正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

魯粛のこと(劉曄、鄭宝とのこと)

前回、二張(張昭、張紘)の孫策への仕官時期を考えた。
似たところで気になるのは魯粛である。
魯粛孫策に仕えたのか、そもそも出会ったことがあるのか、
ということがよく分からなくなる(私が)。
また、その頃の魯粛を考えようとした時、
整理しなくてはならないのは劉曄、鄭宝のことである。


まず魯粛伝を見ていく。
魯粛は「臨淮東城人」と書かれる。
これは後代の区分であり、
後漢末においては下邳國の東城県の人、となるはずだ。
ここには少し問題が残る。
というのも、もともと下邳國の地は徐州臨淮郡であり、
永平十五年(西暦72年)に改称され、
明帝の子の劉衍が下邳王となった。
79年に下邳國は拡大する。
原文はこうである。
>臨淮郡及九江之鍾離、當塗、東城 、歷陽、全椒合十七縣益下邳國


これをどう訳すのが適切か分からないのだが
後漢書での他の箇所での「縣益」の用例から見るに、
「下邳國に十七縣を足した」というのが正しいのだろう。
であれば、下邳國設置の当初、
臨淮郡が丸ごと下邳國になったのではなく、
臨淮郡としても12県が残っており、それと九江の上記5県をもって
合計17県を「足した」ということなのか。


後漢書の郡國志においては下邳國は全17県が記載されている。
そこの「東成」県というのがどうやら「東城」なのだが、
「鍾離、當塗、歷陽、全椒」はそこには載らない。
こちらは揚州九江郡の方に載っている。


純化して考えると、
下邳國設置の当初、臨淮郡のうちの4県を封土とした。
つぎに、臨淮郡の残り13県(東城を含む)と、
揚州九江郡の4県、合計17県を下邳國に足した、ということなのか。
しかしこれは何か疑わしい。
そもそも後漢書の郡國志は少し信用ならない。


なお、西晋においては下邳國と臨淮郡は並置されるが、
晋書の地理志においては東城はそのどちらにも属さず、
揚州淮南郡の所属となる。


もう一つ考えるべきことがある。
中平元年(184年)、黃巾の乱に際して
下邳國王の劉意は国を捨てて逃げた。
賊が平定されたあと、数か月で薨去した。
子の劉宜があとを継いだが、数か月で薨去し、子はなかった。
建安十一年(206年)に國は廃止された。
劉意には8人の弟がいたので
傍系からいくらでも後継ぎを迎えられたはずだが、
それがなかったのは後漢末のゴタゴタの時期だからだろうか。
あるいは、後漢書に記載されていないだけで
劉宜のあとも後継者が立っていたのだろうか。
206年、複数の国が廃止されたが
いずれも王が空位であったところを正式に廃止したのだと思われる。
やはり劉宜のあと、後継ぎはいなかったのだろうと思う。


劉宜の死亡(185年頃か)から206年までの
下邳國の動向が気になっている。
王が不在となった段階で、国は縮小されたのだろうか。
それとも、79年の下邳國拡大後、国の拡大縮小は記されないが、
劉宜の時代以前に縮小していたこともあったのだろうか。
それがなければ、魯粛の時代も東城県は下邳國に属していた。

 


いったん東城県の話は措いておいて
魯粛伝の序盤を時系列でまとめてみる。


周瑜が居巢長となる(197年春以降)
周瑜魯粛に会いに行く(居巢から東城県に?)。
魯粛周瑜に資産を分け与える
袁術魯粛を東城長に任命する
魯粛はこれを受けず、一族郎党を連れ周瑜を頼る
周瑜が江東に渡ると、魯粛は同行した(198年)。
魯粛は曲阿に住んだ
・祖母が亡くなり、東城に戻り埋葬した。
・旧知の劉曄が手紙を送り、魯粛に鄭寶を頼るよう勧める
※鄭寶は巢湖におり、万余の衆を擁していた軍閥である
魯粛はそれを容れ、いったん老母を迎えに曲阿に戻る
・その頃、周瑜魯粛母を呉に移していた
魯粛周瑜に事情を語る
・その頃、孫策は死去しており、周瑜孫権への仕官を勧める
魯粛はそれを容れ、孫権に面会した


この記述の間、注として韋昭の呉書があり、
その後段部分もまとめておく。


・中原が乱れると魯粛は一族に相談し、江東への移住を決断した。
・道中、州兵に追われた
魯粛は「追わなくても罰は受けまい」と州兵に呼びかけた
・また、弓を引いて見せて州兵を威嚇した。
・州兵は引き返した
魯粛は渡河して孫策に面会し、孫策魯粛の才能を認めた


韋昭の呉書がこう書く以上、
孫策魯粛が出会ってるというのはウソとは思われない。
魯粛孫策に仕えたかどうかは不明だが
それはまた別の話である。


気になるのは、韋昭の呉書と、三国志魯粛伝とで
整合性があるかどうかである。
韋昭の呉書では、魯粛が故郷を離れた時期は不明で、
向かった先もどこか分からない。


そしてここで冒頭の下邳國の話に戻る。


州がこれを追ったというのは、当然、袁術のことだと思っていた。
しかしもし東城を徐州下邳國の版図と考えるなら
ここでいう州とは徐州のことなのだろうか。
いや、後漢末の東海國王は、徐州東海國だけでなく
豫州魯國をも封土としており、
豫州刺史から弾劾を受けたことがあった。
それと同様に考えれば、
「九江之鍾離、當塗、東城 、歷陽、全椒」は下邳國王の封土であると同時に
揚州にも属し続けたということになり、
魯粛を追ったのも揚州の兵ということなのだろうか。
そこは微妙なところだ。


とは言え、三国志もまた韋昭の呉書に依拠しているはずで、
であれば、周瑜にいる居巢県へ向かう時の話であるに違いない。
追ってきたのは袁術の支配する揚州兵の可能性が高いと思うが、
時期的には呂布は徐州南部を袁術から回復したタイミングであり、
確定的なことは言えない。


実は魯粛伝本文と韋昭の呉書とで矛盾があり、魯粛伝が大きく間違っており、
魯粛周瑜とは関係なく江東へ避難した可能性もゼロではないが
今回はそれは無視して話を勧める。


この間のことを周瑜伝からも確認する。
袁術が皇帝を僭称すると(197年春)、
周瑜は江東へ逃げることを考え、まず居巢県長への就任を要望した。
そして実際に孫策に合流したのは198年だというが、
これは意外とのんびりしていたということなのか。
あるいは居巢長となるのを許されたのが197年の後半で、
江東へ逃げたのが198年の初頭ということもあるのか。


しかし、居巢長となった後、周瑜は遥か遠くの魯粛のもとへ赴き、
「資糧」の援助を求めた。
そしてその後、魯粛周瑜を頼って居巢へと向かう。
これはそれなりの期間に渡った出来事のようにも思うが、
それなら周瑜が居巢に留まっていた期間は
短くはないのかも知れない。


周瑜袁術のもとを去らんがために居巢長となったというが
もう少し複雑なドラマがあったのかも知れない。
たとえば、当初は袁術陣営を離脱する意思は固まっていなかったか。
周瑜の從父の周尚も消息不明である。
もしかしたらこの間に周尚の死去などもあったのかも知れない。
いずれにせよ、周瑜孫策に合流したのが198年というのは疑うべくもない。
そして魯粛もその時に一緒だった。
そして孫策とも会っていた。
ただしその後の動向を見ると、孫策には仕官していないように思える。
あるいは賓客待遇となり、官職を与えられなかっただけかも知れない。


このあとの魯粛を考えるには、劉曄伝も見ねばならない。


劉曄は以前に少し書いた。
劉曄は淮南成悳人である。
この時代、漢の皇室の血を受け継ぐ人物が数多活躍するが
そのほとんどは前漢の皇族の末裔である。
後漢光武帝の血を引いているという意味では
劉虞と劉曄がレアな立ち位置である。


劉曄は199年時点で「20余歳」だったので
172年生まれの魯粛より数歳若いだろうか。
劉曄袁術に仕えた形跡はなく、
その袁術軍の瓦解による混乱を掻い潜るも故郷に留まり続け、
のちに揚州に到来した曹操に帰服する。
これは209年のことと思われる。
袁術亡き後しばらくしてからは
淮南は曹操陣営が支配しているわけだが、
そこにいた揚州刺史の劉馥に仕えたかどうかは不明である。


その頃の記述を時系列でまとめていく。


・揚州では鄭寶、張多、許乾らが私兵を有して(割拠していた)
・鄭寶は人々を駆り立て、江表(=江南)に行こうとしていた
・鄭寶は劉曄をこの計画に巻き込もうとした。劉曄はこれを憂えた
・その頃、曹操の使者が来ており、劉曄は面会した
・鄭寶もその使者に会いに来たが、隙を見て劉曄はこれを殺害した
劉曄は鄭寶殺害を曹操の命だと告げる。鄭寶の配下は劉曄に帰伏した
劉曄は廬江太守の劉勳に身を寄せ、鄭寶の配下たちを委ねた
孫策が劉勳に勧めて、豫章の武装勢力の「上繚宗民」を攻撃させようとした
劉曄はこれに反対したが、劉勳はついに上繚攻撃に向かった。
孫策は劉勳の背後を襲い、劉勳は曹操のもとへと逃走した。


ここで魯粛伝と比較したとき、主に2つのことが気にかかる。
1つ目は、劉曄魯粛に対しては鄭寶との合流を勧めておきながら
自分自身は鄭寶の計画に対して賛成できず、殺害に至っている点である。
劉曄は智謀の士だが、これはたんに目論見が外れたということか。


2つ目は時系列の問題である。
・鄭寶の死亡
→劉勳の敗北
孫策の死亡
魯粛孫権と面会


この順番は絶対なのだが、
この流れに魯粛伝、劉曄伝を組み込んで違和感がないかどうか。
情報を統合してみる。


・198年、魯粛周瑜に同行して江東に渡る
魯粛孫策と面会する。魯粛は曲阿に住む
・祖母が亡くなり、魯粛は東城に戻り埋葬する
・旧知の劉曄が手紙を送り、魯粛に鄭寶を頼るよう勧める
劉曄自身は先に鄭寶に合流する
魯粛は母を迎えに曲阿へ向かう
曹操の使者が淮南に到来する
劉曄が鄭寶を殺害し、廬江太守の劉勳を頼る
・劉勳が「上繚宗民」攻撃に向かう
孫策が背後から襲い劉勳を破る。また廬江の皖を陥す。
孫策はそのまま西征し、黄祖と戦う(199年12月)。
・帰還の途上、豫章太守の華歆を降伏させる
孫策が死去する(200年4月)。
魯粛周瑜と会い、事情を語る
魯粛孫権と面会する


こうしてみると、確かに(私にとって)違和感のあることが確認できた。
というのは、魯粛周瑜と再会して語った内容は、
当然、鄭寶を頼ろうという劉曄の提案の件だと思っていたが、
その頃、鄭寶はとっくに亡くなっているということだ。


原文を見るとこうある。
「肅具以狀語瑜」
具以狀というのは頻出語で、「つぶさにありのままに」と解すればいいようだ。
つまり、鄭寶のことだとは決めつけられない。
鄭寶の死も含め、孫策の死も含め、
目まぐるしい情勢の中での身の振り方について
周瑜と話し合ったということなのか。


ひとつの判断として、母と共に故郷に戻るという判断があったはずだ。
そうすれば曹操の勢力圏である。
しかし、孫策の死のあたりであれば官渡の戦いの最中である。
帰郷が一番の安全策とは思えないふしがある。


しかし違和感というのは周瑜との語らいだけではない。
袁術に関する問題が残っている。
そもそも魯粛は江南に避難する直前、
袁術による任官を拒否している。
その魯粛がなぜ一時的に故郷に帰ったのか。
帰ることが出来たのか。


袁術を恐れていなかったか、
故郷が袁術の勢力圏を脱していたか、
袁術はすでに死んでいたか。


まず、袁術はそれほど人は殺していない。
自陣営から逃亡しようとした金尚を殺したことは史料に残っているが、
パッと思いつくのはそれくらいだろうか。
とは言え、危害を加えられないと信じるまでには至らないだろう。
普通であれば、疎開先の曲阿に祖母を埋葬する選択肢も
充分にあったはずだ。
それをせず帰郷したのは、もはや袁術を恐れる必要がなかったからだ。
東城は徐州、揚州の境界にあり、
197年の呂布の侵攻により、袁術の勢力圏を脱していた可能性はある。
また、198年に呂布袁術と再度同盟をするが、
その呂布も198年末に滅亡し、徐州は曹操が手中に収めている。


一方、袁術であるが、197年に皇帝を僭称し、
呂布を攻撃するも撃退され、さらに呂布からの侵攻も受ける。
ついで豫州方面でも曹操に完敗し、大将クラスを何名も失う。
また同じころ、呉景、孫賁周瑜孫策のもとへと逃亡。
198年に呂布と再度同盟するが、それ以外にポジティブなニュースはない。
199年に灊山の陳蘭、雷薄を頼ろうとするが拒絶され、
今度は仇敵の袁紹のもとへの逃亡を考えるも劉備に阻まれ、
199年の6月に死亡する(後漢書袁術伝)。
盛暑に死んだというが、199年6月は、現在の暦では7/11~8/9となる。


どうも、呂布の滅亡と前後して、
袁術陣営も完全に機能不全に陥っていたとみられる。
魯粛が帰郷したのは袁術死後と考えられないことはないが、
その場合、劉曄が鄭寶を殺し劉勳に合流するまでの期間がタイトになる。
袁術陣営が機能しなくなったのを呂布滅亡時(198年末)とすると、
それ以降であれば帰郷するにあたって不安は無くなっていたかも知れない。


そして袁術陣営がマヒしているからこそ、
淮南には「鄭寶、張多、許乾」という小軍閥が発生した、のかも知れない。
ただ、ここでは魯粛劉曄の立場の違いにも注意である。
劉曄が「鄭寶を頼ろう」と連絡したのは淮南が混乱しつつあるからだが
魯粛が帰郷できたのはまさに淮南が混乱しつつあるからだった。
そして、孫策存命時ならば、魯粛にとっては鄭寶を頼るなど愚策であったはずだ。
孫策死亡後なら鄭寶を頼る案もあり得ようが、
それは時系列的に成立しない。
つまり、魯粛伝が劉曄からの無用の手紙を載せただけに
無用な混乱を招いている気がする。


真実は、祖母埋葬後の魯粛が江南に戻った時、孫策は死亡しており、
今後の身の振り方について周瑜と語らった、ということだけだ。
その時、確かに魯粛は難しい判断を迫られていた。
そしてそれは劉曄自身が迫られていた判断とは全然関係がないのだ。


情報を再度整理していく。


・199年初頭、袁術陣営が機能不全に陥る
魯粛が帰郷し、祖母を埋葬する
・この頃、淮南で小軍閥が発生している
袁術が灊山の陳蘭たちを頼ろうとするも拒絶される
・この混乱に際し、劉曄は鄭寶を頼ろうと考え、魯粛にも勧める
劉曄はいち早く鄭寶に合流する。魯粛はまだ東城に留まっている
・鄭寶は江南行きを考える。劉曄はそれを憂慮する。
袁術袁紹を頼ろうとするも、劉備に阻まれる
・6月、袁術が死亡する
袁術残党の袁胤らが劉勳のもとへ逃亡する
袁術残党の張勳らが孫策のもとへ逃亡しようとしたのを劉勳が妨害する
・この頃、曹操の使者が淮南に到着。劉曄が面会する
劉曄が鄭寶を殺し、劉勳に合流する
孫策の献言により、劉勳が上繚宗民攻撃に向かう
孫策が劉勳を襲い、また、廬江を奪う
孫策がそのまま江夏に向かい、黄祖と交戦する(12月)
孫策は帰還途上、豫章太守の華歆を降伏させる
孫策が死亡する(200年4月)
・この頃、魯粛がおよそ1年ぶりに江南に戻る


この整理により、多少は違和感は減っただろうか。
敢えて帰郷して祖母を埋葬したことを考えれば、
魯粛は祖母の墓守を1年ほどしたのかも知れない。
そうした儒教的態度は魯粛に似合わないかも知れないが、
不整合とまでは言えないかも知れない。


結局のところ、謎の全てが解けたとは言えないのだが
魯粛劉曄、鄭宝を巡る時系列を整理できただけで
収穫があったものとする。