正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

陸遜はもとの名を陸議という

寒泉という台湾のサイトがある。そこは資治通鑑の検索ができ、便利だったのだが先日からつながらなくなってしまった。もっとも資治通鑑は編年体なので調べたいことがあれば年代の目星をつけて情報を探せばいいだけではあるのだが、寒泉の資治通鑑は胡三省の…

袁術の急激な衰亡を考える

私は袁術のファンということではないのだがここのところ袁術絡みの記事を多く書いた。袁術自体は記述が少なくその謎が多いながらも、袁術の周縁(曹操、劉備、孫策、呂布)には考察の情報が豊富であるということも理由だろう。 190年代の袁紹陣営など公孫瓚…

魯粛のこと(劉曄、鄭宝とのこと)

前回、二張(張昭、張紘)の孫策への仕官時期を考えた。似たところで気になるのは魯粛である。魯粛は孫策に仕えたのか、そもそも出会ったことがあるのか、ということがよく分からなくなる(私が)。また、その頃の魯粛を考えようとした時、整理しなくてはな…

孫策と二張(張昭と張紘)

分かっているようで分かっていない(私が)なのは、二張はいつ孫策に仕えたか、である。 三国志演義をざっと調べて見ると両者は孫策が劉繇攻撃に赴く際に合流している。推薦したのは周瑜で、「江東有二張」という文句が出てくる。だが、二張はどちらも徐州人…

丹陽西部

孫策と丹陽郡の関連性を整理しておきたい。この際、「丹陽西部」についても注目が必要となる。 特に調べ直さず、丹陽に関する自分の認識を書いていくがまず地図を置いておこう。 丹陽は、丹楊とも書かれることが多い。レアケースでは、丹揚と書かれているこ…

沈友と、呉興武康県の沈氏を考える

前回の華歆の記事において、沈友との関係は省略した。 今回をそれを取り上げたうえで、沈氏のことを少し考える。 沈友は三国志呉主伝の注の吳錄に出てくる。 呉主伝の204年の記事に注が付され、 その文章は「この時~」と始まり、孫権が沈友を処刑したと記す…

華歆の豫章太守就任

華歆について考えたいことは2つある。1つ目は、華歆の人物評価である。魏朝の初代三公となった華歆をどう評価したらよいのか。私の中では結論が出ている。しかしいつ書くかは未定。結論が出ているものについてはむしろ書くことが億劫になってしまっている。…

197年前後の東方戦線(呂布、袁術、劉備)の整理② + 韓暹、楊奉

前回は①紀霊の劉備攻撃②呂布と袁術の戦闘を考えた。 今回は③呂布と劉備の戦闘(2回?)④韓暹、楊奉の滅亡を見ていく。 あらためて通鑑での時系列(記載順)を貼っておく。 196年:・袁術が徐州に侵攻し、劉備が防戦する。・呂布が下邳を奪い、劉備は袁術に…

197年前後の東方戦線(呂布、袁術、劉備)の整理①

前回、196年頃の陳珪について考えた。それに引き続いて、翌年の徐州の情勢を整理しておく。自分の分かっていること、分かっていないことの整理である。 武帝紀はこのあたりの情報が少ないため、通鑑をもとに見ていく。通鑑での時系列(記載順)は下記である。…

沛国相・陳珪に関する疑問

三国志を読んでいて、さっぱり分からない記述にはよく出会う。その場合はそれをノイズとしていったん無視してしまうか、あるいは誤謬の混入を疑い考察するか。私にとって、「袁術が陳珪の子を人質にした」という記述も、またそのうちのひとつであった。 それ…

應劭(応劭)は入朝したのか

後漢書には應奉伝がある。應奉は汝南南頓の人で、150年代~160年代に武陵蠻に反乱の平定に功績があった。党錮の禁が起こると(166年)引退し、著作活動に専念した。 應奉の子が應劭である。應奉伝に続いて應劭の事績が記述されているが、記述量は父親よりも…

陶謙配下の曹宏と曹豹(後漢末の避諱のつづき)

前回、後漢末の避諱について言及した。そちらに簡単に追記もしたのだが、補足事項がある。 前回のあと、色々なトピックについて考えつつも形にならず、小ネタでも書こうかと、應劭(応劭)のことなど調べようとして避諱関連の見落としに気づいた。 張昭伝の…

戲志才のこと、後漢末の「避諱」のこと

曹操軍団初期の謀臣・戲志才(戯志才)。三国志に残る記述は3か所に過ぎない。荀彧伝本文、荀彧伝注の「荀彧別伝」、郭嘉伝本文である。 荀彧伝本文:天子拜太祖大將軍,進彧為漢侍中,守尚書令。常居中持重,太祖雖征伐在外,軍國事皆與彧籌焉。太祖問彧:…

董承と萇奴が曹洪軍を阻んだ、とは?

195年、呂布を破り兗州を平定した曹操は年末に豫州の陳国へと転進。袁術が置いた陳相の袁嗣を降伏させた(196年1月)。 195年の時点で陳王国は滅んでいた(197年ではなく)、というのが前回の記事での推測である。 このあとの曹操の動向である。 三国志魏書武…

陳王・劉寵の死亡年を疑う

後漢末の豫州情勢は何かと不明点が多いが、気になるのは陳国王の劉寵のことである。 陳国の始祖は後漢の第二代皇帝の明帝の子の劉羨である。劉寵は第11代の桓帝(132-168)と同じ世代にあたる。曾祖父同士が兄弟である。第12代の霊帝(156-189)からは親の世代に…

三国志に出てくる涼州盧水胡、安定盧水胡を考える

本当に盧水胡について考えるのであればあたるべき先行研究もあるだろうが素人が素人なりに考えるのが本ブログなので、臆せずやる。 盧水胡と言えば匈奴系のイメージが(私には)あるがそれは誰に教わったのか、あるいはWikiに書いてあったのを見たのか。いず…

馮翊山賊の鄭甘

盧水胡のことは調べたいと思っていた。が、先に馮翊山賊の鄭甘について書く。 曹操は220年1月に死去し、曹丕が魏王となる。曹丕が皇帝となるのは220年の10月。その間の5月に、馮翊山賊の鄭甘と王照が降伏してきたと言う。 注の王沈「魏書」によれば、「鄭甘…

涼州反乱の整理(220年-223年)

曹操は河西回廊を支配していなかったのかも知れない、という記事を前回書いた。あるいは晩年になってその支配を進めつつあったがそこに火種を抱えたまま曹操は世を去った。そして曹丕の代になると同時に河西は燃え上がった。それも一度でなく、二度、三度と…

曹操は河西回廊を支配していたか

206年ないし209年、雍州刺史の邯鄲商が殺害された。209年-210年頃にも、酒泉太守の徐揖と、張掖太守(氏名不詳)が殺された。酒泉郡を乱したのは豪族の黃昂だが、酒泉人の楊豊は武威太守の張猛の後ろ盾を得て、郡を鎮定する。しかし「東方」にいた同族の黃華…

酒泉郡の受難(龐淯と楊豊)

蘇則について書いた続きで延康元年(220年)の涼州反乱についてまとめようと思ったのだがその以前の河西地域の情勢を再考せざるを得なくなった。具体的には酒泉郡の豪族・黄氏を考えねばならない。だが、これまた長大な記事になりそうになったため、今回はその…

蘇則の気持ち

曹操から曹丕に代替わりし、その曹丕が魏王に即位してから、皇帝となるまでおよそ10か月。その頃から涼州では反乱が頻発しその平定に功績があったのが金城太守の蘇則である。蘇則はその結果、侍中となって曹丕に側仕えする栄誉を得た。蘇則は演義には出てこ…

涼州と雍州の整理(邯鄲商と張猛)

後漢末の金城太守、魏初の侍中の蘇則。その蘇則のことを書こうとしであれば涼州の地図もあった方が良かろうとちまちまと地図を作っていたのだが、その前に一度、涼州と雍州のことを整理しておいた方がいいだろう。 以前、九州復古の記事を書いたときにも触れ…

儒者の董遇(明帝・曹叡と儒者の関係)

タイトルは大仰だが、サラッと書きたい。 前回、軍師祭酒について調べたがそこに正体不明の軍師祭酒・董蒙なる者がいた。また、軍謀祭酒の董芬なる者の記述も見つけた。 董蒙と董芬、字面が似ていると言えば似ている。これは同一人物なのではないかとハタと…

軍師祭酒の廃止時期を考える

今回はかなりグダグダかつ推測だらけの記事となったが、臆せず公開してしまおう。 前回は侍中の記事だったが魏公国が発足し、侍中が置かれる前は軍師祭酒がおもに「曹操の相談相手」だったろう。 司空軍師祭酒は198年1月に置かれたようでおそらく郭嘉はその…

曹操が選んだ4人の侍中(王粲、衞覬、杜襲、和洽)

213年に魏公国が発足した頃の曹操配下の就いた官職はある程度わかっておりそこから色々と推測できる。 尚書台にはその長官の尚書令に荀攸がおり尚書僕射、尚書には毛玠、涼茂、崔琰、張既が置かれ彼らが魏公国の運営メンバーと言えよう。 六卿には袁渙、鍾繇…

劉曄の基本事項

劉曄は淮南郡成悳県の人で、光武帝の子の阜陵王・劉延の子孫である。若くして許劭にその才能を認められた(193-4年頃か)。揚州では軽俠の者たちが軍勢を抱えておりその頭目たちの中でも鄭宝が最も有力で、皇族の血をひく劉曄を担ごうとした。劉曄は宴会の場…

九江郡と淮南郡(楚国とは? 阜陵国とは?)

正史三国志を読んでいて混乱することに地名の問題があるが、淮南郡について九江郡や楚国などと記載されるのも鬼門のひとつであろう。 上記の件は端的に言えば、同じ地域が名称を変えているというだけのこと。基本的には後漢時代は「九江郡」、曹魏時代は「淮…

許褚の砦はどこにあった?

許褚は譙県の人である。※譙県は後漢の頃は沛國に所属している。後漢末、許褚は若者と一族数千家を集め、壁(=砦)を築いて賊を防いだ。汝南葛陂賊萬餘人が砦を攻めると許褚の軍勢は少なかったが力の限り防戦した。軍糧が不足したため、偽って賊と講和し、そ…

李通の謎

李通は江夏郡平春県の人である。義俠の人として長江、汝水の間で名を知られ汝南の朗陵県で兵を挙げた。その後、周直なる者の二千餘家を併せたり、自勢力の内紛を収め、安定化させ、さらに(汝南)黄巾を破るなどした。建安初、許都に詣でて曹操に帰伏。張繡…

袁術はなぜ南陽を捨てたのか

袁術は南陽を捨てて兗州に侵入したが曹操に敗北すると逃走に逃走を重ねて淮南まで逃げてそこに落ち着いた。 敗北後に淮南を目指した決断こそ考察すべき対象なのだろうが今日はその前段、なぜ南陽を捨てたのか、ということを考える。 もちろん「実は南陽を捨…