正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

陸遜はもとの名を陸議という

寒泉という台湾のサイトがある。
そこは資治通鑑の検索ができ、便利だったのだが
先日からつながらなくなってしまった。
もっとも資治通鑑編年体なので
調べたいことがあれば年代の目星をつけて
情報を探せばいいだけではあるのだが、
寒泉の資治通鑑は胡三省の注も表示できたので
たとえば三国志の不明な地名を検討する際などは
寒泉で検索して胡三省の見解をまず見るというのが習慣化していた。
三国志集解を手に取るよりも遥かに簡便だった。
そのうちまた使用可能になればよいのだが。


そう考えると中央研究院の
漢籍全文史料庫が使えなくなってしまったらと思うとゾっとする。
もちろんそこでは正史の検索をしており、
本ブログを書く作業、考える作業はかなりこれに依存している。
無料で使っていて申し訳ないとも思ってしまう。
今回はその中央研究院での検索作業ありきの記事となる。


陸遜の別名として陸議というものがあり、
三国志にはたびたび陸議と書かれている、
ということは私も認識している。
15年以上前、ネットで三国志情報を漁っていたときに
この「遜」の字は、孫氏の「孫」を意識したものではないかと
そういう考察を見たことがある。
内容は忘れてしまったが、その考察はその後伝播したのだろうか。


さて、本ブログでたびたび「避諱」のことを考えてきたが
別名などあったとき、避諱が原因なのでは?
そう考えるのが私には習慣化していた。
陸遜・陸議を考えるとき、
「避諱方面」でまず思い浮かぶのは「司馬遜」である。
それはここ10年ほどの私の関心が
晋に傾いていることが影響している。


司馬懿の弟のひとり、司馬進の子が「司馬遜」である。
西晋が興ると(265年)、司馬遜は譙王に封じられたが、
翌年に薨御している。
譙王を継いだ嫡子、嫡孫はまったく存在感なく、
西晋滅亡と共に消えて行く。
ただし司馬遜の次子は江南に逃れ、
東晋初期に譙王として立ち、
その子孫は東晋代を生き抜くことになる。
東晋代において数少ない「存在感のある分家」が
譙王の家系である。


三国志において陸遜・陸議という表記の混在があるのは
もしかしたらこの譙王・司馬遜に遠慮する、
そんな理由があったのではないかと考えていた。
しかし改めて陸遜・陸議について調べ始めて見ると
そうでないらしいことに気づいた。


まず陸遜伝の原文と見ると、正確にはこう書いている。


陸遜字伯言,吳郡吳人也。本名議,世江東大族。


陸遜のもとの名は陸議という」と書くのである。
つまり先ほど書いた私のこれまでの認識、
陸遜の別名として陸議というものがあり」というのは不正確であり、
2つの名を同時期に使い分けていたということではなく、
陸議から陸遜への改名があったということになる。
いったんこれを信じて先に進む。


さて、中央研究院で検索してみると
陸議は三国志の中で9か所に出てくる。


三国志魏書明帝紀(太和二年=228)
三国志魏書明帝紀(青龍二年=234)
三国志魏書賈詡
三国志魏書劉曄伝注の「傅子」
三国志蜀書先主伝(章武元年=221)
三国志蜀書先主伝(章武二年=222)
三国志蜀書黃權伝
三国志呉書呉主伝注の「傅子」
三国志呉書周魴


ここで興味深いのは、三国志の呉書の本文において
「陸議」と書かれるのは周魴伝の一か所ということである。
そしてそれは周魴曹休に送った文書における記載である。
三国志の呉書は「韋昭の呉書」に依拠している。
「韋昭の呉書」では「陸議→陸遜」の書き換えが完了していた、
ということだろう。
ただし周魴の文書についてはオリジナルの記述をそのまま使った。
一方、魏や蜀漢では、陸遜は陸議として知られており
それは少なくとも青龍二年(234年)まで続いた。


「傅子」の作者は晋書に伝のある傅玄(217 ? - 278 ?)である。
馬騰、つづいて曹操に仕えた傅幹の子である。
傅玄は魏に仕えて著作を担当し、繆施と共に「魏書」を撰集した。
これは王沈、荀顗、阮籍らが編纂した「魏書」とは
どういう関係性にある書物なのか。
よく分からないが、今回のテーマではないので無視する。
晋が興ると傅玄は子爵となり、西晋初代の散騎常侍となる。
さて、その傅玄が書いた「傅子」である。
劉曄伝注の「傅子」は夷陵の戦いについて記述し、「陸議」と書く。
呉主伝注の方は孫権の人となりを紹介した際に、
その股肱の臣の一人として「陸議」と書く。
原文を置いておく。


>及權繼其業,有張子布以為腹心,有陸議、諸葛瑾、步騭以為股肱,
>有呂範、朱然以為爪牙,分任授職,乘閒伺隙,兵不妄動,
>故戰少敗而江南安。


ここで面白いのは、張昭だけ「張子布」と書いている点である。
つまり「傅子」においては司馬昭を避諱しているということだ。
では「傅子」が書かれたのはいつなのだろうか。
「傅子」は内、外、中篇となり、まず内篇が書かれ、
これを傅玄の子の傅咸が司空の王沈に見せたという。
王沈は驃騎將軍として西晋初の266年に死去しているが、
死後に司空を追贈されている。
なので「司空の王沈に見せた」は虚偽とまでは言えないが、
不正確となり、時期は特定できない。
しかし子の傅咸(239-294)の生没年を考慮するに
魏末から西晋初にかけてのことなのだろうと推測される。
王沈は260年頃に豫州、ついで荊州に出鎮しており、
中央に戻ってくるのは司馬炎が王位についた265年である。
「傅子」が書かれたのはその頃なのだろうか。
そしてその中身は、「書き下ろし」ではなく、
以前に繆施と共に撰集した「魏書」をベースにしているのかも知れない。
「陸議」と書かれた理由はそれか。


あるいはこうかも知れない。
もし「傅子」が西晋初に書かれたのであれば、
譙王・司馬遜(?-266)が存命である。
張昭を張子布と書いた理由と同じで、
陸遜とは書きたくなかったのかも知れない。
では陸伯言と書けばいいと思うが
もともと「陸議」と知られていたため
そちらで書くという選択をした。
そういう可能性もゼロではないのかも知れない。
もっとも「司空の王沈に見せた」が不正確である以上、
名前を取り違えている可能性も否定できず、
そうなれば著作時期も変わってくることには留意しておく。


つぎに「陸遜」の検索結果を見ていく。
三国志において「陸遜」は61か所に出てくるが、
それを分類すると見えてくるものがある。


まず、魏書の本文に2か所でてくる。
1つは滿寵伝の太和六年(232)の事績であり、
これは陸議表記が234年まで残存している結果と齟齬をきたす。
2つめは王基伝で、陸遜死後の記述である。
孫呉の情勢について王基が論じた際に「陸遜」と言っている。
この2つめからは、陸遜の改名後すぐにその情報が魏側に
伝わっていた可能性が考えられるが、
確定的なことは何も言えない。
たとえば魏側ではずっと「陸議」として認識しており、
王沈の魏書でもそう書かれたが
後代、陸遜という名であらためて周知され、
満寵伝や王基伝(の元ネタ)が編まれた際に
その名で記述された、そういう可能性も残る。


蜀書には1か所登場するが、
これは注で、裴松之が持論を述べるところで陸遜と書いている。


残り58か所はすべて呉書である。
呉書の本文がほとんどだが、
それ以外に呉書の注の
「江表伝」「漢晉春秋」「吳錄」「(殷基の)通語」に出てくる。
「江表伝」「漢晉春秋」「吳錄」は晋代の作である。
殷基の父の殷禮は孫権に仕え、
殷基の子たちは呉末の人で、呉滅亡後に晋にも仕えた。
「通語」が作られたのは陸遜死後の頃で間違いないだろう。
つまり上記4作はいずれも陸遜死後の作品で、
陸遜」の名が浸透したあとの話となる。
あまり考える必要はないだろう。


ここまではある程度推測できたことである。
本題はここから。


「遜」のみで検索するとどうなるか。
三国志では233か所ヒットする。
以降、本文か注かを無視して結果を書くと
魏書には37か所出てくる。
このうち2か所は陸遜のことである。
蜀書には5か所、うち1か所が陸遜である。
呉書には233か所、うち6か所が諸葛恪の字(元遜)で、
残り227件はすべて(!)が陸遜のことである。


呉書には人名以外の「遜」が出てこないというのが
今回の発見である。


もしかしたら1件くらい見逃しがあるかも知れないが、
魏書や蜀書では一般用語で頻出の「遜」の字。
たとえば、「遜位」「遜讓」「不遜」と言う表現で使われる。
だいたい老臣が引退を申し出るときは「乞遜位」などと書く。
つまり、三国志の呉書では「遜」は実質的に避諱状態ということだ。
おそらく韋昭の呉書ですでにそのような状態にあり、
一般語から「遜」がことごとく除去されていた。
「遜位」「遜讓」「不遜」などの語が
別のどこの語に置き換えられているかまでを調査できれば
より説得力を増した論となるだろう。
韋昭の呉書に戻ると、陸遜については
「陸公」とか「陸丞相」と書かれていたのだろうか。
それを陳寿が「陸遜」に書き改めたのだろうか。


以前、孫権の「権」で検索したことがあるが、
似たような傾向にあったことを記憶している。


一方で「議」。
三国志では611件ヒットし、
呉書(注を含む)では134件出てくる。
案の定、数え間違いがあるかも知れないが。
もし陸遜が陸議のままだったらどうだろうか。
韋昭の呉書から「議」を排除する作業が行われたのだろうか。


そこで頭によぎったのは魏の最後の皇帝の曹奐のことである。
四代皇帝の曹髦が司馬氏を除こうとして失敗し、弑されると
次に皇帝として迎えられたのが常道郷公の曹璜である。
このとき曹璜は曹奐へと改名するのだが
その理由が「避諱しにくい名だから」というものだのである。
つまり士民/庶民側が皇帝の名を避けるのではなく、
皇帝側が改名して避諱しやすくしたという例である。
余談となるが、検索した限りでは
「璜」と「奐」の避諱のしやすさ、しがたさの違いがよく分からない。
どちらもマイナーな字のように思う。
ただし避諱は発音の問題もあるので、それが理由ということもあるのか。


たとえば五胡十六国南燕の君主の慕容德(336-405)。
慕容德も皇帝に即位するとき(400年)に慕容備德へと改名するが
これも君主側が避諱を考慮した例となる。
こちらも文字よりも発音を気にしていると思われる。
つまり「備德」と口にするのはNGだが
「德」と口にしても問題ないように改名したというではないのか。


不要な情報を足して混乱を招いたかも知れない。
が、陸遜も同じ理由の改名なのではないか。
こちらは発音ではなく、あくまでも文字の問題である。
陸遜は皇帝ではない。
だが呉の丞相となり、高貴の身となって
諸々の場面で避諱の対象となることが多くなった。
そのようなときに「陸議」でありつづけるのは
他者に不自由を押し付けることとなった。
そのため改名したのではないか。
もちろん「遜」の字とて頻出なのだが
「議」よりはマシだった。
そういうことではないだろうか。


ではそういう特別扱いは陸遜だけなのか。
呉でいうなら他の丞相の孫邵、顧雍、歩隲。
あるいは群臣の尊敬を集めた張昭。
または大司馬の呂範、朱然ら。
呉末には三公が置かれたが、
それに就任した范慎、丁固、孟宗ら。
彼らについてもどうなのかと調べる必要がありそうだが
そこまでの気力もない。


だが、最後にもうひとつ片付けなければいけない問題がある。
それは三国志以後の記載状況である。
検索すると晋書以降、明史まで
陸遜の名がぽつぽつと引っかかる。

いっぽう、陸議。
実はこちらも引っかかる。
晋書で4件、宋書で6件出てくる。
いずれも「天文志」「五行志」に書かれる。


宋書の内容を列記しておく。
①232年の彗星の動きと、翌年の陸議撃退を関連づける
②234年に金星が昼に見えたことと、諸葛亮・陸議の北伐を関連づける
③249年の「羽蟲之孽」という凶兆。二宮の変と関連づけ、
陸議の憂死にも言い及ぶ(が、陸議の死は245年なのでこじつけである)
④251年の「大風涌水之異」という凶兆。翌年に孫権が薨御するが、
功臣の陸議すら孫権のもとで終わりを全うできなかったことと関連づける
⑤241年の「大雪」。これ以後、孫権が讒言をいれて
陸議が憂死することになったと関連づける
⑥222年、秭歸に「黃氣」が見えたこと。陸議が劉備を破ったことと関連づける。


このうち②③⑤⑥が晋書にも載るのだが、
④も晋書に同内容のものがあり、ただし表記が陸遜となっている。
また①は晋書では陸議の代わりに孫権の名を載せる。
宋書の方が成立は古いので、宋書を元ネタとして
晋書の「天文志」「五行志」が編まれたということなのだろう。
では宋書の「天文志」「五行志」は何かをベースにしたのか。
そこに陸議と書いてあったのでそのままそれを踏襲したのだろうか。
③④⑤は明らかに陸遜死後の記述と思われるのに
それを陸議と書くのはどういうことか。
もしかしたら陸遜改名はすぐには魏には伝わらずに
陸遜死後、孫権末年の失政を天文五行と関連づける論説が
魏側で流通した、そういうことだろうか。


あるいは、その元ネタの文書が「遜」を忌避したということだろうか。
たとえば、司馬彪という人物がいる。
この人は「續漢書」「九州春秋」「戰略」などを書き、
それは三国志の注としてもたびたび出てくるが、
彼の伯父が譙王・司馬遜である。
もっとも彼は有名人であり、晋書に伝がある。
魏晋代の「天文」「五行」について編纂していたのなら、
晋書で言及があっても良さそうなものである。
しかしそれは無い。
だから司馬彪の著作が元ネタなのでは、とはとても主張できそうにないが
当たらずとも遠からずの部分もあるかも知れない。
つまり、例の「天文志」「五行志」は
避諱により「遜」を避けた、という可能性である。
そうであれば、陸遜死後の書物に
陸議の名が残っても、さほどおかしくはないかも知れない。
陸議ではなく陸伯言と書けばいいのでは?とも思うが
私と同じように、陸議を「陸遜の別名」と考えるむきがあったのかも知れない。
三国志以前の書籍、たとえば王沈の魏書などでは
陸議はよく使われており、陸議と書き記すこともポピュラーであったのかも知れない。


以上のことはいつも通り、かなり雑駁な論である。
だいたい、譙王・司馬遜について考えるなら、
他にも山ほどいる司馬家の宗室の名前についても
調査をせねばならない。
だがいつかまた考えを再開するときの材料を書きとどめただけも良しとする。


今回の収穫はあくまでも
「呉書には人名以外の『遜』が出てこない」、という気付きである。