正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

袁術の急激な衰亡を考える

私は袁術のファンということではないのだが
ここのところ袁術絡みの記事を多く書いた。
袁術自体は記述が少なくその謎が多いながらも、
袁術の周縁(曹操劉備孫策呂布)には
考察の情報が豊富であるということも理由だろう。


190年代の袁紹陣営など
公孫瓚黒山賊張楊から考察しなければいけない。
それに比べればずっと楽だ。


それでも敢えて避けているテーマはある。
袁術の揚州入り前の揚州刺史を巡る疑問、
揚州入りの際の戦闘、
孫賁豫州刺史任命の問題など、
書こうかと思いつつも放置している。


だが、ここのところの袁術絡みの記事のついでに
頭の中で膨らんできた想像についてはメモをまとめておきたい。
それは袁術の衰亡に関してである。


197年春の皇帝僭称、これは結果的には悪手となった。
呂布との関係悪化の原因はいろいろあるが、
皇帝僭称は確実に原因のひとつである。
そしてその離反に怒った袁術呂布を攻撃し、敗北。
逆に呂布の侵攻を受け、揚徐州境の鍾離県まで迫られた。
また、孫策(と朱治)の離反の方はこれが確実に主因である。
その孫策には丹陽郡(東部)を奪われた。
同時期、豫州方面で曹操に敗北したが、
これは皇帝僭称とは直接は関係がない。

 


丹陽郡を失ったのが197年中なのか、
198年に掛けての事なのかは史書には明示されない。
だが、これ以降、199年夏に袁術が死ぬまで、
袁術陣営に何が起こったかは情報がきわめて少ない。


そしてその最期はこうである。


>術前為呂布所破,後為太祖所敗,
>奔其部曲雷薄、陳蘭于灊山,復為所拒,憂懼不知所出。
>將歸帝號於紹,欲至青州袁譚,發病道死。


(先には呂布に、後には曹操に敗北し、
配下の雷薄、陳蘭を頼って灊山へ逃げようとしたが、
これを拒まれ、恐怖してどうしたらよいか分からなくなった。
袁紹のもとへ逃げて帝位を譲り渡そうしたところ、道中、病死した。)


呂布曹操に敗北したのは197年である。
確かに大きな敗北ではあったろう。
しかしそのおよそ2年後、199年になって、
なぜ山中に逃げ込もうとするような事態になるのか、
なぜ部下からも見捨てられる事態になるのか。
そこが結びつかない。


いや、結びつく、という人もいるだろうか。
というのは袁術は以前に南陽を捨てて揚州に逃亡したような、
そういう「無能な群雄」であるのだから。


確かに袁術の最大の謎はそこにある。
根拠地を捨てて逃げ出したような者が
なぜ揚州に入るや否や再び勢いを盛り返し、
以前と同様に「列強」の顔をしているのだ。
南陽を捨てたイメージが強い人にとっては
揚州で勝手に袁術がひとり自滅することにも
違和感がないのかも知れない。


しかし、揚州で勢いを取り戻したことには
偶然ではない何かがあるのだろうと
袁術をある程度評価する立場からは
勝手に自滅することにむしろ違和感ばかり持つのかも知れない。


三国志袁術伝はその衰亡の原因について、
皇帝僭称後の奢侈が理由であるかのように書く。
原文はこうである。
>遂僭號以九江太守為淮南尹。置公卿,祠南北郊。
>荒侈滋甚,後宮數百皆服綺縠,餘粱肉,而士卒凍餒,江淮閒空盡,人民相食。


(奢侈は甚だしく、後宮の女人は着飾り、米肉はあり余っていたが、
士卒は飢え凍え、江淮一帯は空っぽとなり、人民は互いに喰らいあった。)


三国志より後代に成立した後漢書袁術伝は書き方が少し違う。
>術兵弱,大將死,眾情離叛。
>加天旱歲荒,士民凍餒,江、淮閒相食殆盡。
>時舒仲應為術沛相,術以米十萬斛與為軍糧,仲應悉散以給飢民。(中略)
>術雖矜名尚奇,而天性驕肆,尊己陵物。
>及竊偽號,淫侈滋甚,媵御數百,無不兼羅紈,厭粱肉,自下飢困,莫之簡卹。
>於是資實空盡,不能自立。


各行を意訳すると、
①敗戦(197年の)により、「衆情離叛」した
②日照りにより飢饉となり、江淮一帯では人が喰らい合い、いなくなった
③配下の舒仲應(沛相)は軍糧とした預かったものを飢民に分け与えた
袁術は名声こそあったが、性格は驕慢であった
後宮の女人は着飾り、米肉はあり余っていたが、飢民を気に掛けることはなかった
⑥これにより物資が空っぽになり、自立不能になった


こう比較すると分かるが、②⑤⑥は三国志の記述の書き換えに見える。
こう書き換えた方がしっくり来る、というような処置をされているが、
しかしそれが正確性を保っているかはよく分からない。


具体的には、飢饉の問題について差異がある。
三国志では奢侈が発端となり、その支配地の士民が飢えたようにも思えるが、
後漢書では天候不順による飢饉の存在を明示しており、
舒仲應の逸話も挿入している。
推測するに、舒仲應の逸話が先にあり、
これをもって飢饉があったはず、と解釈したのだろうか。
舒仲應は三国志注の(張華の)博物志では舒仲膺(名は邵)と書かれ、
袁術のときに阜陵長となった」とされ、沛相とは出てこない。
となると、この後漢書の逸話自体、信じていいものか、という問題もある。


後漢書献帝紀では、この飢饉のことが記される。
>是歲飢,江淮閒民相食。


これが三国志袁術伝に由来したものなのか、
別の根拠があるものなのかは不明である。
が、同じ箇所にはこうも書かれる。
>夏五月,蝗。秋九月,漢水溢。


つまり「献帝起居注」あたりが天災を記録しており、
それに基づいているのかも知れない。
だが江淮間の飢饉については具体的に何月のことか書かず、
「是歲~」とまとめている以上、
やはり三国志袁術伝由来なのではとの疑いは残る。
直接の根拠なく、編者が勝手に書き入れたのではないのか。


ただし居巣県長の周瑜魯粛のもとに出向いて行って
援助を要請したというあの逸話。
あれはもしかしたら飢饉と関係があるのかも知れない。


まぁ、以上はいつもの勘ぐりである。
飢饉はあった、として考察を進めていく。
しかしそれは本当に197年だったのか、ということは留保したい。
というのは197年9月に、豫州陳国で曹操に敗北している。
この時、陳国で袁術軍による包囲戦があり
住民は救援を待ち籠城するのだが
そこは曹操のいる許都の目と鼻の先の地である。
長期間の籠城戦があったとは思えない、というのは以前に書いた。
かなり推測混じりの論ではあるが、
そう考えるなら、197年9月の少し前に戦闘が勃発したことになる。
旧暦の197年9月は、現在の暦の9/30~10/28にあたるらしい。
後漢書袁術伝には「天旱(ひでり)」とあり、
降水量が不足し、収穫に影響があったということだろう。
つまり春以降の問題だと思うのだが
9月(実質10月)の軍事行動との整合性があるだろうか。
飢饉が起きつつあったなら、軍事行動を控えるのではないか。
それとも、本拠地で飢饉が発生しつつあったからこそ
豫州方面に侵出したということだろうか。
あるいは、197年は軍事的な敗北のみで、198年に飢饉が起こり、
それが199年の袁術軍壊滅につながったのではないのか。


いったん結論は先送りし、
197年に飢饉はあったとして考察を進めていく。


この場合、197年には飢饉と、
呂布曹操に対する敗北とが重なったこととなる。
そして孫策の離反も起き、丹陽も奪われた。


そしてその197年の毒が1年かけて全身を巡り、
199年に勢力瓦解を引き起こしたのだろうか。


それを確かめるために198年の袁術軍の気配を探る。
この頃の手がかりは大きく2つある。
1つは、呂布との同盟である。
呂布袁術と再び同盟し、劉備を攻撃する。
なぜ呂布はこんなことをしたのだろう。
この選択により曹操と敵対し、198年末に攻撃を受け、滅亡する。


呂布はころころと態度を変えると揶揄されるので
そうしたところが根本原因の可能性もゼロではない。
つまり、呂布の思い付きによる再同盟であった。
しかしもし再同盟にまともな理屈があるとしたら
それはどういう理屈になるだろうか。


それは「袁術が弱くなりすぎた」ということではないのか。
そもそも曹操呂布との和解は
「強い袁術」に対抗するための手段だった。
いや、袁術って強いか?という疑問もある。
その疑問は妥当だが、孫策袁術の配下と見なし、
195~196年に呉郡、会稽郡も手中に収めたと考えれば
強くなりつつあった、とは言える。


そして197年、呂布曹操に敗北しただけでなく、
孫策の離反も合わせて考えれば、
かなり弱体化したとは言える。
となれば、曹操には呂布の機嫌をうかがう必要は無くなる。
それを呂布は察知したのだろうか。
そして今度は袁術に手を差し伸べて、曹操と対抗する。
そう考えた。
袁術の方はこれを断る理由はない。


あるいはこういう可能性もある。
呂布袁術と再同盟して、まず劉備を攻撃するわけだが、
実は劉備は裏で曹操とつながっていて、
呂布の準備をしていたのではないか。
この劉備側の挙動不審があり、それを受けて呂布袁術と同盟したのか。
つまり、曹操側から、そう仕向けられた可能性もあるのかも知れない。


いずれにしても、弱っていた袁術側としては
この再同盟を断る理由はなかったのではないか。


こう考えると1つの疑問が浮かぶ。
呂布は198年冬、曹操に包囲される。
そして袁術からの援軍を切望していた。


三国志呂布伝注の英雄記にいう、
この時、呂布袁術に救援要請の使者を送っていた。
袁術は以前に呂布が婚姻の約束を反故にしたことから、これを渋った。
呂布が敗れれば次は陛下の番ですぞと使者が言うと、
袁術は軍備を整え、呂布救援の姿勢をとった。
呂布は娘を与えないから袁術の救援が来ないのだと思い、
自ら馬に乗り、娘を抱いて袁術のもとへ送ろうと試みたが、
曹操軍に阻まれて帰還せざるを得なかった。


これは三国志の各ドラマ、小説での1つの見せ場であろうか。
しかしこの内容は疑わねばならない。
すでに袁術とは再同盟をしているのならば、
以前のことを理由に出兵を渋るのは、やはり不自然に感じる。
さらに、娘をやれば援軍が来ると呂布が信じるのもよく分からない。
なぜなら、娘自体に価値があるのではなく、
婚姻による同盟強化自体が目的なのであり、
そしてなぜ同盟強化が必要なのかといえば、
それは「生存」のためである。
本当に娘が来るならば救援する、
そうでなければ救援しない、そういう問題ではないはずだ。


そして結局、袁術の救援が来ていない、
ということはもっと考えねばいけない。
呂布の使者が言うように、呂布が滅べば次は袁術なのである。
事実、その半年後に袁術軍は滅亡する。
もっともそれは曹操軍の攻撃を受けたからではなく、
まるで自壊するように消えてなくなるのである。


つまり、私の推測では、呂布が包囲されている時、
袁術はとても救援を送れるような状況ではなかった。
なにか、そういう理由があった。
そしておそらくそれと同じ理由で、半年後に滅亡した。


ではその理由は、いつ持ち上がったのか。
私はそれは198年の途中であったろうと思う。
もしそれ以前であったならば、
呂布側で袁術と再同盟する選択肢はとらない。
弱体化をきわめた袁術を頼ることは出来ない。
呂布としては何があっても曹操と上手くやっていかなければいけない。


やはり、もし江淮に飢饉があったのなら
198年の方が有り得そうに思ってしまう。


さて、この頃の袁術軍を考える2つめの手がかり。
それは孫輔伝にある。


>策討丹楊七縣,使輔西屯歷陽以拒袁術,并招誘餘民,鳩合遺散。
>又從策討陵陽,生得祖郎等。


孫策が丹陽の七県を討つとき、孫輔を(江北の)歷陽に駐屯させ、
袁術軍を拒ませると共に、餘民を招誘させ、遺散を鳩合させた。
また孫策に従って陵陽県を討ち、祖郎らを生け捕りにした。)


この丹陽の七県が丹陽西部を指すのか、
あるいは丹陽東部の袁胤攻撃を指すのかよく分からないとは以前に書いた。
祖郎との戦いとは別ものにも思えるので、そうであれば
袁胤攻撃時の話ということになる。


正直なところ、私はこの一文にいままで注目したことがなかった。
しかしこれは大きな意味を持つと気付いた。
こういう気付きの楽しみが、三国志にはある。
つまり、孫策袁術と袂を分かったとき、
孫策は江北にもちょっかいが出せただけでなく、
それに対して袁術が反撃をできなかったようでもある、ということだ。
さらに「餘民を招誘」、「遺散を鳩合」。
つまり袁術の統制から外れていた逃亡民やら何やらを吸収した。
この「餘民」「遺散」はなぜ発生したのか。
それはもしかしたら飢饉が原因なのかも知れない。
であれば、やはり197年に飢饉があり、
孫策による袁胤討伐はその後と考えた方が自然なのか。

 


気になるのは周瑜のことである。
歴陽と居巣はほど近い。
周瑜孫策のもとに身を投じるのなら、
孫輔が歴陽に来たこのタイミングがベストであったはずだ。
なぜそれをしなかったのか。
まさか周瑜魯粛のもとを訪ねていた時で
居巣にはいなかったということなのだろうか。
あるいはおじの周尚が寿春にいるなどして
周瑜が逃亡を躊躇するような状況だったのだろうか。
そして後に周尚が病死するなどして
周瑜の身が軽くなった、ということもあるかも知れない。


さて、袁胤討伐後、時期は不明だが、
孫策は丹陽西部の攻略に乗り出す。
先ほどの孫輔伝の注の江表伝によれば、
袁胤を破られた袁術孫策を恨み、
丹陽西部の祖郎らに印綬を与え、山越を煽動させ、
孫策を攻撃させた。


なお、同じころ、反袁術同盟の一員として
行吳郡太守、安東將軍の陳瑀が広陵にいた。
孫策伝注の江表伝によれば
陳瑀もまた丹陽西部の祖郎ら(そして呉郡の嚴白虎)に印綬を撒き、
孫策を図ろうとした。


こう同じような話が並ぶと、どうにも信憑性が気にかかる。
どちらかがウソのように思える。
ひとまず、袁術による工作が事実として話を進めよう。
つまり、この頃は袁術も工作活動する程度の元気があったということだ。
一方で、孫策相手に自ら討伐軍を差し向ける余力はなかったか。


整理すると、こういうことかも知れない。


・197年春、袁術が皇帝を僭称
・反袁術同盟が築かれる。呂布孫策袁術から離反する。
・江淮では旱(ひでり)が続く
袁術呂布を攻撃するが撃退される。
呂布袁術領に侵攻し、勝利して引き返す
・江淮で飢饉が起きる
豫州駐屯の袁術軍が陳国に侵攻する
・9月、曹操豫州袁術軍を殲滅する
・同じ頃、孫策が丹陽の袁胤を攻撃する
孫輔が江北に渡り、逃亡民を糾合する
・197年冬、袁術は体制立て直しに努める


・198年初頭、呂布袁術と再同盟する
袁術が丹陽西部の祖郎らと手を結び、孫策を攻撃させる
・逆に孫策が丹陽西部を攻略する


この整理にはある程度の真実があるような気がする。
外地を呂布曹操孫策に切り取られた。
飢饉により発生した「餘民」「遺散」も孫策に盗まれた。
そして、孫策に自ら反撃を加える余力はない。
だが、呂布との再同盟にはこぎつけた。
まだ淮南と廬江とは、確保している。


これがだいたい198年の初頭頃の話。
同年9月、曹操は東征し、10月、下邳を包囲する。
1か月余りして城は陥落する、というのは武帝紀の記述で、
呂布伝によれば籠城戦は3か月に及んだという。
後漢書献帝紀および資治通鑑によれば、
呂布が処刑されたのは12月の癸酉の日である。


これを袁術は救援しなかった。
あるいは、出来なかった。


そして例の滅亡へと繋がる。
灊山にいる部曲の雷薄、陳蘭を頼ろうとするも拒まれ、
袁紹のもとに身を投じようするが、その途上で病死する。
韋昭の呉書によれば、雷薄に拒まれたあと寿春へ向かい、
江亭(壽春まで八十里)に至って病死したという。


武帝紀、先主伝によれば、袁術の北上に対し、
曹操劉備を派遣して攻撃しようとした。
だが、至る前に袁術は病死したという。
ここれで劉備を派遣したことが、後の劉備の叛旗に繋がるわけで
韋昭の呉書の方がおそらく不正確なのであろう。


後漢書袁術伝には、雷薄を頼ろうとした時期も書かれる。


>四年夏,乃燒宮室,奔其部曲陳簡、雷薄於𤅬山。
>復為簡等所拒,遂大困窮,士卒散走。


このあと袁紹を頼ろうとする話になるが、
雷薄を頼ろうとした「夏」は4月~6月のうち、いつなのか。
袁術が死ぬのは6月である。
そしてこの年には閏月は存在しない。


三国志袁術伝注の(王沈の)魏書には
袁術袁紹にあてた書簡の内容が記載される。
この内容(書簡を送ったということ)が事実なら
袁紹のもとへ出奔するにあたり、事前に使者の往来など
猶予期間があったことになる。


であれば、たとえば4月に雷薄を頼ろうするも拒まれ。
5月に袁紹に連絡を取り、
6月に実際に北上するも、その途中で病死した。
そういうこともあり得るだろうか。


そして4月に𤅬山に逃げ込もうとするのであれば
その数か月前には何か、大問題が発生したのだろう。
だいたい、山に逃げ込むとは何事か。
生きるか死ぬかの大問題が起きていたはずだ。


198年初頭はまだ二郡を有する群雄としての体裁があった。
呂布との再同盟もした。
この年、居巣県長の周瑜孫策のもとへ出奔する。
また、揚州に寄留していた劉馥が、
袁術将」の戚寄、秦翊を誘って曹操のもとに投降するのも同じ年だろうか。
しかしそれ以外はよく分からない。
周瑜や劉馥の離反が大事を招いたとも思われない。


だが、後漢書が「術兵弱,大將死,眾情離叛」と書くように
散発的な離反が相次ぎ、それが勢力の瓦解をもたらしかのかも知れない。


前回の魯粛の記事で書いたが、
鄭寶、張多、許乾といった小軍閥
江淮の地で発生したのもこの頃だろうと思われる。
あるいは199年に入ってからか。


この袁術の最後の局面で
一番気になるのはどこか。
それは廬江太守の劉勳の動向である。


袁術死後、その妻子は劉勳を頼ったという。
江表伝によれば、袁術死後、
從弟の袁胤、女婿の黃猗らが壽春を捨てて劉勳を頼ったというから
この時の話であろう。
𤅬山により南北に分断される廬江にあって、
劉勳は皖城を拠点にしていた。
廬江太守とは言え、劉勲の勢力範囲は、
この𤅬山以南の一帯だけかも知れない。


また、袁術の死後、
長史楊弘、大將張勳が孫策のもとに出奔しようとしたが
劉勳はこれを攻撃して捕虜にしたともいう。


劉曄伝によれば、劉勳の兵は江淮において精強で、孫策はそれを憎んだという。
その精強というのは、袁術残党を吸収したがゆえなのか、
それ以前から精強であったという話なのかは分からない。
が、それ以前からある程度の戦力を整えていたからこそ、
張勳らを破ることが出来たのだと思う。


こうして考えて見ると、新たな疑問が湧く。
なぜ袁術はこの劉勳を頼らなかったのだろうか。
劉勳を頼って皖城に拠点を移すとか、
あるいは劉勳を呼び寄せて寿春を固めるとか、
まだまだ選択肢はあったように思える。
少なくとも山中に逃げ込もうとするよりは、である。


だが、それをしなかった。
劉勳を頼るのは山中に逃げるよりも悪手、
という判断があった可能性もないではないが、
劉勳を頼ることができない状況だったのではないだろうか。


つまり、劉勳は袁術から離反していたのではないか。
劉勳はもともとは袁術の「故吏」と書かれるが、
一方では曹操とも旧交があり、
のちに曹操に投降してからは優遇されることになる。
197年の反袁術同盟に参加したとは思わないが、
その後、離反者が相次ぐ中で
次第に袁術と距離を取り始めたのではないだろうか。
そして袁術もそれに気づき、不信の念を募らせた。
たとえば、飢饉に際して寿春への支援を要請しても、
いろいろと誤魔化しを言いながら、それに応じなかったとか。
曹操との間に使者の往来があり、それがバレたとか。


ではなぜ袁術の妻子や袁胤は
劉勳を頼ることができたのだ、という疑問はある。
だが、袁術本人と、その妻子とでは全く状況が異なる。
「死に体」の主君、まして皇帝を僭称した者が
自陣に逃げ込んでくるほど恐ろしいことはない。
その主君にすべてを投げ出して臣従したとしても、
なにかと警戒されて処刑される可能性はある。
であれば先に殺すしかない。
劉勳には袁術本人を受け入れることは出来ないし、
袁術にも劉勳を頼ることは出来なかった。


こうして考えて見ると、
やはり劉勳と袁術の関係に亀裂が入っていた可能性は十分にある。
そしてそうであるならば、それはやはり198年中頃のことかも知れない。
それこそが袁術軍崩壊を引き起こす、
直接的なきっかけだったのかも知れない。


最期に、劉勳の離反がなかったとしたら、
他に何が起こり得たか、ということを考えてみたい。


袁術は皇帝を僭称すると、
九江太守を淮南尹に改称し、公卿百官を置いた。
皇帝僭称前、陳紀が九江太守であり、
惠衢が(袁術側の)揚州刺史であった。
また謀臣としては李業がおり、もしかしたらこの人は
袁術のもとで三公になっていたかもしれない。
あるいは軍人で言えば、
197年に小沛にいる劉備征討軍の指揮官であった紀霊。
彼らの消息は不明である。


そして、見落としていけない人物としては孫香がいる。
孫香は孫策の族兄である。
呉景が袁術広陵太守となった頃、
孫香は袁術の汝南太守であった。
袁術が皇帝を僭称すると、孫策は呉景と孫賁を呼び寄せたが、
孫香は遠くにいたため、孫策のもとへ行くことが出来なかった。
孫香は袁術の征南將軍となり、寿春で死んだという。


中文Wikiではこの孫香の死について「病逝」と書いている。
病死とする根拠はなにかあるのだろうか?
どうも怪しい。
確かに戦死などであれば、それについて史書が触れてもおかしくないはずだが
そうした描写がないからといって、
それをただちに病死と見なして良いはずもない。
ではこう考えてみる。
孫香が病死でないなら、どう死んだのか。
それは処刑か、戦死か、であろう。


処刑とはどういうことか。
孫賁は寿春にあって兵を領していたが、孫策のもとへ逃走したという。
族兄弟の孫香も疑いの的になった可能性はある。
あるいは離脱者が相次ぐ中で、それを防止するため、
離脱者の親族が処刑されるということもあったかも知れない。


次に、戦死とはどういうことか。
この間、寿春が戦闘に遭ったということはない。
呂布袁術領に侵攻した際も、寿春には到達していない。
それでも寿春に死んだという孫香の死因が戦死であれば、
それは内乱が起きたということである。


そして寿春で内乱が起きていたということであれば、
先の李業、陳紀、惠衢、紀霊らが消息不明の理由にもなり得る。
また、袁術が山中への逃亡を考えるほど追い詰められた理由にもなる。
この場合は、それが198年中頃に起きたとは思わない。
おそらく、呂布曹操と戦っている最中、
198年の終盤に起きたのではないか。
呂布が敗北に向かう報に接し、恐怖した臣下が
寿春で反乱を起こしたかも知れない。
その反乱は鎮圧されたのだろうが、
おそらく寿春は物資を焼失し、住民は逃亡し、
袁術はお先真っ暗という状態になったのかも知れない。


もし劉勲の離反がなかったとしても
曹操と旧交のある劉勲を疑うような心境になっていたのかも知れない。
その袁術にとって、唯一頼れそうな相手が
「部曲」の陳蘭、雷薄であったということか。
その彼らが袁術を拒んだというのは、
もしかしたら寿春内乱の前後に、
袁術による処刑なども横行しており、
それが受け入れ拒絶の理由だったのかも知れない。


以上、想像に次ぐ想像で書きなぐり、冗長な記事となってしまったが、
197年の敗戦や飢饉だけで
199年の袁術軍の急激な崩壊の理由とすることはできない、
そこには何か別の要因があったのではないか、
というのが本稿のまとめである。


※およそ書き終わったところで、張範伝も確認しておく必要があると気づいた。
張範兄弟は江淮に疎開しており、袁術には仕えなかったものの、
何度か諮問を受けた。
そのひとつに、曹操冀州進出を目論んでいる時期のこととして
曹操袁紹に勝てるか、という問いがある。
これはおそらく199年の中頃以降のことだと思われるが
そうであれば、袁術軍は崩壊目前の時でもある。
この張範伝の逸話自体の信憑性が疑われるのか、
あるいは、袁術の衰亡に関して新たな考察をする資材となり得るのか。
よく分からないので、これを考えるのはいったん先送りとする。

魯粛のこと(劉曄、鄭宝とのこと)

前回、二張(張昭、張紘)の孫策への仕官時期を考えた。
似たところで気になるのは魯粛である。
魯粛孫策に仕えたのか、そもそも出会ったことがあるのか、
ということがよく分からなくなる(私が)。
また、その頃の魯粛を考えようとした時、
整理しなくてはならないのは劉曄、鄭宝のことである。


まず魯粛伝を見ていく。
魯粛は「臨淮東城人」と書かれる。
これは後代の区分であり、
後漢末においては下邳國の東城県の人、となるはずだ。
ここには少し問題が残る。
というのも、もともと下邳國の地は徐州臨淮郡であり、
永平十五年(西暦72年)に改称され、
明帝の子の劉衍が下邳王となった。
79年に下邳國は拡大する。
原文はこうである。
>臨淮郡及九江之鍾離、當塗、東城 、歷陽、全椒合十七縣益下邳國


これをどう訳すのが適切か分からないのだが
後漢書での他の箇所での「縣益」の用例から見るに、
「下邳國に十七縣を足した」というのが正しいのだろう。
であれば、下邳國設置の当初、
臨淮郡が丸ごと下邳國になったのではなく、
臨淮郡としても12県が残っており、それと九江の上記5県をもって
合計17県を「足した」ということなのか。


後漢書の郡國志においては下邳國は全17県が記載されている。
そこの「東成」県というのがどうやら「東城」なのだが、
「鍾離、當塗、歷陽、全椒」はそこには載らない。
こちらは揚州九江郡の方に載っている。


純化して考えると、
下邳國設置の当初、臨淮郡のうちの4県を封土とした。
つぎに、臨淮郡の残り13県(東城を含む)と、
揚州九江郡の4県、合計17県を下邳國に足した、ということなのか。
しかしこれは何か疑わしい。
そもそも後漢書の郡國志は少し信用ならない。


なお、西晋においては下邳國と臨淮郡は並置されるが、
晋書の地理志においては東城はそのどちらにも属さず、
揚州淮南郡の所属となる。


もう一つ考えるべきことがある。
中平元年(184年)、黃巾の乱に際して
下邳國王の劉意は国を捨てて逃げた。
賊が平定されたあと、数か月で薨去した。
子の劉宜があとを継いだが、数か月で薨去し、子はなかった。
建安十一年(206年)に國は廃止された。
劉意には8人の弟がいたので
傍系からいくらでも後継ぎを迎えられたはずだが、
それがなかったのは後漢末のゴタゴタの時期だからだろうか。
あるいは、後漢書に記載されていないだけで
劉宜のあとも後継者が立っていたのだろうか。
206年、複数の国が廃止されたが
いずれも王が空位であったところを正式に廃止したのだと思われる。
やはり劉宜のあと、後継ぎはいなかったのだろうと思う。


劉宜の死亡(185年頃か)から206年までの
下邳國の動向が気になっている。
王が不在となった段階で、国は縮小されたのだろうか。
それとも、79年の下邳國拡大後、国の拡大縮小は記されないが、
劉宜の時代以前に縮小していたこともあったのだろうか。
それがなければ、魯粛の時代も東城県は下邳國に属していた。

 


いったん東城県の話は措いておいて
魯粛伝の序盤を時系列でまとめてみる。


周瑜が居巢長となる(197年春以降)
周瑜魯粛に会いに行く(居巢から東城県に?)。
魯粛周瑜に資産を分け与える
袁術魯粛を東城長に任命する
魯粛はこれを受けず、一族郎党を連れ周瑜を頼る
周瑜が江東に渡ると、魯粛は同行した(198年)。
魯粛は曲阿に住んだ
・祖母が亡くなり、東城に戻り埋葬した。
・旧知の劉曄が手紙を送り、魯粛に鄭寶を頼るよう勧める
※鄭寶は巢湖におり、万余の衆を擁していた軍閥である
魯粛はそれを容れ、いったん老母を迎えに曲阿に戻る
・その頃、周瑜魯粛母を呉に移していた
魯粛周瑜に事情を語る
・その頃、孫策は死去しており、周瑜孫権への仕官を勧める
魯粛はそれを容れ、孫権に面会した


この記述の間、注として韋昭の呉書があり、
その後段部分もまとめておく。


・中原が乱れると魯粛は一族に相談し、江東への移住を決断した。
・道中、州兵に追われた
魯粛は「追わなくても罰は受けまい」と州兵に呼びかけた
・また、弓を引いて見せて州兵を威嚇した。
・州兵は引き返した
魯粛は渡河して孫策に面会し、孫策魯粛の才能を認めた


韋昭の呉書がこう書く以上、
孫策魯粛が出会ってるというのはウソとは思われない。
魯粛孫策に仕えたかどうかは不明だが
それはまた別の話である。


気になるのは、韋昭の呉書と、三国志魯粛伝とで
整合性があるかどうかである。
韋昭の呉書では、魯粛が故郷を離れた時期は不明で、
向かった先もどこか分からない。


そしてここで冒頭の下邳國の話に戻る。


州がこれを追ったというのは、当然、袁術のことだと思っていた。
しかしもし東城を徐州下邳國の版図と考えるなら
ここでいう州とは徐州のことなのだろうか。
いや、後漢末の東海國王は、徐州東海國だけでなく
豫州魯國をも封土としており、
豫州刺史から弾劾を受けたことがあった。
それと同様に考えれば、
「九江之鍾離、當塗、東城 、歷陽、全椒」は下邳國王の封土であると同時に
揚州にも属し続けたということになり、
魯粛を追ったのも揚州の兵ということなのだろうか。
そこは微妙なところだ。


とは言え、三国志もまた韋昭の呉書に依拠しているはずで、
であれば、周瑜にいる居巢県へ向かう時の話であるに違いない。
追ってきたのは袁術の支配する揚州兵の可能性が高いと思うが、
時期的には呂布は徐州南部を袁術から回復したタイミングであり、
確定的なことは言えない。


実は魯粛伝本文と韋昭の呉書とで矛盾があり、魯粛伝が大きく間違っており、
魯粛周瑜とは関係なく江東へ避難した可能性もゼロではないが
今回はそれは無視して話を勧める。


この間のことを周瑜伝からも確認する。
袁術が皇帝を僭称すると(197年春)、
周瑜は江東へ逃げることを考え、まず居巢県長への就任を要望した。
そして実際に孫策に合流したのは198年だというが、
これは意外とのんびりしていたということなのか。
あるいは居巢長となるのを許されたのが197年の後半で、
江東へ逃げたのが198年の初頭ということもあるのか。


しかし、居巢長となった後、周瑜は遥か遠くの魯粛のもとへ赴き、
「資糧」の援助を求めた。
そしてその後、魯粛周瑜を頼って居巢へと向かう。
これはそれなりの期間に渡った出来事のようにも思うが、
それなら周瑜が居巢に留まっていた期間は
短くはないのかも知れない。


周瑜袁術のもとを去らんがために居巢長となったというが
もう少し複雑なドラマがあったのかも知れない。
たとえば、当初は袁術陣営を離脱する意思は固まっていなかったか。
周瑜の從父の周尚も消息不明である。
もしかしたらこの間に周尚の死去などもあったのかも知れない。
いずれにせよ、周瑜孫策に合流したのが198年というのは疑うべくもない。
そして魯粛もその時に一緒だった。
そして孫策とも会っていた。
ただしその後の動向を見ると、孫策には仕官していないように思える。
あるいは賓客待遇となり、官職を与えられなかっただけかも知れない。


このあとの魯粛を考えるには、劉曄伝も見ねばならない。


劉曄は以前に少し書いた。
劉曄は淮南成悳人である。
この時代、漢の皇室の血を受け継ぐ人物が数多活躍するが
そのほとんどは前漢の皇族の末裔である。
後漢光武帝の血を引いているという意味では
劉虞と劉曄がレアな立ち位置である。


劉曄は199年時点で「20余歳」だったので
172年生まれの魯粛より数歳若いだろうか。
劉曄袁術に仕えた形跡はなく、
その袁術軍の瓦解による混乱を掻い潜るも故郷に留まり続け、
のちに揚州に到来した曹操に帰服する。
これは209年のことと思われる。
袁術亡き後しばらくしてからは
淮南は曹操陣営が支配しているわけだが、
そこにいた揚州刺史の劉馥に仕えたかどうかは不明である。


その頃の記述を時系列でまとめていく。


・揚州では鄭寶、張多、許乾らが私兵を有して(割拠していた)
・鄭寶は人々を駆り立て、江表(=江南)に行こうとしていた
・鄭寶は劉曄をこの計画に巻き込もうとした。劉曄はこれを憂えた
・その頃、曹操の使者が来ており、劉曄は面会した
・鄭寶もその使者に会いに来たが、隙を見て劉曄はこれを殺害した
劉曄は鄭寶殺害を曹操の命だと告げる。鄭寶の配下は劉曄に帰伏した
劉曄は廬江太守の劉勳に身を寄せ、鄭寶の配下たちを委ねた
孫策が劉勳に勧めて、豫章の武装勢力の「上繚宗民」を攻撃させようとした
劉曄はこれに反対したが、劉勳はついに上繚攻撃に向かった。
孫策は劉勳の背後を襲い、劉勳は曹操のもとへと逃走した。


ここで魯粛伝と比較したとき、主に2つのことが気にかかる。
1つ目は、劉曄魯粛に対しては鄭寶との合流を勧めておきながら
自分自身は鄭寶の計画に対して賛成できず、殺害に至っている点である。
劉曄は智謀の士だが、これはたんに目論見が外れたということか。


2つ目は時系列の問題である。
・鄭寶の死亡
→劉勳の敗北
孫策の死亡
魯粛孫権と面会


この順番は絶対なのだが、
この流れに魯粛伝、劉曄伝を組み込んで違和感がないかどうか。
情報を統合してみる。


・198年、魯粛周瑜に同行して江東に渡る
魯粛孫策と面会する。魯粛は曲阿に住む
・祖母が亡くなり、魯粛は東城に戻り埋葬する
・旧知の劉曄が手紙を送り、魯粛に鄭寶を頼るよう勧める
劉曄自身は先に鄭寶に合流する
魯粛は母を迎えに曲阿へ向かう
曹操の使者が淮南に到来する
劉曄が鄭寶を殺害し、廬江太守の劉勳を頼る
・劉勳が「上繚宗民」攻撃に向かう
孫策が背後から襲い劉勳を破る。また廬江の皖を陥す。
孫策はそのまま西征し、黄祖と戦う(199年12月)。
・帰還の途上、豫章太守の華歆を降伏させる
孫策が死去する(200年4月)。
魯粛周瑜と会い、事情を語る
魯粛孫権と面会する


こうしてみると、確かに(私にとって)違和感のあることが確認できた。
というのは、魯粛周瑜と再会して語った内容は、
当然、鄭寶を頼ろうという劉曄の提案の件だと思っていたが、
その頃、鄭寶はとっくに亡くなっているということだ。


原文を見るとこうある。
「肅具以狀語瑜」
具以狀というのは頻出語で、「つぶさにありのままに」と解すればいいようだ。
つまり、鄭寶のことだとは決めつけられない。
鄭寶の死も含め、孫策の死も含め、
目まぐるしい情勢の中での身の振り方について
周瑜と話し合ったということなのか。


ひとつの判断として、母と共に故郷に戻るという判断があったはずだ。
そうすれば曹操の勢力圏である。
しかし、孫策の死のあたりであれば官渡の戦いの最中である。
帰郷が一番の安全策とは思えないふしがある。


しかし違和感というのは周瑜との語らいだけではない。
袁術に関する問題が残っている。
そもそも魯粛は江南に避難する直前、
袁術による任官を拒否している。
その魯粛がなぜ一時的に故郷に帰ったのか。
帰ることが出来たのか。


袁術を恐れていなかったか、
故郷が袁術の勢力圏を脱していたか、
袁術はすでに死んでいたか。


まず、袁術はそれほど人は殺していない。
自陣営から逃亡しようとした金尚を殺したことは史料に残っているが、
パッと思いつくのはそれくらいだろうか。
とは言え、危害を加えられないと信じるまでには至らないだろう。
普通であれば、疎開先の曲阿に祖母を埋葬する選択肢も
充分にあったはずだ。
それをせず帰郷したのは、もはや袁術を恐れる必要がなかったからだ。
東城は徐州、揚州の境界にあり、
197年の呂布の侵攻により、袁術の勢力圏を脱していた可能性はある。
また、198年に呂布袁術と再度同盟をするが、
その呂布も198年末に滅亡し、徐州は曹操が手中に収めている。


一方、袁術であるが、197年に皇帝を僭称し、
呂布を攻撃するも撃退され、さらに呂布からの侵攻も受ける。
ついで豫州方面でも曹操に完敗し、大将クラスを何名も失う。
また同じころ、呉景、孫賁周瑜孫策のもとへと逃亡。
198年に呂布と再度同盟するが、それ以外にポジティブなニュースはない。
199年に灊山の陳蘭、雷薄を頼ろうとするが拒絶され、
今度は仇敵の袁紹のもとへの逃亡を考えるも劉備に阻まれ、
199年の6月に死亡する(後漢書袁術伝)。
盛暑に死んだというが、199年6月は、現在の暦では7/11~8/9となる。


どうも、呂布の滅亡と前後して、
袁術陣営も完全に機能不全に陥っていたとみられる。
魯粛が帰郷したのは袁術死後と考えられないことはないが、
その場合、劉曄が鄭寶を殺し劉勳に合流するまでの期間がタイトになる。
袁術陣営が機能しなくなったのを呂布滅亡時(198年末)とすると、
それ以降であれば帰郷するにあたって不安は無くなっていたかも知れない。


そして袁術陣営がマヒしているからこそ、
淮南には「鄭寶、張多、許乾」という小軍閥が発生した、のかも知れない。
ただ、ここでは魯粛劉曄の立場の違いにも注意である。
劉曄が「鄭寶を頼ろう」と連絡したのは淮南が混乱しつつあるからだが
魯粛が帰郷できたのはまさに淮南が混乱しつつあるからだった。
そして、孫策存命時ならば、魯粛にとっては鄭寶を頼るなど愚策であったはずだ。
孫策死亡後なら鄭寶を頼る案もあり得ようが、
それは時系列的に成立しない。
つまり、魯粛伝が劉曄からの無用の手紙を載せただけに
無用な混乱を招いている気がする。


真実は、祖母埋葬後の魯粛が江南に戻った時、孫策は死亡しており、
今後の身の振り方について周瑜と語らった、ということだけだ。
その時、確かに魯粛は難しい判断を迫られていた。
そしてそれは劉曄自身が迫られていた判断とは全然関係がないのだ。


情報を再度整理していく。


・199年初頭、袁術陣営が機能不全に陥る
魯粛が帰郷し、祖母を埋葬する
・この頃、淮南で小軍閥が発生している
袁術が灊山の陳蘭たちを頼ろうとするも拒絶される
・この混乱に際し、劉曄は鄭寶を頼ろうと考え、魯粛にも勧める
劉曄はいち早く鄭寶に合流する。魯粛はまだ東城に留まっている
・鄭寶は江南行きを考える。劉曄はそれを憂慮する。
袁術袁紹を頼ろうとするも、劉備に阻まれる
・6月、袁術が死亡する
袁術残党の袁胤らが劉勳のもとへ逃亡する
袁術残党の張勳らが孫策のもとへ逃亡しようとしたのを劉勳が妨害する
・この頃、曹操の使者が淮南に到着。劉曄が面会する
劉曄が鄭寶を殺し、劉勳に合流する
孫策の献言により、劉勳が上繚宗民攻撃に向かう
孫策が劉勳を襲い、また、廬江を奪う
孫策がそのまま江夏に向かい、黄祖と交戦する(12月)
孫策は帰還途上、豫章太守の華歆を降伏させる
孫策が死亡する(200年4月)
・この頃、魯粛がおよそ1年ぶりに江南に戻る


この整理により、多少は違和感は減っただろうか。
敢えて帰郷して祖母を埋葬したことを考えれば、
魯粛は祖母の墓守を1年ほどしたのかも知れない。
そうした儒教的態度は魯粛に似合わないかも知れないが、
不整合とまでは言えないかも知れない。


結局のところ、謎の全てが解けたとは言えないのだが
魯粛劉曄、鄭宝を巡る時系列を整理できただけで
収穫があったものとする。

孫策と二張(張昭と張紘)

分かっているようで分かっていない(私が)なのは、
二張はいつ孫策に仕えたか、である。


三国志演義をざっと調べて見ると
両者は孫策が劉繇攻撃に赴く際に合流している。
推薦したのは周瑜で、「江東有二張」という文句が出てくる。
だが、二張はどちらも徐州人であって、
江東(長江以南)の出身ではない。
劉繇攻撃前に孫策に合流できるなら、
その時点では江北にいた可能性が高いはず。
江東(江南)に疎開する前だったはずだ。
とは言え、これは小説の話であり、
その詳細を吟味しても仕方がない。
しかし、このような整合性のない脚色がなされたのは
ひとえに両者の具体的な仕官時期が不明だからだろう。


二人のうち、張紘の方が情報は豊富である。
張紘伝によれば、張紘は京都の遊学から戻った後、
仕官せずに故郷にいた。
その後、江東に避難し、孫策が創業するとそれを支えたという。


孫策伝からは、より詳細な状況が分かる。
孫堅が義兵を起こした頃、孫策は母と共に廬江の舒県に居留した。
ここで周瑜と友人となる。
そして孫堅が死に、その亡骸は曲阿に葬られたが(なぜ?)
しばらくすると(孫策は)長江を北に渡って、江都に住んだ。
しかし徐州刺史の陶謙孫策を警戒したため(なぜ?)、
孫策は母を曲阿に移すと、自分はおじの丹陽太守の呉景を頼った。


注の呉歴が孫策と張紘の邂逅を記している。
それによれば、孫策が江都にあったとき、
張紘は喪中であったが、それを孫策が訪ね、
時世について諮問した。
この時、孫策の真心ある言葉に張紘も感じ入り、
両者に結びつきが生まれた。
会話の内容をどこまで信じていいかという問題はあるが、
呉景が丹陽太守であることが語られ、
また袁術を「袁揚州」と呼んでおり、193年中頃のことと思われる。
そして、孫策は「母と弟を貴方に預ければ後顧の憂いはない」と言う。
つまり、関係性は生まれたとはいえ、
張紘は浪人状態の孫策の臣従したわけではない。
この頃に孫策に従っていたのは、呂範や孫河だけ、とも書かれる。


さて、孫策は江都にいたが、張紘はどこにいたのか。
張紘は「廣陵人」と書かれる。
これは「廣陵郡の出身だが、出身県は不明」な可能性もゼロではないが、
「廣陵郡廣陵県の出身」を意味する可能性は大きい。
江都と廣陵県はきわめて近い。
二人の出会いのエピソードの真実性が高まる。

 




しかし気になるところもないではない。
朱治伝によれば、朱治孫策と劉繇が事を構えた頃、吳郡都尉だった。
そしておそらく朱治は錢唐県にいたと思われるが、
曲阿にいる孫策の母と弟(孫権ら)を迎え入れた、という。


孫策の母と弟たちは張紘が庇護していたのではなかったのか。
あるいは、曹操の徐州侵攻(193年秋~)に合わせて
張紘もまた江東に疎開した、そして孫策の母らも曲阿に移ったのだろうか。
曹操自体は徐州の下邳国中部あたりまでしか侵攻していない。
だが、この戦闘で下邳国相の笮融が逃亡して廣陵太守の趙昱を頼り、
後に趙昱を殺害して(廣陵を)大いに略奪して江東に去る、
という騒乱が起きる。
笮融は劉繇を盟主に頂いて、丹陽郡の秣陵縣に駐屯する。


しかし張紘はしばらく史書から姿を消す。
再び登場するのは呂布の逸話においてである。
韋昭の呉書によると、呂布が徐州を奪うと、
張紘を茂才に推挙して、召しだそうとした。
張紘はこれを恥に思い、孫策もこれを拒絶するのだが、
これは単に呂布が徐州を奪った時期の出来事ではなく、
袁術同盟が築かれた時の話なのだろう。
であれば、呂布孫策陣営に公然とちょっかいを出すのは
おかしなことではない。
つまり、197年中頃の話であろう。


では張紘はいつ孫策に合流したのか。


①笮融により廣陵が混乱に陥り、
それに伴い、江東の曲阿に移住し、劉繇の勢力下にいた。
それを孫策が打倒し、そこで両者が再会したのだろうか(195年頃)。


②あるいは、張紘は故郷に残っていたが、
孫策が曲阿を落とした時点で江東に赴き、
孫策に合流したのだろうか。


③あるいは、次に廣陵に災難が降りかかったタイミング、
つまり袁術が淮水沿いに徐州に侵攻した196年、
この頃に江東に避難し、孫策に仕えたのだろうか。


私は最近、この③に傾きつつあった。
つまり、孫策陣営への合流時期はかなり遅くなるのだが
これこそが真実なのではないかという思いがあった。
ただしこの場合は少し気になることがある。


陶謙が194年の終盤に死に、劉備がそれを引き継ぎ、
しばらく徐州には平穏が訪れる。
袁術が徐州に侵攻する196年中頃までに
劉備が張紘を召しだすことはなかったのだろうか、という疑問がある。


この疑問を重視するのなら、
①のケース(劉備時代には張紘はもういなかった)が答えとなる。


ただし、この頃の価値観として、
自分の出身地の統治者(郡守など)が殺害されると
それを恥に思う(そして殺害した者へ復讐心を抱く)というのがままあるが
張紘は、笮融と同盟する劉繇の元におめおめと疎開したのか。
そういう疑問も湧いてくる。
なかなか答えは出ない。


張紘は最後まで孫策の家族を庇護していなかった件については、
そもそも呉歴のその逸話が脚色されたものである(庇護の約束はない)、
または、途中で庇護から外れた、それぞれの可能性があろうか。
たとえば193年秋の曹操の徐州侵攻では廣陵はまだ安全であったが、
孫策の母(呉夫人)あたりが決断し、
いち早く江東へと移ったのかも知れない。
だが、劉繇が袁術と敵対したので、結果的には危険な判断となった。


さて、次に張昭である。
二張と並び称されるが、やはり張昭こそがビッグネームという気がする。
なお、正史三国志には二張という表現は出てこないが、
孫権が張昭を張公と呼び、
張紘を東部と呼び(張紘は會稽東部都尉であった)、
他の群臣を字(あざな)で呼ぶのとは区別したとあり、
そういう意味でも二張という呼称(後代の創作とは言え)は秀逸であろう。


演義ではvs劉繇戦で進言を行う張昭だが、
正史にはやはりそのような記述はない。
それどころか、いつ孫策に仕えたのか、
あるいはいつ江東に避難したのか、手がかりが極めて少ない。


徐州人の張昭だが、陶謙の招聘に応じず、
怒りを買って拘禁されるという事態に遭遇している。
しかし韋昭の呉書には張昭が陶謙の死に向けた哀辭を載せており、
けっして仇敵関係にあったというわけではなさそうだ。
その拘禁事件を救ってくれたのが趙昱であった(また出てきた)。
徐州人の張昭、趙昱、王朗は共に名を知られ、親交があった。
さて、拘禁事件のあとのことである。
漢末の動乱で多くの徐州人は揚州へと避難したが
張昭もまた長江を渡り、孫策の創業を助けた、という。


端的に言えば、張昭の疎開と出仕の内容は、これだけである。
ここから可能性を絞っていきたい。


まず、陶謙が徐州刺史となったのは
そもそも徐州の黄巾賊(188年発生)討伐のためである。
孫堅董卓軍を破り、一時洛陽に入ったが、
その頃に徐州への援軍として朱治を派遣している。
これはおそらく191年頃のことで、
徐州の治安回復は191年いっぱいまで掛かったかも知れない。
192年になると陶謙はだいぶ余裕が出てきて、
朝廷工作も始める。
張昭を拘禁するという事件も、ある意味で余裕の表れと言えるので
この頃のことかも知れない。


もっとも、拘禁事件がもっと前であれば、
解放後にも徐州黄巾の乱は継続していたわけであり、
いつ揚州に疎開してもおかしくない。
これだけと可能性は絞り込めないので、
まだ張昭は徐州に残っていたして、考察を進める。


その場合、次の疎開のタイミングは、
やはり曹操の徐州侵攻であろう。
張昭は「彭城人」と書かれる。
おそらく彭城郡彭城県の出身であり、
193年秋から194年春にかけての曹操の徐州侵攻(第一次)、
これにより彭城は破壊しつくされたと思われる。
疎開の原因はこちらなのか。


193年には趙昱は廣陵太守となっている。
廣陵は曹操の徐州侵攻の範囲外である。
下邳国相の笮融が逃亡して趙昱を頼ったのもその証左である。
のちに廣陵太守となった陳登は射陽県に駐屯するが、
趙昱がどこにいたかは不明である。
後漢書の地理志を見ても、
廣陵郡治がどこかは明言していない。


いずれにせよ、いったん趙昱を頼った可能性はないのか。
そして趙昱の横死により、張紘などと同じく、
曲阿に移住した可能性もあるのか。
そして孫策が曲阿を陥し、それが仕官のきっかけとなった。


先ほどは書かなかったことをふと思ったが、
この場合、張紘や張昭はなぜ劉繇に仕えなかったのか。
張紘は孫策と旧知であり、「相思相愛」であった。
張昭はその張紘から孫策の話を聞いていたのだろうか。


あるいは疎開の本来の目的、「生存」が念頭にあったのかも知れぬ。
もし曹操の徐州侵攻後に曲阿に来たのなら
それは袁術と劉繇の関係が悪化していった時期でもある。
戦争へ突入する劉繇陣営に身を託すほど
劉繇との個人的な関係は深まらなかったか。


実際、孫策に敗れた劉繇の逃避行に同行したのは
劉繇と同郷の青州人が多い。


そもそも、張昭と張紘の関係性もあまりよく分からない。
それを言うなら、実は孫策と張昭の関係性も
よく分かっていない。具体的な逸話がない。


もちろん張昭と張紘が同行していなかった可能性はある。
張昭が194年から曲阿におり、195年に孫策に仕官。
張紘は196年に袁術の徐州侵攻を避けて
始めて江東に移住し、孫策に合流。
そういう可能性もある。


張昭と張紘とは共に孫策の参謀となり、
ひとりは常に留守を預かり、ひとりは常に従軍したという。
また、「張昭、張紘、秦松、陳端らが孫策の謀主になった」、
「張昭、張紘、秦松が上賓となった」など
重用されたことを示す表現はある。


また、張昭が晩年に孫権とたびたび揉めた際、
太后孫権の母)と桓王(孫策)は陛下(孫権)を
私めにお預けされた」という言葉を残している。
実際、死に際に後事を託すだけの関係性はあったのだろう。


孫策が張昭をどのように評価していたか、
その言葉も知りたかったものである。


さて、上にフラっと出てきた秦松、陳端のことは
三国志ファンであれば知っていようが、
彼らは孫策の信任を受けたという意外は事績がろくに残っていない。


むしろエピソードに事欠かないのは虞翻である。
二張以上に孫策から重用されたのではと思うほどである。
つまり、二張という括りは、孫権時代を含めての評価なのではないか。
虞翻孫権時代は疎んじられ、ついには南方に配流された。
孫策が長生きし、虞翻に活躍の場がもっと与えられていたら
「二張一虞」と称されていたやも知れぬ。


などと最近は考えていたところで、ふと思った。
虞翻は王朗に仕えた。
では張昭が王朗に仕えた可能性はないのか。
張昭は趙昱、王朗と親交があった。
江東に渡ったとして、もう少し足を延ばして、
会稽太守の王朗を頼る方が話の筋が通るのではないか。
汝南人の許靖が旧知の王朗を頼った例もある。
王朗が敗北すると、許靖はさらに交州へと逃げた。
一方、虞翻孫策に仕えることとなった。
王朗は孫策に譴責されながらも命は許された。
張昭も虞翻と同じ道をたどったということはないのか。
会稽郡の郡治は山陰県である。
王朗を頼ったのなら、山陰に居留していた可能性は高い。


もし張昭が195年に曲阿で孫策に合流しているのなら
196年のvs王朗戦でどういう態度を取ったのかは気になる。
降伏の呼びかけなり何なりで、役割があったはずである。
旧友への降伏勧告などは
あまり名誉あることではないので史書が書き残さなかったのか。
あるいは、やはりこの時はまだ孫策に仕えていなかったのか。


張紘の時も書いたが、劉繇は笮融と同盟した。
張紘にとって趙昱は郷里の太守であり、
張昭にとって趙昱は旧友である。
張昭にとって劉繇が含みのある相手ならば
劉繇ではなく王朗を頼る方が筋が通る。


もしそうだとするなら、
孫策は196年の中頃に至るまで、
二張のどちらも手に入れていなかったということもあり得る。
周瑜も195年の曲阿平定後に離脱。
孫策に再合流するのは198年だ。


その頃の孫策陣営のメンバーを書き出し、
誰が戦略立案に関与していたかを考えてみるのも一興だろう。
たとえば徐琨の母(孫堅の妹)は
vs劉繇の長江渡河に関して秀逸な助言をしており、
呉夫人(孫堅の妻)も知略の人として知られる。
もしかしたら意外な人たちが孫策のブレーンだったのかもしれない。

丹陽西部

孫策と丹陽郡の関連性を整理しておきたい。
この際、「丹陽西部」についても注目が必要となる。


特に調べ直さず、丹陽に関する自分の認識を書いていくが
まず地図を置いておこう。


丹陽は、丹楊とも書かれることが多い。
レアケースでは、丹揚と書かれていることもある。
いろいろ調べては見たが、どうやら「正しくは丹陽」とのことらしい。
しかし丹楊と書かれることが多いのは
何か理由があるのか、単なる転写ミスなのか
史家の言及を確認するまでには至らなかった。


なお、三国志関連では「もうひとつの丹陽」が存在する。
晋の益州方面軍(王濬、唐彬)が呉に侵攻するとき、
最初に攻略したのが「丹楊城」であり、
呉陣営の「丹楊監」の盛紀という人物を捕虜にしている。
これは晋書における記述である。


もとは周の第2代の成王が、熊繹を子爵に封じた。
これが後の楚国へと繋がるが、その最初の封土が「丹陽」であり、
秭歸県の東にあったという。
こちらも「丹陽」「丹楊」の混同が起きている。
益州の巴東郡から長江に沿って荊州に入る際、
最初に到達するのは巫県なのだが、晋の呉平定戦には出てこない。
あるいはこれ以前に、晋により略取されていたか。
巫県から東方に向かっては、下記のような位置関係となる。


巫県 → 秭歸県/丹楊城/信陵県 → 西陵県(旧名:夷陵)


水經注図を見るに、秭歸、丹楊、信陵は密接している。
丹楊城だけ出てくるので、おそらく280年頃のこの辺りの拠点は
丹楊城に一本化されていたのか。


揚州の丹陽に戻る。
秣陵県についても触れておこう。
211年、孫権は秣陵県の北部に拠点を移し、秣陵を建業に改名する。
晋が呉を平定すると、建業を秣陵に戻すが、
まもなく秣陵を分離し、その北部を建「鄴」県として並置する。
愍帝(司馬鄴)が即位すると(313年)、
避諱のため建康に改名する。


さて、西晋が滅び、司馬睿が東晋を起こすと
建康県、丹陽郡が首都となり、
丹陽郡=丹陽尹へと改称する。
丹陽太守=丹陽尹へとも改称するので紛らわしいが
河南尹と同じ呼称ルールなのだろう。
このようなルールにする理由を私は調査できていない。


孫呉の時代、首都は武昌であったり、建業であったり、時期によって異なるが
丹陽尹という名称が使われたのかという点は気になる。


後漢代の丹陽郡へと話を戻す。


献帝の初年、丹陽太守は周昕であった。
周昕は会稽の人で、周昂、周㬂の兄である。
この会稽周氏三兄弟は、いずれも袁紹曹操の協力者である。


193年、袁術南陽を捨て、兗州に侵入して曹操を攻撃。
しかし敗北して揚州に逃れ、割拠する。
その後、呉景を丹陽太守、孫賁を丹陽都尉に任命し、周昕を攻撃。
周昕は争いを避け、帰郷した。
この頃、孫策が母方の「おじ」の呉景を頼って丹陽に来る。
そして募兵をし、丹陽西部にいる祖郎と抗争をする。
結果的に孫策は敗北し、袁術のもとに赴き、「直参」となる。
孫策袁術の部下と呼びたくはない、という問題はある。


さて同じ頃、長安政権(李傕)が関東諸侯の和平を進める。
その一環として揚州刺史として劉繇を送りこんでくる。
袁術はこの「和平案」をいったん受け入れる。
劉繇は呉景の導きにより、呉郡曲阿に身を落ち着ける。


このあと、袁術は徐州攻撃をもくろむ。
そこで廬江太守の陸康に軍糧を要求。
陸康が断ると、袁術孫策を使って廬江に侵攻。
これを機に劉繇は袁術に反発し、
丹陽太守の呉景に「圧力を加え」、追い出す。


袁術は劉繇征討軍を編成する。
督軍中郎將となった呉景が最高司令官なのであろう。
そして孫賁と、新たに丹陽太守に任命された周尚とがいた。
この袁術側の反攻は194年には始まったはずだ。
そしてそこに孫策周瑜も参加した。


この戦闘は195年まで続く。
呉景軍(孫策軍)は渡河して丹陽を攻略し、
東征して呉郡曲阿を陥すことで終結
このとき孫策周瑜に「君は丹陽を固めてくれ」と丹陽に帰還させる。
丹陽太守は引き続き周尚(周瑜のおじ)だったのだろう。


一方、曲阿を脱した劉繇は長江を遡上し、豫章へと逃走する。
途中、太史慈が離反し、丹陽西部に独立割拠する(太守を自称)。


このあと195年から196年に掛け、孫策は会稽を攻略するのだが、
同時期、袁術は呉景、孫賁を呼び戻して豫州・徐州を侵攻。
また、丹陽太守は周尚から袁胤に交代となり、周瑜も江北に帰還。


197年春、袁術が皇帝を僭称する。
曹操呂布と和解し、反・袁術同盟を築く。
これに孫策も参加し、丹陽攻略に乗り出す。
まず丹陽太守の袁胤を追い出す。
孫策が代わりに置いた太守は徐琨である。
徐琨の母は孫堅の妹、つまり徐琨は孫策のいとこにあたる。
だがこの頃、呉景が袁術陣営から離反してやってきており、
丹陽太守は呉景に交代となる。


※以前の記事で、「197年の袁術呂布の抗争があった頃には
呉景は孫策のもとに逃亡していたのでは?」と書いたのだが
いろいろと考えると、必ずしもそうとは言えない気がしてきている。
呂布との抗争で呉景もまた敗北し、その後に孫策のもとへ来た可能性もある。


その後、孫策はおそらく193年以来、
ふたたび丹陽西部の祖郎と戦うことになる。
同じく丹陽西部にいた太史慈とも戦い、勝利し、両者を自陣営に迎える。
なお、祖郎のその後の活躍は史書に残っていない。


この丹陽西部の攻略時期がハッキリしない。
袁術が死亡する199年中頃よりは前なのは確実で
おそらく198年のいつ頃かかと思うが、詳細な時期は考察できていない。
いずれにせよ、周昕が太守の時代はともかく、
193年から198年頃まで、丹陽西部は小規模勢力が自立していた地域だった。


その丹陽西部とは具体的にどの範囲なのか。


呂範伝にはこうある。
>又從攻祖郎於陵陽,太史慈於勇里。七縣平定
つまり丹陽西側の7県なのか。


一方で、孫輔伝にはこうある。
>策討丹楊七縣,使輔西屯歷陽以拒袁術,并招誘餘民,鳩合遺散。
>又從策討陵陽,生得祖郎等。


ここにも「七縣」とあり、これは7県で確定かとも考えたが、
内容的には怪しい。
どうも丹陽東部(袁胤が統治)を討伐する際に、
孫輔が江北の歷陽県に出張って袁術を牽制した、
その後、丹陽西部の討伐に孫輔も従軍した、このように読めるからだ。
その場合、7県とは袁胤の支配領域を指すようにも解釈できる。


太史慈伝を見てみる。
>慈當與繇俱奔豫章,而遁於蕪湖,亡入山中,稱丹楊太守。
>是時,策已平定宣城以東,惟涇以西六縣未服。
>慈因進住涇縣,立屯府,大為山越所附。

(抄訳)
太史慈は劉繇陣営から逃走し、丹陽太守を自称した。
この時(最初に孫策が劉繇を破った時)、孫策は宣城県以東を平定していて、
涇県以西の六縣は服従していなかった。
太史慈は涇県に行き、屯府を立て、大いに山越の味方するところとなった。


周泰
>權愛其為人,請以自給。
>策討六縣山賊,權住宣城,使士自衞,不能千人,
>意尚忽略,不治圍落,而山賊數千人卒至。

(抄訳)
孫権周泰を気に入っており、自分の幕僚とした。
孫策が六縣山賊を討伐した時、孫権は宣城県を守ったが、
山賊に急襲され(周泰孫権を守って重症を負った)。


太史慈は195年の、周泰伝は198年頃の話ではあるが
どちらも宣城県が東西の境界にあるように書かれている。


程普伝も見ておく必要がある。
これが少し問題である。
>策入會稽,以普為吳郡都尉,治錢唐。
>後徙丹楊都尉,居石城。
>復討宣城、涇、安吳、陵陽、春穀諸賊,皆破之。
>策嘗攻祖郎,大為所圍,普與一騎共蔽扞策,驅馬疾呼,以矛突賊,賊披,策因隨出。

(抄訳)
孫策が会稽に入ると、程普は吳郡都尉となり錢唐県を治所とした。
後に丹楊都尉になり、石城県に所在した。
また、宣城、涇、安吳、陵陽、春穀諸賊を討伐して破った。
孫策がかつて祖郎を攻撃した際、程普は孫策の窮地を救った。


この記事は時系列に疑義がある。
最後の祖郎の話は、193年の孫策の敗戦の話ではないのか。
ただし孫策の無防備な振る舞いはその最期にまで及んでおり、
198年の祖郎との再選でも窮地に陥った可能性はゼロとは言えないが。

それよりも、丹陽西部の諸県平定時と思われる記述に
宣城が含まれていることがひとつ気になる。
宣城が攻略のスタート地点であり、
それを平定したあとに孫権にそこを守らせたということなのか。


また、「丹楊都尉になり、石城県に居した」とはどういうことか。
丹陽攻略の際(袁胤攻撃の際)に徐琨が丹陽太守となり、
程普が丹楊都尉となった、と解釈してよいのか。


その場合、石城県の位置が問題となる。
三国志集解では各書を引いて推測している。
①牛渚の東方に石城がある、
②石城の東方に牛渚がある、
③池州貴治県の西に石城がある等の説もあり、
中国歴史地図集の後漢代のページは①に依拠している。
この場合、丹陽西部の攻略前に
程普が丹楊都尉となり、最前線に駐屯したと理解できる。


ただし、私がしっくり来るのは「池州貴治県の西」説で、
これは丹陽郡の最西端が石城県ということになる。
だがそれだと、程普の石城県駐屯に関して疑問が起こる。
つまり、程普伝の時系列を信じるならば、
丹陽西部の攻略前に程普が丹陽の最西端に駐屯したことになるからだ。


もっとも、石城県が長江沿いの都市であり、
丹陽西部の諸勢力が「山賊」であったのなら
石城県だけ別扱いであったという可能性はある。
なにせ対岸には廬江郡の皖県があり、
そこには劉勲が駐屯している。
丹陽西部の中でも石城県は長らく袁術陣営に属しており、
孫策が袁胤を追い出す過程で、
同じタイミングで石城県も平定したのかも知れない。
そしてそこへ程普を送りこみ、
丹陽西部を平定する際には
東からは孫策、西からは程普という挟撃もあり得たのかも知れない。
とは言え、丹陽の中央寄りの宣城、春穀に
程普が最西端から参戦するというのはやはり奇妙なのだが。


となると、やはり程普伝の記述(時系列)が不正確なのではないか。
程普は丹楊都尉となり、丹陽西部の平定に従軍し、
そのあとに最西端の石城県の鎮守にあたった、ということではないか。


このあと石城という地名は史書から消えていくが、
孫呉の後半に突如でてくる長江沿いの拠点の「虎林」、
これが旧・石城県なのだと私は解釈している。



最期の考察として、
丹陽西部7県、または6県は特定できるのか。


もっとも、この数字というのが語呂合わせの可能性があるので
(それこそ五胡十六国の数字が正確でないように)
あまり数字にこだわっても意味はないのかも知れないが。


最初に、丹陽西南部、のちに新都郡として分離する一帯が、
いわゆる丹陽西部に属していたかは考えておきたい。


208年、赤壁の戦いと同じ時期に
威武中郎將の賀齊が丹陽西南部の黟県、歙県を討伐。
これを6県に分割したうえで、新都郡として分離・独立した。
この征討はなかなか大がかりの軍事行動のように書かれるが、
そもそも孫策の丹陽西部攻略の際にも戦闘があったのだろうか。


私は違うのではないかと見ている。
孫策が袁胤を追い出したあと、
袁術は丹楊宗帥の祖郎らに印綬をばら撒き、山越を煽動し、
ともに孫策を図った、という記述が江表伝にある(※)。
黟県、歙県の頭目らも袁術印綬を受け取ったかも知れない。
しかし、孫策が丹陽西部を攻略する過程で、
そこからはやや遠方の黟県、歙県は戦闘には巻き込まれず、
しかし孫策に降伏を申し出、袁術の偽印綬も「献上」したのではないか。
そういう想像をしている。
現在の安徽省黄山市に黟県、歙県の地名は残っており、
当時の所在とも大きく差はないと理解するが、
丹陽の北部・東部からこの地に侵攻するのは
かなり大がかりなことになりそうだ。
※江表伝によれば、同時期に陳瑀が類似の工作をしている。
陳瑀は曹操方の呉郡太守として広陵郡の南端にいて、
孫策とは反袁術の同盟勢力であったが、孫策を警戒してこれを行った。
袁術も陳瑀も同じような工作をしていたのか
なにか記事に混乱があるのか、よく分からない(後でまた少し触れる)。


208年に討伐を行った賀齊、そして蔣欽だが
前者は205年に上饒県を討伐している。
後者も会稽の賊の平定に転戦をしている。
それを思うと、南方から黟県、歙県に方面に侵攻したか。
あるいは、浙江(錢塘江)を遡上する形で、東方から侵攻したか。


こうして考えると、
やはり黟県、歙県は別扱いだったのではないか。
ではこの2県を除いて、丹陽西部に6~7県が残るのか。



この地図に当時の丹陽郡の県を記載した。
後漢書の地理志に記載される16県はオレンジの点で示した。
改めて気づいたのは、宣城県がこの範囲外ということである。
とは言え、後漢書を見ていくと
抗徐なる人物が156年以前に宣城県長になっていることが分かる。
つまり、後漢書の地理志が載せるのは
もっと早い時期での県情報なのか。
その時は宣城県は存在しなかったのか。
あるいは、記載漏れなのか。


類似のケースは他にもあり、
宋書の州郡志を見るに原鄉県、安吉県は霊帝の時代に新設されたらしい。
これらは白い点で示した。


同じ宋書で「呉が立てた」とされるのが、永平、懷安、寧國、安吳、臨城の諸県。
また廣德も呉が立てたのでは、と推測されている。
これは黄色の点で示した。


この「呉」が何を指すかだが、
淩操は永平県長になっており(203年以前)、
呂範は懷安、寧國を奉邑としており(220年頃)、
安吳は丹陽西部攻略の際にその名が見え(198年頃)、
臨城は徐盛伝に出てくる(210年代か)。
また、李術を破った徐琨は廣德候に封じられており(200年頃か)、
呂蒙がまた廣德県長となっている(200年代か)。


こう見ると、「呉が立てた」とは言うものの、
実際には後漢末には設置されていたのではないか。
安吳に至ってた孫策到来以前から存在していた可能性もある。
あるいは県に満たない、しかし有力な「郷」であったのだろうか。


以上は地理志からの調査だが、
逆に、三国志には出てくるが、後代の地理志に出てこないものがある。
それが「始安」である。


江表伝によれば、反袁術同盟の陳瑀は孫策を警戒し、
丹陽や呉郡の諸県の賊に印綬をバラ撒いた。
この時、宣城、涇、陵陽、黟、歙と並んで出てくるのが「始安」である。
原文を見ておく。


>使持印傳三十餘紐與賊丹楊、宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙諸險縣大帥祖郎、
>焦已及吳郡烏程嚴白虎等,使為內應


おそらくこれは標点の位置がおかしい。
ここにおける丹楊は県ではなく郡を指しているのだろうから、
「丹楊宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙諸險縣」とすべきであろう。


また、賀齊伝にも出てくる。
>二十一年,鄱陽民尤突受曹公印綬,化民為賊,陵陽、始安、涇縣皆與突相應。
>齊與陸遜討破突,斬首數千,餘黨震服,丹楊三縣皆降,料得精兵八千人。


216年、曹操の煽動により鄱陽で反乱が起き、丹陽の3県(陵陽、始安、涇)が呼応した。
つまり、始安はこの時点で丹陽の県であったのは間違いあるまい。


その正確な所在は分からないが、
陵陽県から石城県あたりまでがポッカリと空いているので
そのあたりにあったのかも知れない。
地図中では☆マークで記載している。


こうして地図を書いて見てみると、
涇、安吳、陵陽、臨城、始安、石城の6県は丹陽西部と言えるのではないか。
孫権が守将をしていた際に「山賊」の攻撃を受けた宣城や、
あるいは丹陽西部攻略の時期に程普が侵攻した春穀までを
同じ勢力圏に含めてしまっていいのかは判断がつかない。


なお、丹陽西南部は208年に新都郡となり(晋代には名前を変える)、
東南部は呉郡の西南部と合わせて呉興郡となり(266年。孫晧の時代)、
晋が呉を平定すると宣城郡を置いた(281年)。
参考までに、宣城郡の範囲を地図で示して終わりとする。

 

沈友と、呉興武康県の沈氏を考える

前回の華歆の記事において、沈友との関係は省略した。
今回をそれを取り上げたうえで、沈氏のことを少し考える。
 
 
沈友は三国志呉主伝の注の吳錄に出てくる。
呉主伝の204年の記事に注が付され、
その文章は「この時~」と始まり、孫権が沈友を処刑したと記す。
いちいち訳さないが、その全文を載せておく。
 
 
>吳錄曰:是時權大會官寮,沈友有所是非,令人扶出,謂曰:「人言卿欲反。」
>友知不得脫,乃曰:「主上在許,有無君之心者,可謂非反乎?」遂殺之。
 
 
>友字子正,吳郡人。年十一,華歆行風俗,見而異之,
>因呼曰:「沈郎,可登車語乎?」
>友逡巡卻曰:「君子講好,會宴以禮,今仁義陵遲,聖道漸壞,先生銜命,
>將以裨補先王之教,整齊風俗,而輕脫威儀,猶負薪救火,無乃更崇其熾乎!」
>歆慚曰:「自桓、靈以來,雖多英彥,未有幼童若此者。」
 
 
>弱冠博學,多所貫綜,善屬文辭。兼好武事,注孫子兵法。
>又辯於口,每所至,眾人皆默然,莫與為對,
>咸言其筆之妙,舌之妙,刀之妙,三者皆過絕於人。
>權以禮聘,既至,論王霸之略,當時之務,權斂容敬焉。陳荊州宜并之計,納之。
>正色立朝,清議峻厲,為庸臣所譖,誣以謀反。權亦以終不為己用,故害之,時年二十九。
 
 
沈友は享年29なので、もし本当に処刑されたのが204年で間違いないのなら
11歳の時に華歆と会ったというのは、186年のこととなる。
華歆は「行風俗」、つまり使者として地方の風俗を巡察したおりに沈友と会った。
 
 
ちくま訳は「行風俗」の3文字をこう訳している。
「朝廷から使者として遣わされ各地の政治教化の成績を尋ねて巡察していたが」
あまりに補完しすぎだが、意味としてこのように解釈すべきなのだろう。
 
 
さて、この出会いにはいくつか違和感がある。
まず、三国志集解も言うように、沈友に対する華歆の台詞である。
桓帝霊帝の御代以来、俊才は多くあれど、ここまで若い者はいなかった」。
 
 
もしこれが186年の出来事なら、ここで「霊帝」と言うのはおかしい。
霊帝諡号であるから、霊帝死後(189年以後)の登場する言葉だからだ。
また、集解は華歆伝に「霊帝時代に華歆が呉郡を巡察したこと」が不記載として
この吳錄の内容を疑っている。
 
 
個人的にはもうひとつ、軽い疑いを掛けておきたい。
華歆の評価は別の機会にやるかも知れないが
彼は「清らかで控え目で折り目正しい徳義の人」、それ一本やりであり、
みだりに人物評価を行う印象は薄い。
この、11歳の沈友とのエピソードは私の華歆のイメージから離れている。
(伏皇后殺害の件は、華歆を考える上でのノイズである)
 
 
とは言え、両者の出会いがなかったとまで言えるのか。
華歆の台詞が少し違うだけで、本当に霊帝時代に出会っていたかもしれない。
あるいは、袁術陣営にいて太傅掾となった頃(193年)に
呉郡を訪ねたことがあったとか。
その場合、「行風俗」=朝廷の使者として、という解釈とは微妙に齟齬はあるが
矛盾とまでは言えないかも知れない。
 
 
ただし193年に沈友が11歳だったとすると、処刑されるのは211年である。
沈友は孫権から謀反の疑いを掛けられた際、
「天子は許におり、それを無下にする者は謀反でないと言えようか」と言った。
211年であれば、孫権曹操との敵対関係に完全に入っており
「君側の奸を除く」という大義名分を掲げていたはずだ。
それに対して「許都朝廷への忠誠の有無」を持ち出すのは道理が通らない。
曹操こそが不義の臣という解釈なのだから。
沈友の抗弁の内容を信じるなら、処刑は赤壁以前のように思える。
 
 
とは言え、沈友の言葉が正しく残っていないだけの可能性もあるので、
211年死亡説もまた完全には否定できない。
 
 
と、このように結論が出ないため、前回の記事とは分けることにしたのである。
 
 
次に考えておきたいのは、両者がどこで会ったか、である。
実は2人が呉郡で出会ったとは書かれていない。
華歆が地方巡察したのだから、沈友の故郷たる呉郡を訪ねたと想像するだけである。
別のどこかで会った可能性もあるが、その想像はキリがない。
だが、呉郡のどこであったか、については一度は考えたい。
というのも、沈友は呉郡人と書かれるだけで、出身県は不明である。
 
 
しかし、孫呉、あるいはその後の南朝において
「呉興武康県の沈氏」が史書に名を残していく。
沈友はもしかしたら、この「呉興武康県の沈氏」の可能性がある。
 
 
その話の前に、最後にもうひとつ沈友のことを触れておきたい。
呉録において、沈友は孫氏の兵法に注を入れたと書かれるが、
隋書の經籍三に「孫子兵法二卷,吳處士沈友撰」と記載がある。
沈友は実在した俊才で、その著作物は後代に伝えられたということだ。
 
 
さて、「呉興武康県の沈氏」。
司馬炎が永安県を改名して武康県としたのだが、
三国志集解の載せる「呉興記」によれば、
195年、呉郡太守の許貢が呉郡烏程県の餘不鄕を分離し、永安県を新設。
宋書によれば、霊帝の時代に烏程、餘杭の両県から分離したのが永安県。
どちらが正しいかは不明。
この後、孫晧の時代に永安山賊の施但が反乱(266年)。
その対応のためもあり、同年、呉興郡が新設された。
呉郡の西部、丹陽の東部の県を割いて作ったこの郡。
郡治は烏程県である。
 

後漢末に孫権が新都郡、鄱陽郡を立て、
孫晧の時代に呉興郡が立てられた。
 
 
この呉興武康県の沈氏と言えば、
東晋を調べている身からすれば、まず思いつくのは沈充である。
沈充は東晋の初年に反乱を起こした王敦の一味であり、処刑された。
その子の沈勁は、父が叛臣であることを「悲哀」しており、
北方戦線の前燕相手の籠城戦で国家に殉じることで、父の汚名を雪いだ。
 
 
晋末宋初にも呉興武康県の沈氏が出てくる。
私は劉宋の時代となると勉強不足でさっぱり分からないが、
それでも劉裕の創業を支えた沈田子、沈林子兄弟くらいは馴染みがある。
沈林子の孫が沈約であり、宋書を著した。
 
 
その宋書の「列傳第六十 自序」は沈約の祖先が細かく記載されている。
そのうち、後漢孫呉の時代をピックアップしたものが下図である。

 
沈氏のルーツは汝南平輿沈亭だというが、
前漢初に寿春に遷り、後漢初の沈戎が烏程県の餘不鄕に遷った。
その沈戎の子が沈酆、沈滸、沈景だというが、
一方で、新唐書の宰相世系によれば沈酆の子が沈滸だという。
年代的な整合性を考えると、新唐書の方が無理ないように思えるがどうか。
沈景の後継の詳細は書かれないが、沈演之はその子孫とのことである。
 
沈滸の子孫の中で気になるのは沈儀である。
おそらく孫権と同世代人であるが、出仕はしなかった。
その沈儀は族子の仲山や陸公紀と仲が良かったという。
陸公紀は陸積のことだろう。
両者は姻戚関係にもある。
族子の仲山は、沈珩の可能性がある。
沈珩は字が仲山、韋昭の呉書では「呉郡人」と書かれる。
この人も孫権の同時代人であり、
魏の文帝への使者となった事績が残っている。
そうであれば沈儀の族子でなく、族弟の可能性もあるのではないか。
 
 
さて、沈友を呉興武康の沈氏と見なす根拠は何もないが、
もし同族であれば、同世代の沈儀とも交友があったろう。
沈儀の祖父の盛憲は孫権により処刑され、
友人の陸績は正言により遠ざけられ、
さらに沈友もまた殺された。
沈儀が処士を貫いた=出仕しなかったのは、
ある意味で自然な流れだったのかも知れない。
 
 
その沈儀の子の沈憲は呉に仕えたという。
新都都尉、定陽侯(定陽県侯)になったとされる。
県侯というのはよっぽど功績があったということだが
官位の新都都尉とあまり釣り合わない。
 
 
その子の沈矯は孫晧の時代に将軍としての「称(ほまれ)」があり、
建威將軍、新都太守となった。
平呉の役を生き延び、太康(280-289)末に死去。
 
 
親子で新都郡の統治に関与しているが、
これは賀斉が丹陽南西部を討伐して新設された郡で
山越の住まう処の1つである。
もしかしたら沈憲は山越統治の功績により県侯にまで至り、
その沈憲の威名があればこそ、
子の沈矯も新都太守となり、山越対策にあたったのかも知れない。
 
 
沈矯と同じく呉末の沈瑩は、平呉の役で死亡した人物として
三国志ファンの間では有名だろうか。
ただし沈瑩は沈友と異なり、呉郡人であったかどうかすら分からない。
だが、呉興武康の沈氏であったのではないかと推測したくなる。
 
 
次回も揚州関連のことを書く予定。

華歆の豫章太守就任

華歆について考えたいことは2つある。
1つ目は、華歆の人物評価である。
魏朝の初代三公となった華歆をどう評価したらよいのか。
私の中では結論が出ている。
しかしいつ書くかは未定。
結論が出ているものについては
むしろ書くことが億劫になってしまっている。


2つ目は、華歆の豫章太守就任に関する疑問である。
その就任がいつなのか、
任命したのは誰なのか、
それを今回考えていく。


(華歆伝の前半要約)
華歆は青州平原郡高唐県の人で早くから名が知られた。
孝廉に推挙され、郎中に任命されたが病を理由に職を去った。
霊帝崩御後、何進に召されて尚書郎となった。
董卓による長安への西遷に従うが、
藍田を経て南陽へと逃走し、袁術に合流した。
袁術董卓追討を進言したが容れられず、去ることを欲した。
ちょうど太傅の馬日磾が関東諸侯の和平のため到来すると
華歆は太傅掾に任命された。
東に向かい徐州に至ると、詔勅により豫章太守に任命された。
その統治は「清靜不煩」で、吏民から愛された。
孫策が江東平定に乗り出すと、華歆はこれを迎え入れた。


まず馬日磾のことを考えると、
192年7月、李傕政権により太傅に任命されている(後漢書献帝紀)。
そして193年、関東諸侯を和解させる使者となる(三国志袁紹伝)。
このあと馬日磾は訪問先の袁術陣営において拘留され、
194年に死亡することになる。
193年春に袁術南陽を捨てて兗州に侵攻、
曹操に撃退されると揚州に逃走し、そこを根城にするわけだが、
馬日磾が袁術を訪問したのは、この揚州移動後なのだろう。


つまり、華歆伝には描かれないが、
華歆は袁術のもとから辞去することを考えつつも、
揚州への移動に付き従い、そこで太傅掾となったと推察される。


※華歆が袁術と別れ、どこかを放浪している際に
たまたま馬日磾と出会った可能性もゼロではないが、
それは想像の度合いが高すぎる。
今回の記事ではその可能性をバッサリと無視したい。


この頃に太傅掾となった人物では、他に孫策朱治がいる。
朱治はこのあと呉郡都尉になるのだが
では同じ頃に華歆も豫章太守になったのだろうか。
そもそも「東に向かい徐州に至ると(東至徐州)」とは何を意味するのか。
いったんこの謎を保留して、豫章郡の情勢を整理する。


豫章太守としては献帝の初年頃には周術なるものがいたらしい。
具体的な就任時期は推測である。
周術死後、その後継を巡って朱皓と諸葛玄が争った。
朱皓は朱儁の子であり、朝廷による任命である。
諸葛玄は諸葛亮の從父だが、任命者は劉表とも袁術とも言われる。
その考察もいったん措く。


この争いの最中、豫章にやってくるのが劉繇である。
劉繇は揚州刺史となると曲阿を拠点としたが、
孫策に敗れると丹徒へ逃げ、長江を遡った。
豫章に辿り着くと、彭澤に駐屯した。
劉繇の協力者としては笮融がいたが、
笮融は先に豫章に着いて、朱皓を殺したという。
これは三国志劉繇伝の本文の記述である。
注の獻帝春秋によれば、劉繇は豫章に至ると、
笮融を派遣して朱皓に味方させ、諸葛玄を攻撃しようとした。
だが笮融は朱皓を殺してしまった。


正史本文に戻ると、このあと劉繇は笮融を討伐。
笮融は山中に逃走したが、そこで民に殺された。
劉繇もまもなく病没したという。


さて、諸葛亮伝によれば、
諸葛玄は袁術の命に豫章太守となったが、
朱皓が送り込まれてくると、旧交のあった劉表を頼ったという。
荊州へ逃亡したという意味だろう。
諸葛亮伝注の獻帝春秋は別の結末を書く。
諸葛玄は劉表の上表により豫章太守となったが、
朱皓がやってきて、劉繇の助力を得て攻撃してくると、
南昌県から西城へと撤退した。
197年1月、西城民が反乱し、諸葛玄が殺害されたという。
西城というのは南昌県の西にあったという(三国志集解)。


通鑑は上記の記述を組み合わせている。
劉繇が孫策に敗北したのは195年なので、
そこから豫章に進み、朱皓、笮融が死ぬことまでまとめて書かれる。
ただし諸葛玄の最後は出てこない。
笮融死後、詔勅により「前太傅掾の華歆」が太守になったというところまで
195年の項に書かれている。


この整理は半分は正しい。
つまり、諸葛玄と朱皓の「豫章二分」の時期はあったが、
諸葛玄、朱皓、華歆の「豫章三分」の時期はないだろうということだ。


ただし、朱皓の死が195年というのは根拠がない。
つまり華歆の太守就任が195年というのも根拠がない。


しかし195年以前ではなく、以後に就任ということは分かる。
通鑑はその時の華歆の肩書きを「前太傅掾」とするが、
太傅の馬日磾の死は194年のため、
194年~195年の華歆の肩書きが不明ということが見えてくる。


いったい、華歆の着任はいつなのか。
誰が任命したのか。
それは後回しにし、劉繇死後の動向を先に見ておこう。


実は劉繇の死亡時期はハッキリしない。
通鑑では、先ほどの195年の記事が生存時の最後の登場となる。
劉繇考察は今回のテーマではないので、
さらっとだけ触れておく。


孫策は195年に劉繇を破り、呉郡(の一部)を手にする。
196年、会稽に侵出して王朗を破り、会稽太守となる。
197年春、袁術が皇帝を僭称すると、孫策はこれに絶交。
曹操/許都政権による袁術包囲網に参加する。
袁術配下の袁胤は丹陽太守であったが、これを破り、追い出す。
もっとも、袁胤が支配できていたのは丹陽の東部だけである。
西部には、祖朗、太史慈らが独立勢力として存在していた。
太史慈は劉繇陣営からは離脱して独立していた)
次に孫策はこの丹陽西部を攻撃するわけだが、
太史慈を捕らえると、彼に劉繇陣営の偵察を命じる。(★※追記あり。後述)
太史慈はそのまま逃亡するのではという意見があったが、
孫策は彼を信じて送りだしたというのが有名な逸話である。
で、この偵察を任せた時、すでに劉繇は死去していた。
劉繇死後の遺臣の動向を探らせたのである。
これが具体的にいつなのかは不明だが、
なんとなく198年なのではと思っている。
呉郡の大小軍閥(厳白虎など)の掃討は
具体的な時期は絞り込めていないが、196年ー198年頃だろうか。

(★※追記。太史慈伝を読み返すと、太史慈を捕らえた際に劉繇陣営の偵察を命じたのは呉歴の記事であり、裴松之はその真偽を疑っている。おそらく太史慈を捕らえてから、劉繇の死まではタイムラグがあったと思われ、本稿で「劉繇の死亡時期=198年なのでは?」と書いたのは根拠がない。199年である可能性もあると思われる。)


199年夏の袁術死後、孫策は大きな軍事行動を起こす。
廬江太守の劉勳を騙して、
「上繚宗民」と呼ばれる独立勢力の攻撃に向かわせる。
その隙に廬江の皖県を陥し、そのまま進んで劉勳を撃破。
劉勳救援に来た黄祖軍を撃退するだけでなく、
追撃して江夏郡でも戦闘。
そして帰還の途上、一気に豫章、廬陵を平定する。
この時、豫章太守の華歆が戦わずして孫策に降伏する。


呉録が載せる孫策の上表文によれば、
孫策が江夏を攻撃したのは199年12月である。
孫策の死は200年4月である(三国志注の「志林」による)。
では華歆が降伏したのは200年1月頃だろうか。


降伏の経緯だが、各書のより細部は異なる。
華歆の孫の華嶠が著した「譜敍」では比較的かっこ良く書かれ、
呉歴や江表伝ではそうでもない。
こうした場合は両論あるのが当然だろうから
どちらが正しいかは今回は踏み込まない。


気になるのは、江表伝の載せる華歆の言葉である。
孫策に降伏するよう部下に進言された華歆はこう言う。


>「吾雖劉刺史所置,上用,猶是剖符吏也。
>今從卿計,恐死有餘責矣。」


(拙訳)
私は揚州刺史の劉繇殿により(勝手に)任命されたとはいえ、
その後、朝廷により追認されたのだから、正式な太守のようなものだ。
もし進言に従い降伏すれば、死で贖えないほどの罪が残るだろう。

 

さて、ここから本題。
華歆が誰に任命されたかという問題である。


上記の江表伝を信じるならば、まず劉繇により任命されたということだ。
しかし華歆伝本文、劉繇伝本文に両者の関係を示す記述はない。
唯一、考える材料になりそうなのは、華歆伝注の魏略である。


>揚州刺史劉繇死,其眾願奉歆為主。
>歆以為因時擅命,非人臣之宜。
>眾守之連月,卒謝遣之,不從。


(意訳)
揚州刺史の劉繇が死ぬと、その遺臣は華歆を推戴しようとした。
華歆はそれを拒んだ。


これはつまり、劉繇の遺臣は
華歆に揚州刺史を自称させようとしたということだろうか。
華歆はそれは拒んだ。
しかし両者の関係は良好であったと想像させる。
そもそも、劉繇が彭澤に入ったのち、どこに割拠したかは不明だが
華歆のいたであろう南昌(豫章郡治)と隣接していたはず。
両者が対立していたとは想像しづらい。
劉繇により太守に任命されていたと考えるのは一番自然だろう。


では両者が結びついたのはいつなのか。
そもそも華歆は袁術陣営にいた。
袁術は一時は劉繇に対し融和的な対応をするが(193年頃)、
すぐに対立が明確化する(194年頃)。


袁術のもとにいた華歆は太傅掾に任命された(193年~194年頃)。
そして「東に向かい徐州に至ると」、詔勅により豫章太守に任命された。


もしかしたら、この「徐州」というのは間違いであって、
実際は「江東に避難した」のではないのか。
つまり、劉繇のいる曲阿へ逃亡した。
劉繇は青州人であり、数多くの青州人は彼を頼っている。
孫邵、是儀、太史慈、滕耽・滕冑兄弟らである。
※彼らはみな、その後は孫氏に仕えることとなる。


つまり、194年頃、袁術と劉繇の対立が決定化した段階で
華歆は劉繇のもとへ逃亡した。
対立が決定化する前に逃亡するのは考えづらい。
袁術から「華歆を返せ」の指令が出たら、身の危険が大きくなる。
そしてその後、劉繇が孫策に打ち破られると、
劉繇に従って豫章へと移動。
そして劉繇が支援した朱皓が死亡した際、後任の太守に任命されたか。


このケースでは、「東に向かい徐州に至った」が誤謬とみなすと同時に
どこにも書かれていない「劉繇のもとへ逃亡した」という想像をしなくてはいけない。
さらに、もう1つの問題がある。


それは、194年時点で袁術のもとから
劉繇のもとへ逃亡することは「現実的にあり得るのか」ということだ。
袁術は揚州に逃亡したあと、なぜかめきめきと勢力を強化しており
(これは本当に袁術の七不思議である)
劉繇は丹陽にいる呉景らを追い出すことは出来たものの、
優勢と言える状況とまでは言えなかった。
事態はどう転ぶか分からない状況だった。
また、淮南には張範・張承兄弟、何夔といった「名士」もいたが
彼らは長らく袁術の勢力圏に留まっている。


つまり、袁術の恨みを買うことを承知で、
華歆がそこを抜け出すことは現実的な想像と言えるだろうか。


では、江表伝のこの記事(劉繇に任命された)を疑った場合、
華歆は他の誰に任命されたと考えられるだろうか。


つまり、可能性②を考える。
まずは袁術である。
袁術は独自に揚州刺史を任命しており、
揚州全土に対して影響力を保持しようとしている。
まして早い時期に廬江郡を手中に収めており、
その目と鼻の先の豫章太守を任命していないわけがない。


諸葛玄を豫章太守に任命したのは袁術か、劉表かという話がある。
袁術陣営には琅邪人の劉勳、惠衢が参加しており、
2人とも「故吏」と書かれる。
袁術伝には未記載だが、袁術が琅邪国相になった可能性を想像させる。
そういう意味で、琅邪人の諸葛玄もまた袁術の「故吏」ではないか、
任命者は袁術なのではないかという推察は
多くの三国志ファンが通った道だと思う。


さらに劉繇が孫策に敗北して豫章を目指した際、
劉表を頼るべきという意見が出されたこともあり、
諸葛玄の任命者が劉表であれば、劉繇が諸葛玄と戦うのはおかしい。
これは三国志集解に載る見解である。


つまり、諸葛玄は袁術により任命された太守だった。
そしてその諸葛玄が敗れて死亡した、または荊州に逃亡した場合、
当然、袁術は新たな太守を送り込んでくる。
それが華歆であった。
この解釈は一度はしてみたくなる。
華歆伝では「詔勅により任命された」と書かれるが、
もちろんこの場合は、袁術による「偽勅」である。
孫策袁術の上表の結果、行殄寇將軍となるも、
それが袁術による「詐擅」だと後に知ったと告白が呉録にある。
それと同様であろう。


このケースでは「東に向かい徐州に至ると」の疑問は解消される。
袁術軍が徐州に侵攻した196年を想起できるからだ。
華歆は袁術軍の徐州侵攻に従軍したが、
その頃に諸葛玄が敗北したため、後任として豫章へと旅立った。
そう推測が出来る。


だが、この場合は別の問題が出てくる。
まず、華歆は武人ではない。
戦地化している豫章に送り込むような人選ではない。
そして劉繇の態度の謎である。
どうやら劉繇陣営と華歆は上手くやっていったようだ。
袁術の任命した豫章太守と、
なぜ融和することが出来たのか。
もちろん、劉繇も華歆も青州の「名士」である。
両者の個人的関係は問題ないだろう。
劉繇は、華歆のバックに袁術がいることは無視して
個人的に華歆を信頼したということか。
あるいはそれも見越しての袁術の人選なのか。
つまり、劉繇と和解するための華歆起用なのか。

揚州東部を手中にし、
今度は徐州へと目を向けている袁術にとって
劉繇は率先して倒すべき相手ではなくなった。
豫章太守として自分の息のかかった華歆を送り、
揚州西方に影響力を保ちつつも、
劉繇とは大枠では和解しようとした。
こういうことなのだろうか。


その場合、197年の袁術の皇帝僭称は
多少の問題を引き起こしたかも知れない。
つまり華歆は袁術への断交を強いられたかも知れぬ。
もし断交していなかったら
孫策は何の迷いもなく豫章を蹂躙したことだろう。
だが、そうではなく、豫章侵攻時、
孫策の気の遣う様子は史書に残っている。
仮に華歆は袁術による任命で赴任していたとしても
どこかのタイミングで関係を切ったのは間違いないだろう。


このケースで難しいのは、
袁術が劉繇との和解のために華歆を送り込んだ、
その想像を受け入れられるかという点である。


次の最後のケース、可能性③を考える。
これは劉繇でも袁術でもなく、
まず朝廷が行った人選という可能性である。


最近、このことを考えるに至った契機があった。
それは陳矯伝を読んだ時のことである。
ここには陳登が自分の尊敬する人物を列挙する言葉が載っており、
陳紀兄弟、華歆、趙昱、孔融劉備への評価が出てくる。
当時の人々の息吹を感じさせる言葉であり、
このような記述に触れるために私は三国志を読んでいると書いてきたが、
先日ハタと思ったのは、ここで列挙されているのは
当時の著名人物ということではなく、
実際に陳登が会ったことのある人物ばかりではないのか、と。
陳登は実際に陳紀、趙昱、孔融劉備に会ったことがあると思われる。
陳紀の弟の陳諶は早く亡くなったとされ、
陳登が陳諶に会ったことがあるかどうかは、かなりあやしい。
だが、筆のノリで陳紀兄弟と書かれただけかも知れない。
だいたい陳紀と陳諶とはセットで語られるからだ。
つまり、残りの華歆も陳登と会ったことがあるのではないか。


そしてそれはいつか。
陳登の一族は名家であり、
若い頃の華歆が各地を遊学でもした折に
立ち寄った可能性がないでもないだろう。


しかしその可能性をいったん無視すると
淮南の袁術陣営にいた華歆が徐州に赴いて陳登と出会った、
つまり「東に向かい徐州に至る」は事実だと思えてくるのだ。


ではそれはいつ、どのような経緯で徐州に至ったのか。
その可能性もいろいろあるが、
これまですでに1つのケースを見てきている。
つまり、劉繇のもとへ「出奔」した可能性を見てきた。
もしかして、徐州へ至ったとは、「出奔」だったのではないのか。


袁術が皇帝を僭称すると、その陣営からは離脱者が続出した。
多くは孫策のもとへと出奔したのだが
このとき華歆は徐州へ逃げたと考えることは出来ないか。
おりしも、許都政権により袁術包囲網が築かれる時期であり、
このとき華歆と陳登は徐州で邂逅した。
そして陳登は華歆の人柄に感服した。
陳登は許都への使者にもなっているが、
曹操になにか吹き込んだかも知れない。
そして、華歆は袁術包囲網の要員として豫章太守となった。


つまり、豫章太守任命は正式な詔勅によるものということになる。
華歆伝は魏の先行史料に基づいている。
魏の立場的には、許都政権による任命か、
袁術による勝手な任命かはちゃんと書き分けることは出来たはずだ。
孫呉蜀漢の方は任命者を濁したいケースはあろう。


そして正式な詔勅の場合、
195年~196年秋までの朝廷はかなり混乱していたので
やはりその時期から外れたところでの任命となろう。
袁術の皇帝僭称(197年春)以後なら
かなり整合性は出てくる。


この場合の疑問点としては
197年まで袁術のもとにいたとなると、かなり「空白の期間」が出てくること。
また、徐州へ出奔した華歆を、一度も許都に招くことなく
そのまま豫章太守に任命することがありえるのか、ということも思う。


しかし劉繇への出奔の可能性を許容できるのであれば、
こちらのケースも検討の余地があるのでないか。
そして、孫策が豫章侵攻時にかなり気を使ってる点について、
このケースではよく説明がつくと思う。

 

まとめとして、可能性①~③を簡略化して記載しておく。


【まとめ】 華歆の豫章太守任命の経緯とは?


可能性①:
華歆は袁術のもとから逃亡し、同じ青州出身の劉繇に身を投じた。
その後、孫策に敗れると、劉繇と共に豫章へ逃亡。
豫章太守の朱皓が死亡すると、華歆が後任となった。
後に朝廷からも正式に任命された。


※この場合、華歆が「徐州に至った」という記述を無視することになる。
※劉繇に身を投じたというのはそもそもどこにも書かれていない
袁術の恨みを買ってまで劉繇に身を投じるのはリスキーに思う。


可能性②:
袁術派の豫章太守の諸葛玄の後任が華歆。
袁術の徐州侵攻に華歆は従軍していた。
その最中、豫章太守に任命され、豫章へ赴いた。
その袁術派の華歆を劉繇も迎え入れた。
これは結果的に袁術・劉繇の和解となった。


詔勅により任命された(華歆伝)と異なる(偽勅ということ)。
※劉繇による任命(江表伝)とは異なる。
※華歆起用が和解になったということにリアリティを感じられるかどうか。


可能性③:
袁術の皇帝僭称に伴い、華歆は徐州へ出奔。
この頃、陳登と邂逅する。
その後、許都政権により豫章太守に任命。


袁術のもとに長くいることになり、空白期間が大きくなる。
※許都に召還されずに一挙に豫章太守に任命されることへの違和感あり。

 

さて、以上のような3つの可能性を考えることが出来た。
このいずれが正解かはまだ分からないが、
状況をある程度整理できたように思っている。


しかし今回言及していないこともある。
それは呉郡人の沈友と、華歆との関わりである。
三国志呉主伝注の呉録によれば、
華歆が巡察にいったおりに11歳だった沈友と出会ったという話があるが、
具体的な時期が判然とせず、
そもそもこの話の真偽すら検討する必要がありそうで
今回の考察からは外している。
いずれにしても、沈友の記事から確定的なことは言えそうにないので
上記の3つの可能性に特に変更が出てくることはなかろうと思っている。


ついでと言うわけではないが、
次回、沈友についてちょっとした記事を書く予定。

197年前後の東方戦線(呂布、袁術、劉備)の整理② + 韓暹、楊奉

前回は
①紀霊の劉備攻撃
呂布袁術の戦闘
を考えた。

今回は
呂布劉備の戦闘(2回?)
④韓暹、楊奉の滅亡
を見ていく。

あらためて通鑑での時系列(記載順)を貼っておく。


196年:
袁術が徐州に侵攻し、劉備が防戦する。
呂布が下邳を奪い、劉備袁術に敗北する
劉備呂布に降伏する。
呂布袁術が約束の軍糧を提供しない事に怒る
呂布劉備豫州刺史とし、小沛に駐屯させる
呂布配下の郝萌が反乱する
曹操が天子を許都に迎える
曹操に敗北した楊奉(と韓暹)が袁術のもとへ走る。
袁術呂布を恐れ、婚姻を申し出る。呂布は承諾する。
袁術配下の紀霊が劉備を攻撃へ。呂布が仲裁する。
呂布劉備への警戒を深め、攻撃。劉備曹操へ走る。
曹操劉備豫州牧とし、小沛に駐屯させる


197年:
・春、袁術が皇帝を僭称する
袁術が陳珪の子を人質にし、帰服を求める。
袁術呂布に婚姻の履行を求める
・陳珪の説得もあって呂布が翻意し、使者を許都に送って処刑。
・許都からの使者があり、呂布を左将軍に任命する。
・陳登が使者となって許都に赴く。
・陳登と曹操呂布打倒を謀る。陳登が広陵太守に任命される
・陳登が徐州に帰還する。
袁術軍が下邳を目指して進軍する。
・陳珪の策により、韓暹、楊奉が寝返る。
袁術軍を破った呂布は鍾離県まで侵攻し、帰還する。
・泰山賊帥の臧霸が琅邪相の蕭建を破る。
曹操呂布孫策、陳瑀に働きかけ、袁術包囲網を作る。
袁術が陳王の劉寵を暗殺する。
・9月、曹操が東征する。袁術は逃走する
曹操袁術軍の橋蕤らを破る
・飢饉が起こり、袁術はこれ以降衰退する
・韓暹、楊奉が徐州を荒らす。辞去を申し出るも呂布は拒否。
楊奉劉備呂布攻撃を提案。劉備はこれを偽許して楊奉を斬る。
・韓暹が并州への逃走を図り、杼秋県で斬られる


198年:
呂布袁術が再同盟
・高順、張遼劉備を攻撃。曹操夏侯惇を派遣。
・9月、高順が小沛を破る。劉備は単身逃走する。
曹操呂布攻撃に向かう


さて、呂布劉備の戦闘である。
通鑑によれば、かなり早い時期に勃発している。
袁術に敗れた劉備呂布に降伏し、
呂布劉備を小沛に置く。
袁術劉備を攻撃すると、呂布がこれに介入して停戦させるが、
その直後に、呂布自ら出兵して劉備を攻撃し、
小沛から追放しているのである。
なんでも、劉備が兵萬餘人を得たことを呂布が憎んだため、らしい。


その劉備は敗走して曹操に帰服し、
曹操劉備豫州牧に任命。
劉備は小沛に戻り、散兵を糾合する。
ここまで、196年の記事に収められている。


色々と疑問が渦巻く。
が、通鑑の書きぶりを追っていく。


197年、呂布曹操と和解して、袁術に対抗していく。
が、198年になると呂布は再び袁術と通じ、
劉備を攻撃する。
攻撃を主導するのは高順と張遼である。
曹操夏侯惇を送って劉備を支援するが
9月に沛城が陥落し、劉備は単身逃走する。
このあと、曹操呂布討伐に乗り出し、
一挙に徐州を破るのであった。


以上のように、196年、198年の項に2回の戦闘が書かれる。


このうち、1度目の戦闘がよく分からない。
そもそも、この直前に呂布袁術から劉備を守っている。
それは、袁術が小沛を落とし、泰山諸将と通じると、
呂布包囲網」を築かれてしまうからである。
では「袁術が小沛を取るのは嫌」だが、
劉備が小沛で勢力拡大するのも嫌」だったというだけなのか。
しかし劉備を小沛に置いたのはそもそも呂布である。
それが急に意見を変え、劉備憎しとなったのか。
もっともコロコロと意見の変わりそうなのが呂布ではあるが。


私の見立てでは、劉備袁術の戦いは196年の後半なので、
紀霊の劉備攻撃は196年末か、197年初頭である。
その直後に呂布劉備を攻撃したのだろうか。
であれば、それは袁術が皇帝を僭称するちょうどその頃合いであり、
その直後に袁術包囲網が築かれ、呂布はそれに参加。
つまり曹操と協力体制に入る。
であるので、曹操から劉備豫州牧として派遣され、
再び小沛に入っても、呂布はこれを甘受したということなのか。


それは考えられないことではない。
が、通鑑以外でどう書かれているか見ていく。


三国志武帝紀には196年の項にこう書かれる。
呂布劉備,取下邳。備來奔。


下邳を奪われてそのままやってきたかのようだ。
小沛に一時駐屯した件はどうなったのか。
そしてこの時に豫州牧に任命したことは書かれない。


この後、武帝紀に劉備が出てくるのは198年である。
呂布袁術と再同盟し、高順が劉備を攻撃する。
夏侯惇を送って劉備を支援するが敗北する。
この時、劉備曹操のもとに来たとか、
豫州牧に任命したとかはやはり書かれない。


三国志呂布伝には、1度目の戦闘は描かれない。
劉備を小沛に置いて以降、最初の戦闘は198年である。
その仔細は武帝紀と全く同じである。


一方の三国志先主伝の本文を見ていく。
呂布に下邳を奪われた直後に楊奉、韓暹を斬った記述があったり、
呂布と和睦した後に関羽を下邳の守備につけた記述があったり、
疑義のあるものが多く、だいぶ混乱している。
いったんそこは無視する。


すると次に出てくるのは
呂布劉備を憎んで攻撃した」という、例の戦闘である。
内容的にはほぼ通鑑と一致している。
ただし、こちらでは時期を明示していない。
そしてもうひとつ、記述の末尾の部分に差異がある。
それは、通鑑では曹操劉備を小沛に置いた意図として
「もって呂布を図る」と書いているのに対し、
先主伝では「呂布を攻撃せしむ」と書いている点である。


これは少し通鑑がズルをしているということだ。
曹操劉備を小沛に配置したのが197年初頭頃とするなら
それは袁術包囲網の直前であり、
曹操劉備呂布を攻撃させるのはおかしい。
そこで通鑑がかってに先主伝を読み替えたのだ。
「攻撃せしむ」を「図る」に変えた。


先主伝に戻る。
曹操劉備を小沛に戻し、兵力も増強させて呂布を攻撃させた。
すると呂布は高順に劉備を攻撃させる。
そこで曹操夏侯惇を派遣し、劉備を支援しようとするが、
両者とも高順に破られることになった。


つまり、1度目の戦闘、2度目の戦闘が連続しているように読める。


先主伝注の英雄記には、別の書き方がされている。
198年春、呂布が人を送って河内郡に馬を求めると
劉備の兵がこれを略奪した。
そこで呂布は高順、張遼を送って劉備を攻撃した。
9月、沛城は敗れ、劉備は単身逃亡し、その妻子が捕らえられた。


次に後漢書呂布伝を見る。
基本的に三国志呂布伝と同じで、
1回目の劉備との戦闘は描かれない。
後漢書は先主伝の「呂布劉備を憎んで~」は採用しなかった。
他に特筆すべきところでは
最初に呂布劉備を小沛に配置したとき、
劉備豫州刺史としたというのは、この後漢書呂布伝が初出のようである。


さて、こうして見てきて、
やはり私は通鑑の採った時系列を受け入れられない。
通鑑は武帝紀の「196年に劉備曹操に帰服した」と
先主伝の「呂布劉備を憎んで攻撃した」を
1つの出来事のように解釈しているが
果たして本当にそうなのか。


果たして、196年末/197年初頭に呂布劉備を攻撃したというのは
本当なのか。


まず、直前に劉備を救ったはずの呂布がすぐさま劉備を攻撃している違和感。
また、曹操劉備を小沛に送ったのを呂布が容認している違和感。
もっともこれは袁術包囲網の一貫とすれば、理屈は通る。
だが、197年には袁術豫州を縦断し、
陳国に再度攻撃を仕掛けているのである。
もし劉備曹操の支援を受けて豫州牧となっているのなら
ここで袁術との衝突が描かれないのは不自然だ。


ただし、劉備曹操への帰服が遅れた場合、
その間の曹操方の豫州刺史/牧が誰だったのかという問題はある。
仮に195年までは刺史が郭貢だったとして
196年以降は誰なのか。
曹操豫州潁川郡の許県に天子を迎えており、
また、袁術とは継続して豫州を争っている。
豫州刺史に誰を据えるかというのは重要な問題だったはずだ。
そこを重視すれば、劉備を対呂布、対袁術のために
豫州牧に起用するというのは自然に思える。
もっとも、時期的には呂布と和解して袁術と対抗するのが最優先。
呂布により豫州刺史に任命された、呂布の「衛星国」たる劉備
曹操豫州刺史として認めざるを得なかった、ということか。


後に劉備が敗れて曹操のもとに来た時、
劉備豫州牧に「任命した」というのは
197年時点ですでに豫州刺史として認められていたことと
矛盾するように見えるかも知れないが、
「刺史でなく牧」というところが着目すれば
矛盾とまでは言えなくなるだろうか。


以上の考察を踏まえて時系列を整理する。
私にとって自然なのは、下記の流れである。


呂布劉備豫州刺史とし、小沛に駐屯させる
袁術配下の紀霊が劉備を攻撃へ。呂布が仲裁する。
・197年春、袁術が皇帝を僭称する
袁術包囲網が築かれる
呂布の「衛星国」の劉備も、曹操から豫州刺史として認められる?
袁術の攻撃を呂布が撃退し、徐州南部を確保する。
劉備楊奉を斬る。(呂布の警戒心アップ)
劉備呂布の使者(馬購入)を邪魔する(呂布の警戒心アップ)
呂布自ら出兵し、劉備を破る
劉備曹操のもとに逃走
・198年春、呂布袁術が再び組む(呂布曹操の敵対確定)
劉備曹操から豫州牧に任命され、小沛に戻る
劉備は散兵を糾合し、曹操の支援も受け、呂布を攻撃
呂布は高順、張遼を送り、劉備を攻撃
曹操夏侯惇を派遣し、劉備を支援
・高順が沛城を破り、劉備の妻子を捕らえる


上記の整理が正しいとまでは断言できない。
たとえば、劉備がが兵萬餘人を得たことを呂布が憎んだ、という話。
これを198年までスライドさせていいのか。
劉備は198年になるまで、兵萬餘人未満だったのか、など
疑問は色々と残る。
だが、通鑑の整理が絶対ではないとだけ確認できれば
私にとっては充分である。


さて、やっと辿り着いた④韓暹、楊奉の滅亡。


天子東還の最中、韓暹は大將軍にまで、
楊奉は車騎將軍にまで登りつめた。
天子が洛陽に入ると、これを董承と韓暹が警護した。
楊奉はそれとは別に梁に駐屯。
これは豫州梁国ではなく、河南尹の梁県のようである。


その後、韓暹を嫌った董承が曹操を招き入れると、
韓暹は楊奉のもとへ単騎で出奔。
天子を許都へ遷した曹操は、196年10月に楊奉を討伐。
楊奉、韓暹は袁術のもとへ奔る。
ここで河東に帰還できなかったことが、両者の運命を決める。


197年春、袁術が皇帝を自称すると、呂布はこれを拒絶。
怒った袁術呂布への討伐軍を差し向ける。
この時、袁術軍は楊奉、韓暹と「連勢」したと書かれる。
これを迎え撃つ呂布軍は、楊奉らを袁術軍から離反させるが
この時、陳珪は袁術軍と楊奉らの関係を
「卒合之軍」「卒合之師」と表現している。
にわかに連合した軍、とのことである。
完全に袁術軍には取り込まれず、
客将として協力している関係だったのだろう。


呂布楊奉らの離反の余勢を駆って袁術軍を撃破。
そのまま寿春を目指して進撃。
楊奉、韓暹もこれに同行している。
この戦闘の勝利により、
おそらく呂布は徐州南部も支配することとなった。


このあとの楊奉、韓暹の動向であるが、唯一詳しく記述するのは通鑑である。
他の史書から見ていく。


三国志先主伝によれば、劉備袁術に敗退した後、
呂布に降伏するまえでの間に楊奉、韓暹を斬ったように書かれる。
これは他伝と矛盾が多く、信用できない。


後漢書董卓伝によれば、楊奉、韓暹は袁術のもとに奔り、
揚州、徐州の間を暴れまわった。
その翌年(=197年であろう)、左將軍劉備楊奉を斬った。
後漢書注は、このとき劉備は左将軍でなく、鎮東將軍であったとしている。
これは呂布袁術の抗争への関与が記されない点で
信憑性に疑義がある。


三国志董卓伝注の英雄記によれば
劉備楊奉を会見に誘い込み、そこでこれを捕らえたという。
詳細な状況が不明である。


これらに比べて、通鑑がかなり筋道だった記述がある。
その記述がなにをもとに書かれたのかは疑問であるが。
197年11月の記事(曹操の張繡攻撃)に続き、こう書かれる。


>韓暹、楊奉在下邳,寇掠徐、揚間,軍飢餓,辭呂布,欲詣荊州;布不聽。
>奉知劉備與布有宿憾,私與備相聞,欲共擊布;備陽許之。
>奉引軍詣沛,備請奉入城,飲食未半,於座上縛奉,斬之。


(拙訳)
韓暹、楊奉は下邳におり、、徐州揚州の領域を略奪したが、
その軍は飢餓し、呂布に辞去を申し出、荊州へ行くことを欲した。
呂布は許可しなかった。
楊奉劉備呂布に対してわだかまりがあるのを知り、
ひそかに劉備と連絡をとり、共に呂布を攻撃したく思った。
劉備は偽ってこれを許可した。
楊奉は軍勢を率いて沛に行くと、劉備は入城するよう請うた。
宴会の飲食の途中、その座において楊奉を縛り上げ、これを斬った。


まず疑問なのは、韓暹、楊奉の「略奪」である。
これは呂布側からの補給が十分でなかったのか
韓暹らの軍の統制が効いていなかったのか、
あるいは韓暹らが意図的に略奪したのかは分からない。
しかく各書物に「徐、揚間を略奪」と書かれており、
事実なのだろう。
そしてその書き方にぶれが無いことから
地理的にも「徐、揚間」というのは正しいのではないか。
通鑑では「韓暹、楊奉は下邳におり」にいたと書かれるが
これは下邳県のことではなく、下邳国のことかもしれない。
下邳国、そして広陵郡は、この少し前に呂布袁術から獲得した。
そこに韓暹、楊奉らが駐屯していたということか。
気になるのは、その下邳国から劉備のいる小沛までの距離だ。


呂布の配下としては彭城相の侯諧がおり、
ここを自由に通過するというのは少し疑問が湧く。
であるなら、どこを通って小沛まで行けたというのか。
もしかしたら豫州を通って行ったのかも知れない。


197年の中頃、呂布袁術に勝利。
また、9月頃、陳国に侵出していた袁術軍を曹操が撃退。
このとき、方面軍司令官クラス(橋蕤)が戦死している。
袁術軍の豫州戦線は大幅な後退を余儀なくされたのではないか。
沛国の西部には曹操が、中部には劉備が進出したのかも知れない。
そして、呂布陣営から辞去を申し出た楊奉らも慰留されたわけだが、
このタイミングで下邳国から沛国東部あたりに駐屯地を変えたのかも知れない。


上記の想像に基づき、劉備が沛国の中部を抑え、
呂布が東部を抑え、楊奉らがそこに駐屯した場合の地図を置いておく。
この頃、臧霸はもう蕭建のいる莒県を陥していた頃か。

 

 

さて、呂布を謀ろうとしていた楊奉劉備は斬ったわけだが、
これにより呂布の信頼を得るのとは逆の結果になった。
呂布の反応は描かれないが、
これからまもなく呂布劉備を攻撃したことを考えれば
呂布側の劉備への警戒心が高まる結果となったのだろう。


このあと、韓暹はどうなったか。
楊奉を失い孤立した韓暹は、并州に帰還しようとし、
杼秋県で張宣に殺された。


まず、并州というのが少し不思議である。
韓暹の根拠地は河東であり、司隸に属する。并州ではない。
これは単なる書き間違いなのか。
あるいは河東・并州の勢力は一体化していたのか。
それとも、河東とは関係なく、本当に并州を目指したのか。
并州にいる誰かを頼ったのか。


次に、并州に向かう韓暹の勢力であるが、
通鑑によれば「十餘騎」、後漢書董卓伝では「千餘騎」となっている。
勢力が「十餘騎」まで減じていたというのは考えにくいが、
逃避行に同意したのが「十餘騎」だった、ということかも知れない。
少数だからこそ、杼秋県まで進むことが出来た。
そしてそこで討ち取られたのも少数であったから、と理解することができる。


韓暹を討ち取った張宣は通鑑では杼秋令と書かれるが、
三国志董卓伝注の英雄記では「杼秋屯帥」と書かれる。
おそらく通鑑はこの「杼秋屯帥」がよく分からず、
勝手に県令に読みかえたのだと思われる。
これはズルである。
おそらく県令クラスではなく、もっと上位の軍人だったと推測する。
そして、おそらく劉備の配下である。
もしかしたら張飛の間違いではないのか、という気もしている。


と、ここまで書いてきてふと思ったが、
韓暹はなぜ并州への逃走を図ったのか。
なぜ呂布を頼らなかったのか。
劉備楊奉を斬ったことが
呂布に問題視されたと史書に書かれないことも合わせて考えれば、
徐州を荒した時点で、韓暹、楊奉呂布の「客将」身分から外れたのではないか。
通鑑は韓暹らが荊州に行こうとし、呂布はそれを許さなかったというが、
やはり駐屯地は徐州の域外に移転となり、
そこで勝手にやってくれ、という状況になったのかも知れない。
呂布は韓暹らの荊州への出奔を許さなかった、
つまりは徐州略奪を表面上は赦したものの、
わだかまりは残り、関係性は変転した。
だからこそ韓暹は呂布を頼れず、
并州への逃走を図らざるを得なくなった。


しかも杼秋県を通ったということは、
その後は兗州を縦断して河北に抜ける必要がある。
曹操の勢力圏である。
いちおう、韓暹は楊奉を頼って梁県で合流した際に、
曹操とは交戦しているとみられる(196年)。
徐州から青州に抜け、袁紹の勢力圏に入った方がまだ安全だと思うが、
それをしなかったのは呂布との関係に亀裂が入っていたからなのか。
あるいは、曹操とはそれほどの敵対関係にはなかったのか。
いずれにしても、呂布を頼ることは出来なくなっていたのだろう。
この推察は、個人的には今回の記事の収穫となりそうだ。


さて、次回は華歆の前半生について書く予定。