前年に領内の不安要素をことごとく取り除いた後となる。
このタイミングでの鄴襲撃は、
むしろ205年よりも難易度が高いのではないか。

 

さて、考えるべきは、205年の逸話だとして
その時に公孫度は死んでいるということだが
もしかしたら公孫度の没年が205年とか206年なのかも知れない。
またはこの逸話は公孫康のものかも知れない。

 

公孫度は遼東に自立しただけでなく、
対外的には扶餘、高句麗、烏丸とも戦い、
紛れもない傑物であろう。
自領においては暴君的な面もある。
その公孫度なら、慢心から鄴襲撃を考えた可能性もありそうだし、
逆に、リアリスティックな思考から、
そのようなことはおくびにも考えなかったかも知れない。
何とも言えない。

 

では公孫康はどうか。
204年(?)に後を継いだ2代目の彼は
もしかしたら楽天家であったかも知れず、
もしかしたら自分を証明しようと野心を膨らませていたかも知れない。
正解は分からないが
彼が鄴襲撃計画の逸話の主人公であっても違和感はない。

 

鄴襲撃計画の考察はいったん終える。
このあと、召還されて魏郡太守、甘陵相を歴任。
そのあと曹丕の五官將長史となるが、
これは211年1月のことであろう。

 

次に考えるべきは
「いつ召還されたのか」
「なぜ召還されたのか」
ということである。

 

そう言えば涼茂なんて奴いたなと、
曹操が急に思い出したから、というわけではあるまい。
召還するにふさわしいタイミングだったはずだ。

 

また気になるのは、
涼茂が遼東にいる間、その音沙汰があったかどうかだ。
もしかしたら涼茂が使者に手紙を託して
情報のやり取りがあった可能性もゼロではないだろうが、
もっと可能性が高いのは
曹操公孫度公孫康との間の連絡だ。
その際に公孫度側は

「涼伯方クンは郡に行かせず、
襄平に留まってもらっておりますが、快男児です。
様々な助言をしてくれます」

くらいの軽口を伝えたかも知れない。
河北での曹操の勝ち星が増えていくたび、
そのような使者の往来も増えただろうか。
あくまでも推測である。

 

そしてそのような涼茂を呼び戻すとしたら
それにふさわしいタイミングがあった。
それは柳城遠征で曹操が烏丸を破ったときか。
公孫康のもとにやってきた袁尚兄弟を斬ったときか。
もしかしたら袁尚兄弟の首を持ち帰ったのは
涼茂かも知れない。
もし袁尚兄弟の処刑に涼茂が関与していたら
史書はそれを手柄として記載するはずだが
それはない。
そして、涼茂は帰還後も列侯には封じられていない。
もっとも同時期に烏丸対策で活躍した牽招も
列侯には封じられていないので
それをもって何かを推測するのは難しいかも知れないが。

 

しかし爵位を与えられなかったのことを重視してみると
涼茂の遼東行きは、
綿密に計画された「公孫度対策」のミッションではなかったのかも知れない

 

召還のタイミングとしては
もっとも早いものだと青州の混乱が収まった206年秋/冬頃となろうか。
袁尚兄弟の死後であれば207年秋/冬頃。

 

召還された涼茂は魏郡太守となる。
後漢の初め、冀州の州都は常山國高邑県だったようだが、
この時代は違ったろう。
曹操は204年8月の鄴平定の翌月に冀州牧となった。
州の政庁が置かれたのは間違いなく魏郡の鄴県だろう。
鄴は長期におよぶ包囲戦でボロボロになったはずだが
袁氏2代が10年に渡り発展させていたのだろう。
他の県に代えることは考えられなかったのだろう。

 

数年ぶりに召還された涼茂が魏郡太守に任命されたのは
そこに絶対的な信頼があることの証明であり
また、あるいは爵位とは別の「褒賞」だったのかも知れない。

次回に続く。