正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

2023-07-01から1ヶ月間の記事一覧

涼茂③

涼茂は遼東半島から戻り、魏郡太守となる。207年末頃ではないかと推測する。このあと甘陵相に異動となった。このあたりの細かい事績は記載されないが、魏郡太守、甘陵相として業績をあげたという。その後、曹丕が五官將となるとその長史となった。おそらく初…

涼茂②

前回の続き。前回はアップしたあとに気づいたことがあり、追記してある。公孫度は青州に拠点を持っており、曹操陣営の領域である北海郡、城陽郡からであれば袁紹の勢力圏を通らずに遼東半島に行けそうだ。それならば199年以降のどのタイミングに樂浪太守とな…

涼茂①

=====================================================涼茂は兗州山陽郡の昌邑県の出身である。若い頃から学問を好み、その議論は常に経典に依拠した。曹操によって司空掾に召されたあと、侍御史となった。泰山太守となったあと、樂浪太守に転じた。しかし…

孫乾の気になるところ

あまりカロリーの高い記事ばかり書いていると日常生活が破綻してしまうので軽めのメニューも織り交ぜていくことにする。 というわけで孫乾について、気になったこと。孫乾は北海郡の人だという。出身県は書かれない。劉備が徐州刺史となると孫乾を召して從事…

豫州刺史の郭貢

三国志の一か所にしか登場しない豫州刺史の郭貢。後漢書にも一か所登場するが、明らかに三国志の記事の流用である。兗州に反乱が起きた194年夏頃、郭貢は豫州刺史だった。 事の経緯はこうである。================================================194年夏、…

東郡太守の謎(夏侯惇、臧洪)

山東諸侯が挙兵した時、兗州の東郡太守は橋瑁であった。その橋瑁は不仲であった兗州刺史の劉岱に殺害される。191年、董卓が長安に撤兵することにより団結するための脅威を失った山東諸侯は豫州刺史の孔伷の後任をめぐって内紛を始める。おそらく橋瑁が殺害さ…

諸夏侯曹の四将(夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、そして王圖)

曹操を当初から支えた四人の親族・姻族がいる。夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪である。※ここでは前回見た曹純はいったん除いておく。 曹操の父の曹嵩は宦官の曹騰の養子となったが、曹仁、曹洪はそれぞれ曹騰の兄弟の孫であり、曹操とは「はとこ」の関係にある…

曹純の生年について

曹操を支えた「親族姻族集団」。夏侯惇、曹洪、曹仁、夏侯淵。しかしもう一人忘れてはいけないのが曹純である。 普段それほどWikiを見たりしないのだが、 記事のたびにWikiに言及している気がする。まぁ良いだろう、曹純のWikiで気になった事について書く。 …

昌豨② なぜ反乱出来たのか(205年/206年の曹操包囲網)

昌豨が曹操の何を不満に思ったのかは分からない。しかし、ただ一郡/一国の主に過ぎない昌豨がなぜ反乱できたか。しかも2度の反乱はいずれも曹操を手こずらせている。 ※後出師の表では「曹操五攻昌霸不下」とあるが、これは語呂合わせだろう。 一度目の反乱は…

昌豨はどこで反乱したか(徐翕、毛暉)

昌豨(昌狶、昌霸) 先主伝の本文と、諸葛亮伝の注では昌霸と書かれる。あるいは蜀漢においては「豨」は避諱の字であったのだろうか。 さて、昌豨はいわゆる泰山諸将のひとりであり、 呂布が敗北した際に臧霸らと共に曹操に帰伏した。このとき、臧霸は琅邪相…

九州復古

荀彧伝にこうある。曹操が鄴を平定して冀州牧を領した204年、ある人が九州の復古を進言したという。当時13州であった天下を古代のように9州に再編し、冀州の領域を拡大せんとしたのである。 私はこれはただ冀州牧の権力を強化しようとしたのではなく国家の枠…

魏公国発足時の尚書と六卿

このブログは正史を読んで気づいたことをメモするために始めたがこれまでのところはその予定を外れて考察のようなことばかりしている。なにぶん書きながら新たな気付きも多々あり、それは良いのだがその度に追加で調査しているため、時間を取られて仕方がな…

國淵と屯田制と太僕

國淵(国淵)は青州樂安国の蓋県の人である。鄭玄に師事し、後に邴原、管寧らと遼東に疎開した。帰郷後、曹操に召されて司空掾屬となり、会議においては直言して憚らなかった。屯田制を拡充することになるとその担当者となり、巧みに制度を整備し、5年も経つ…

私は袁渙が好きだ

袁渙は陳郡扶樂県の人である。郡の功曹を経て公府から召され、侍御史に移った。譙県令に任命されたが着任せず、豫州刺史の劉備には茂才に推挙された。後に江淮間に避難して袁術に仕えることになったが、いつも正論を吐いた。呂布が袁術を阜陵で破ると袁渙は…

漢の御史大夫か、魏の御史大夫か(華歆、袁渙)

曹操が献帝を奉戴した当初(196年)、曹操が大將軍、袁紹が太尉に任命された。しかし袁紹は曹操の下風に立つのを望まずに拝命を固辞(※)。そのため改めて袁紹を大將軍、曹操を司空に任命した。この少し前に楊彪が罷免されており、太尉はずっと空位となる。…

徐璆のナゾ(陶謙、劉備)

徐璆は荊州刺史として黃巾賊を破った(184年)人物だが、司隷校尉の張忠に讒言により免官となった。のちに汝南太守となり、192年、董卓死後に陶謙が朱儁を推戴しようとした際のメンバーにも名がある。その後、東海相となるが、許県にいた献帝から召還された…

陳羣の前半生について④(陳矯、戴乾)

前回のつづき ◆劉備の徐州入りに反対する 劉備は陶謙の上表により豫州刺史として小沛(=沛国沛県のこと)に駐屯していたがほどなく陶謙が死去すると(194年後半)、その後任として徐州に入る。このとき豫州別駕の陳羣は「徐州に入れば呂布と袁術に挟撃され…

陳羣の前半生について③(陳紀、焦和、孔融)

陳羣のことを長々と語るつもりはなかったが、次回まで掛かりそうだ。 ◆劉備が豫州に来る前、陳紀・陳羣親子はどこにいたか 董卓が入洛時、陳紀は都にいたようだが、陳羣が同行していなかったケースを考える。陳羣は潁川郡許県の人だが、潁川は孫堅と周喁の係…

陳羣の前半生について②(陳紀と段煨)

前回の記事で陳羣の前半生を見た。陳羣伝を中心にその略歴を記述すると次の通り。 ・劉備に召されて豫州別駕となる(194年頃)・陶謙が死に劉備が徐州に入る(194年頃。おそらく陳羣も随行)・呂布が徐州を奪う(196年頃。おそらく陳羣は呂布に降伏)・曹操…

陳羣の前半生について①

陳羣の前半生の謎を記事にしようと考察していたところ、いままで気にしていなかった事柄が壁となって表れた。それは陳羣の父である陳紀の死亡時期である。 さて、陳羣伝をもとにした彼の前半生は下記である。(袁渙伝注、何夔伝注も参照) ・劉備に召されて…

嚴幹について

裴潛伝の末尾の裴注は、魏略の記事を引き、嚴幹、李義、韓宣、黃朗の4人の詳細が語られている。彼らは魏略においては立伝されたが、陳寿の三国志ではバッサリとカットされた。 このうち嚴幹、李義は馮翊東部の出身で、同県出身なのかは不明だが若い頃に苦楽…

田豫、牽招、解儁のナゾ

三国志の田豫伝にこうある。 >文帝初,北狄彊盛,侵擾邊塞,乃使豫持節護烏丸校尉,牽招、解儁并護鮮卑。 ちくま訳ではこう書かれる。>~そこで田豫を持節護烏丸校尉とし、牽招、解儁とともに鮮卑族を監督させた。 解儁なる人物はこの田豫伝のこの箇所にし…

はじめに

私が最初に読んだ三国志演義はジュニア向けの一冊で、 内容はかなり端折られていたはずだが、それでも何故か心に引き付けられるものがあったのを思い出す。その直後に吉川三国志を手に取り、歴史群像劇に「正しく魅了された」。しかし数年して正史の三国志(…