2023-08-01から1ヶ月間の記事一覧
今回はかなりグダグダかつ推測だらけの記事となったが、臆せず公開してしまおう。 前回は侍中の記事だったが魏公国が発足し、侍中が置かれる前は軍師祭酒がおもに「曹操の相談相手」だったろう。 司空軍師祭酒は198年1月に置かれたようでおそらく郭嘉はその…
213年に魏公国が発足した頃の曹操配下の就いた官職はある程度わかっておりそこから色々と推測できる。 尚書台にはその長官の尚書令に荀攸がおり尚書僕射、尚書には毛玠、涼茂、崔琰、張既が置かれ彼らが魏公国の運営メンバーと言えよう。 六卿には袁渙、鍾繇…
劉曄は淮南郡成悳県の人で、光武帝の子の阜陵王・劉延の子孫である。若くして許劭にその才能を認められた(193-4年頃か)。揚州では軽俠の者たちが軍勢を抱えておりその頭目たちの中でも鄭宝が最も有力で、皇族の血をひく劉曄を担ごうとした。劉曄は宴会の場…
正史三国志を読んでいて混乱することに地名の問題があるが、淮南郡について九江郡や楚国などと記載されるのも鬼門のひとつであろう。 上記の件は端的に言えば、同じ地域が名称を変えているというだけのこと。基本的には後漢時代は「九江郡」、曹魏時代は「淮…
許褚は譙県の人である。※譙県は後漢の頃は沛國に所属している。後漢末、許褚は若者と一族数千家を集め、壁(=砦)を築いて賊を防いだ。汝南葛陂賊萬餘人が砦を攻めると許褚の軍勢は少なかったが力の限り防戦した。軍糧が不足したため、偽って賊と講和し、そ…
李通は江夏郡平春県の人である。義俠の人として長江、汝水の間で名を知られ汝南の朗陵県で兵を挙げた。その後、周直なる者の二千餘家を併せたり、自勢力の内紛を収め、安定化させ、さらに(汝南)黄巾を破るなどした。建安初、許都に詣でて曹操に帰伏。張繡…
袁術は南陽を捨てて兗州に侵入したが曹操に敗北すると逃走に逃走を重ねて淮南まで逃げてそこに落ち着いた。 敗北後に淮南を目指した決断こそ考察すべき対象なのだろうが今日はその前段、なぜ南陽を捨てたのか、ということを考える。 もちろん「実は南陽を捨…
後漢末、魯国の情勢はかなり謎である。これを考えてみたいと思っていたがここのところ徐州について調査したところから新たな気付きがあったので、それをまとめていく。 最初に地図を置いておく。 魯国以外で特筆すべきところを書いていくと、以前も触れたが…
前回の徐州の記事でスルーしてしまったのが、華県、費県のこと。各種資料を読み解けばその位置関係を詰められそうな気もするがそれは別の機会に。両県の帰属を調べていて分かったことを記す。 最初に地図を置いておく。(県はざっくり配置した) 後漢書地理…
・まず徐州侵攻に関する記事をピックアップ・徐州侵攻の時系列をまとめる・地図を書く 注意しなければならないのは、後漢時代の地理区分(州郡)を考慮すること。三国志は晋代の地理区分で書かれていることもある。 =======================================…
個人的に意外と把握していなかった、荀攸と郭嘉の合流時期を確認しておこう。 三国志演義を振り返ると旗揚げ時期のメンバーは陳宮、夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、樂進、李典。 このあと、青州黄巾を平定して兗州を支配すると一気に人材を獲得する(192年末~…
闕宣を扱う前に曹嵩の死の経緯をサラッと見ておく必要がある。 武帝紀の該当箇所を抄訳しておく。 ・193年春、袁術が兗州し、曹操がこれを撃退する。袁術は淮南に逃走。・闕宣が天子と自称し、陶謙と連合して泰山郡、任城国に侵攻。・秋、曹操が陶謙を討伐し…
三国志本文は陶謙が病死したと記し、終わる。そこに注がつき、韋昭の呉書を引いて陶謙の二子のことを書いている。 「謙二子:商、應,皆不仕。」 昨今の三国志ファンの間でどのような意見がトレンドなのかよく分かっていないのだが15年前くらいにネットで見…
ある意味で前回の続き。陶謙の出身県を考える。 三国志では「陶謙字恭祖,丹楊人。」と書かれる。「丹楊」とあるが、これは「丹陽」である。これが「丹陽郡、県は不詳」なのか、「丹陽郡丹陽県」を指すのかは不明。というのが前回のお話。 三国志集解を見る…
今日は陶謙の出身県について考察しようとしたのだが調査途中に別の疑問がでてきたのでテーマをそちらに変更する。 張紘の出身県についてである。 そもそもの考察のスタートは陶謙だった。陶謙は三国志では「丹楊人」、後漢書では「丹陽人」と記載される。荊…
高順と張遼。 どちらも呂布に仕えた名将である。三国志の各種小説のせいなのか、どうしても曹操には「人材コレクター」のイメージがある。その曹操がなぜ高順を許さなかったのか、配下としなかったのかと、残念でならない。 だがあらためて両者の行動を見て…
三国志にちょろっと登場する儒者、孫叔然。裴松之は注をつけて、孫叔然の名は「炎」だという。司馬炎と同名のために、孫叔然と書かれたのだと。 孫炎は青州樂安郡の人で、鄭玄の門下であり「東州大儒」と称された。祕書監に任命されたが就任しなかった。王肅…
鍾離斐についての記事では「孫堅の父」として触れてきたが祖父という説もある。 建康実録には孫権について「祖鍾。父孫堅。」と書く。その注に引く「祥瑞志」なる書物には孫鍾の人となり、体験した神秘的な出来事、その体験により自身の墓所を定めたこと、そ…
前回の続き。 実のところ、前回を書くまでは鍾離斐が黎斐と書かれたのは孫鍾の名を避けたために違いない、そうひそかに盛り上がっていた。 だが、王昶伝に鍾離茂を斬った、とあるのは鍾離茂がなにか名前に関するものを身に着けていたとか、魏の捕虜となった…
前回の続き。 黎斐とは丁奉伝、孫綝伝の2か所に出てくる人物である。どちらも257年の諸葛誕救援についての記事に登場する。 ============================================= 【丁奉伝】>太平二年,魏大將軍諸葛誕據壽春來降,魏人圍之。>遣朱異、唐咨等往…
三国志の三嗣主伝の評のあとに注として陸機の「弁亡論」が長々と載っている。ここに、呉末の名臣として「鍾離斐」なる人物が出てくる。ここ1か所のみに登場する人物である。 この人物は、やはり呉中期~末期に活躍し、三国志に伝もある鍾離牧と同一人物とい…
次の記事を書こうとして調べものしていたところ気になる別のテーマが出てきたので、そちらから書く。 基本的に、史料間で矛盾のないものは史実として扱っていきたいところだがある史料自体に潤色や捏造の疑いがあればその史料に載るすべての記述が捨てねばい…
=====================================================崔琰は冀州の清河郡(甘陵国)、東武城県の人である。若い頃は武事に励み、学問を志したのは遅かった。29歳になって鄭玄に学んだが、黄巾賊が北海郡を破ると疎開した。その後、鄭玄と別れて各地を放浪…