正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

丹陽西部

孫策と丹陽郡の関連性を整理しておきたい。
この際、「丹陽西部」についても注目が必要となる。


特に調べ直さず、丹陽に関する自分の認識を書いていくが
まず地図を置いておこう。


丹陽は、丹楊とも書かれることが多い。
レアケースでは、丹揚と書かれていることもある。
いろいろ調べては見たが、どうやら「正しくは丹陽」とのことらしい。
しかし丹楊と書かれることが多いのは
何か理由があるのか、単なる転写ミスなのか
史家の言及を確認するまでには至らなかった。


なお、三国志関連では「もうひとつの丹陽」が存在する。
晋の益州方面軍(王濬、唐彬)が呉に侵攻するとき、
最初に攻略したのが「丹楊城」であり、
呉陣営の「丹楊監」の盛紀という人物を捕虜にしている。
これは晋書における記述である。


もとは周の第2代の成王が、熊繹を子爵に封じた。
これが後の楚国へと繋がるが、その最初の封土が「丹陽」であり、
秭歸県の東にあったという。
こちらも「丹陽」「丹楊」の混同が起きている。
益州の巴東郡から長江に沿って荊州に入る際、
最初に到達するのは巫県なのだが、晋の呉平定戦には出てこない。
あるいはこれ以前に、晋により略取されていたか。
巫県から東方に向かっては、下記のような位置関係となる。


巫県 → 秭歸県/丹楊城/信陵県 → 西陵県(旧名:夷陵)


水經注図を見るに、秭歸、丹楊、信陵は密接している。
丹楊城だけ出てくるので、おそらく280年頃のこの辺りの拠点は
丹楊城に一本化されていたのか。


揚州の丹陽に戻る。
秣陵県についても触れておこう。
211年、孫権は秣陵県の北部に拠点を移し、秣陵を建業に改名する。
晋が呉を平定すると、建業を秣陵に戻すが、
まもなく秣陵を分離し、その北部を建「鄴」県として並置する。
愍帝(司馬鄴)が即位すると(313年)、
避諱のため建康に改名する。


さて、西晋が滅び、司馬睿が東晋を起こすと
建康県、丹陽郡が首都となり、
丹陽郡=丹陽尹へと改称する。
丹陽太守=丹陽尹へとも改称するので紛らわしいが
河南尹と同じ呼称ルールなのだろう。
このようなルールにする理由を私は調査できていない。


孫呉の時代、首都は武昌であったり、建業であったり、時期によって異なるが
丹陽尹という名称が使われたのかという点は気になる。


後漢代の丹陽郡へと話を戻す。


献帝の初年、丹陽太守は周昕であった。
周昕は会稽の人で、周昂、周㬂の兄である。
この会稽周氏三兄弟は、いずれも袁紹曹操の協力者である。


193年、袁術南陽を捨て、兗州に侵入して曹操を攻撃。
しかし敗北して揚州に逃れ、割拠する。
その後、呉景を丹陽太守、孫賁を丹陽都尉に任命し、周昕を攻撃。
周昕は争いを避け、帰郷した。
この頃、孫策が母方の「おじ」の呉景を頼って丹陽に来る。
そして募兵をし、丹陽西部にいる祖郎と抗争をする。
結果的に孫策は敗北し、袁術のもとに赴き、「直参」となる。
孫策袁術の部下と呼びたくはない、という問題はある。


さて同じ頃、長安政権(李傕)が関東諸侯の和平を進める。
その一環として揚州刺史として劉繇を送りこんでくる。
袁術はこの「和平案」をいったん受け入れる。
劉繇は呉景の導きにより、呉郡曲阿に身を落ち着ける。


このあと、袁術は徐州攻撃をもくろむ。
そこで廬江太守の陸康に軍糧を要求。
陸康が断ると、袁術孫策を使って廬江に侵攻。
これを機に劉繇は袁術に反発し、
丹陽太守の呉景に「圧力を加え」、追い出す。


袁術は劉繇征討軍を編成する。
督軍中郎將となった呉景が最高司令官なのであろう。
そして孫賁と、新たに丹陽太守に任命された周尚とがいた。
この袁術側の反攻は194年には始まったはずだ。
そしてそこに孫策周瑜も参加した。


この戦闘は195年まで続く。
呉景軍(孫策軍)は渡河して丹陽を攻略し、
東征して呉郡曲阿を陥すことで終結
このとき孫策周瑜に「君は丹陽を固めてくれ」と丹陽に帰還させる。
丹陽太守は引き続き周尚(周瑜のおじ)だったのだろう。


一方、曲阿を脱した劉繇は長江を遡上し、豫章へと逃走する。
途中、太史慈が離反し、丹陽西部に独立割拠する(太守を自称)。


このあと195年から196年に掛け、孫策は会稽を攻略するのだが、
同時期、袁術は呉景、孫賁を呼び戻して豫州・徐州を侵攻。
また、丹陽太守は周尚から袁胤に交代となり、周瑜も江北に帰還。


197年春、袁術が皇帝を僭称する。
曹操呂布と和解し、反・袁術同盟を築く。
これに孫策も参加し、丹陽攻略に乗り出す。
まず丹陽太守の袁胤を追い出す。
孫策が代わりに置いた太守は徐琨である。
徐琨の母は孫堅の妹、つまり徐琨は孫策のいとこにあたる。
だがこの頃、呉景が袁術陣営から離反してやってきており、
丹陽太守は呉景に交代となる。


※以前の記事で、「197年の袁術呂布の抗争があった頃には
呉景は孫策のもとに逃亡していたのでは?」と書いたのだが
いろいろと考えると、必ずしもそうとは言えない気がしてきている。
呂布との抗争で呉景もまた敗北し、その後に孫策のもとへ来た可能性もある。


その後、孫策はおそらく193年以来、
ふたたび丹陽西部の祖郎と戦うことになる。
同じく丹陽西部にいた太史慈とも戦い、勝利し、両者を自陣営に迎える。
なお、祖郎のその後の活躍は史書に残っていない。


この丹陽西部の攻略時期がハッキリしない。
袁術が死亡する199年中頃よりは前なのは確実で
おそらく198年のいつ頃かかと思うが、詳細な時期は考察できていない。
いずれにせよ、周昕が太守の時代はともかく、
193年から198年頃まで、丹陽西部は小規模勢力が自立していた地域だった。


その丹陽西部とは具体的にどの範囲なのか。


呂範伝にはこうある。
>又從攻祖郎於陵陽,太史慈於勇里。七縣平定
つまり丹陽西側の7県なのか。


一方で、孫輔伝にはこうある。
>策討丹楊七縣,使輔西屯歷陽以拒袁術,并招誘餘民,鳩合遺散。
>又從策討陵陽,生得祖郎等。


ここにも「七縣」とあり、これは7県で確定かとも考えたが、
内容的には怪しい。
どうも丹陽東部(袁胤が統治)を討伐する際に、
孫輔が江北の歷陽県に出張って袁術を牽制した、
その後、丹陽西部の討伐に孫輔も従軍した、このように読めるからだ。
その場合、7県とは袁胤の支配領域を指すようにも解釈できる。


太史慈伝を見てみる。
>慈當與繇俱奔豫章,而遁於蕪湖,亡入山中,稱丹楊太守。
>是時,策已平定宣城以東,惟涇以西六縣未服。
>慈因進住涇縣,立屯府,大為山越所附。

(抄訳)
太史慈は劉繇陣営から逃走し、丹陽太守を自称した。
この時(最初に孫策が劉繇を破った時)、孫策は宣城県以東を平定していて、
涇県以西の六縣は服従していなかった。
太史慈は涇県に行き、屯府を立て、大いに山越の味方するところとなった。


周泰
>權愛其為人,請以自給。
>策討六縣山賊,權住宣城,使士自衞,不能千人,
>意尚忽略,不治圍落,而山賊數千人卒至。

(抄訳)
孫権周泰を気に入っており、自分の幕僚とした。
孫策が六縣山賊を討伐した時、孫権は宣城県を守ったが、
山賊に急襲され(周泰孫権を守って重症を負った)。


太史慈は195年の、周泰伝は198年頃の話ではあるが
どちらも宣城県が東西の境界にあるように書かれている。


程普伝も見ておく必要がある。
これが少し問題である。
>策入會稽,以普為吳郡都尉,治錢唐。
>後徙丹楊都尉,居石城。
>復討宣城、涇、安吳、陵陽、春穀諸賊,皆破之。
>策嘗攻祖郎,大為所圍,普與一騎共蔽扞策,驅馬疾呼,以矛突賊,賊披,策因隨出。

(抄訳)
孫策が会稽に入ると、程普は吳郡都尉となり錢唐県を治所とした。
後に丹楊都尉になり、石城県に所在した。
また、宣城、涇、安吳、陵陽、春穀諸賊を討伐して破った。
孫策がかつて祖郎を攻撃した際、程普は孫策の窮地を救った。


この記事は時系列に疑義がある。
最後の祖郎の話は、193年の孫策の敗戦の話ではないのか。
ただし孫策の無防備な振る舞いはその最期にまで及んでおり、
198年の祖郎との再選でも窮地に陥った可能性はゼロとは言えないが。

それよりも、丹陽西部の諸県平定時と思われる記述に
宣城が含まれていることがひとつ気になる。
宣城が攻略のスタート地点であり、
それを平定したあとに孫権にそこを守らせたということなのか。


また、「丹楊都尉になり、石城県に居した」とはどういうことか。
丹陽攻略の際(袁胤攻撃の際)に徐琨が丹陽太守となり、
程普が丹楊都尉となった、と解釈してよいのか。


その場合、石城県の位置が問題となる。
三国志集解では各書を引いて推測している。
①牛渚の東方に石城がある、
②石城の東方に牛渚がある、
③池州貴治県の西に石城がある等の説もあり、
中国歴史地図集の後漢代のページは①に依拠している。
この場合、丹陽西部の攻略前に
程普が丹楊都尉となり、最前線に駐屯したと理解できる。


ただし、私がしっくり来るのは「池州貴治県の西」説で、
これは丹陽郡の最西端が石城県ということになる。
だがそれだと、程普の石城県駐屯に関して疑問が起こる。
つまり、程普伝の時系列を信じるならば、
丹陽西部の攻略前に程普が丹陽の最西端に駐屯したことになるからだ。


もっとも、石城県が長江沿いの都市であり、
丹陽西部の諸勢力が「山賊」であったのなら
石城県だけ別扱いであったという可能性はある。
なにせ対岸には廬江郡の皖県があり、
そこには劉勲が駐屯している。
丹陽西部の中でも石城県は長らく袁術陣営に属しており、
孫策が袁胤を追い出す過程で、
同じタイミングで石城県も平定したのかも知れない。
そしてそこへ程普を送りこみ、
丹陽西部を平定する際には
東からは孫策、西からは程普という挟撃もあり得たのかも知れない。
とは言え、丹陽の中央寄りの宣城、春穀に
程普が最西端から参戦するというのはやはり奇妙なのだが。


となると、やはり程普伝の記述(時系列)が不正確なのではないか。
程普は丹楊都尉となり、丹陽西部の平定に従軍し、
そのあとに最西端の石城県の鎮守にあたった、ということではないか。


このあと石城という地名は史書から消えていくが、
孫呉の後半に突如でてくる長江沿いの拠点の「虎林」、
これが旧・石城県なのだと私は解釈している。



最期の考察として、
丹陽西部7県、または6県は特定できるのか。


もっとも、この数字というのが語呂合わせの可能性があるので
(それこそ五胡十六国の数字が正確でないように)
あまり数字にこだわっても意味はないのかも知れないが。


最初に、丹陽西南部、のちに新都郡として分離する一帯が、
いわゆる丹陽西部に属していたかは考えておきたい。


208年、赤壁の戦いと同じ時期に
威武中郎將の賀齊が丹陽西南部の黟県、歙県を討伐。
これを6県に分割したうえで、新都郡として分離・独立した。
この征討はなかなか大がかりの軍事行動のように書かれるが、
そもそも孫策の丹陽西部攻略の際にも戦闘があったのだろうか。


私は違うのではないかと見ている。
孫策が袁胤を追い出したあと、
袁術は丹楊宗帥の祖郎らに印綬をばら撒き、山越を煽動し、
ともに孫策を図った、という記述が江表伝にある(※)。
黟県、歙県の頭目らも袁術印綬を受け取ったかも知れない。
しかし、孫策が丹陽西部を攻略する過程で、
そこからはやや遠方の黟県、歙県は戦闘には巻き込まれず、
しかし孫策に降伏を申し出、袁術の偽印綬も「献上」したのではないか。
そういう想像をしている。
現在の安徽省黄山市に黟県、歙県の地名は残っており、
当時の所在とも大きく差はないと理解するが、
丹陽の北部・東部からこの地に侵攻するのは
かなり大がかりなことになりそうだ。
※江表伝によれば、同時期に陳瑀が類似の工作をしている。
陳瑀は曹操方の呉郡太守として広陵郡の南端にいて、
孫策とは反袁術の同盟勢力であったが、孫策を警戒してこれを行った。
袁術も陳瑀も同じような工作をしていたのか
なにか記事に混乱があるのか、よく分からない(後でまた少し触れる)。


208年に討伐を行った賀齊、そして蔣欽だが
前者は205年に上饒県を討伐している。
後者も会稽の賊の平定に転戦をしている。
それを思うと、南方から黟県、歙県に方面に侵攻したか。
あるいは、浙江(錢塘江)を遡上する形で、東方から侵攻したか。


こうして考えると、
やはり黟県、歙県は別扱いだったのではないか。
ではこの2県を除いて、丹陽西部に6~7県が残るのか。



この地図に当時の丹陽郡の県を記載した。
後漢書の地理志に記載される16県はオレンジの点で示した。
改めて気づいたのは、宣城県がこの範囲外ということである。
とは言え、後漢書を見ていくと
抗徐なる人物が156年以前に宣城県長になっていることが分かる。
つまり、後漢書の地理志が載せるのは
もっと早い時期での県情報なのか。
その時は宣城県は存在しなかったのか。
あるいは、記載漏れなのか。


類似のケースは他にもあり、
宋書の州郡志を見るに原鄉県、安吉県は霊帝の時代に新設されたらしい。
これらは白い点で示した。


同じ宋書で「呉が立てた」とされるのが、永平、懷安、寧國、安吳、臨城の諸県。
また廣德も呉が立てたのでは、と推測されている。
これは黄色の点で示した。


この「呉」が何を指すかだが、
淩操は永平県長になっており(203年以前)、
呂範は懷安、寧國を奉邑としており(220年頃)、
安吳は丹陽西部攻略の際にその名が見え(198年頃)、
臨城は徐盛伝に出てくる(210年代か)。
また、李術を破った徐琨は廣德候に封じられており(200年頃か)、
呂蒙がまた廣德県長となっている(200年代か)。


こう見ると、「呉が立てた」とは言うものの、
実際には後漢末には設置されていたのではないか。
安吳に至ってた孫策到来以前から存在していた可能性もある。
あるいは県に満たない、しかし有力な「郷」であったのだろうか。


以上は地理志からの調査だが、
逆に、三国志には出てくるが、後代の地理志に出てこないものがある。
それが「始安」である。


江表伝によれば、反袁術同盟の陳瑀は孫策を警戒し、
丹陽や呉郡の諸県の賊に印綬をバラ撒いた。
この時、宣城、涇、陵陽、黟、歙と並んで出てくるのが「始安」である。
原文を見ておく。


>使持印傳三十餘紐與賊丹楊、宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙諸險縣大帥祖郎、
>焦已及吳郡烏程嚴白虎等,使為內應


おそらくこれは標点の位置がおかしい。
ここにおける丹楊は県ではなく郡を指しているのだろうから、
「丹楊宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙諸險縣」とすべきであろう。


また、賀齊伝にも出てくる。
>二十一年,鄱陽民尤突受曹公印綬,化民為賊,陵陽、始安、涇縣皆與突相應。
>齊與陸遜討破突,斬首數千,餘黨震服,丹楊三縣皆降,料得精兵八千人。


216年、曹操の煽動により鄱陽で反乱が起き、丹陽の3県(陵陽、始安、涇)が呼応した。
つまり、始安はこの時点で丹陽の県であったのは間違いあるまい。


その正確な所在は分からないが、
陵陽県から石城県あたりまでがポッカリと空いているので
そのあたりにあったのかも知れない。
地図中では☆マークで記載している。


こうして地図を書いて見てみると、
涇、安吳、陵陽、臨城、始安、石城の6県は丹陽西部と言えるのではないか。
孫権が守将をしていた際に「山賊」の攻撃を受けた宣城や、
あるいは丹陽西部攻略の時期に程普が侵攻した春穀までを
同じ勢力圏に含めてしまっていいのかは判断がつかない。


なお、丹陽西南部は208年に新都郡となり(晋代には名前を変える)、
東南部は呉郡の西南部と合わせて呉興郡となり(266年。孫晧の時代)、
晋が呉を平定すると宣城郡を置いた(281年)。
参考までに、宣城郡の範囲を地図で示して終わりとする。