正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

華歆の豫章太守就任

華歆について考えたいことは2つある。
1つ目は、華歆の人物評価である。
魏朝の初代三公となった華歆をどう評価したらよいのか。
私の中では結論が出ている。
しかしいつ書くかは未定。
結論が出ているものについては
むしろ書くことが億劫になってしまっている。


2つ目は、華歆の豫章太守就任に関する疑問である。
その就任がいつなのか、
任命したのは誰なのか、
それを今回考えていく。


(華歆伝の前半要約)
華歆は青州平原郡高唐県の人で早くから名が知られた。
孝廉に推挙され、郎中に任命されたが病を理由に職を去った。
霊帝崩御後、何進に召されて尚書郎となった。
董卓による長安への西遷に従うが、
藍田を経て南陽へと逃走し、袁術に合流した。
袁術董卓追討を進言したが容れられず、去ることを欲した。
ちょうど太傅の馬日磾が関東諸侯の和平のため到来すると
華歆は太傅掾に任命された。
東に向かい徐州に至ると、詔勅により豫章太守に任命された。
その統治は「清靜不煩」で、吏民から愛された。
孫策が江東平定に乗り出すと、華歆はこれを迎え入れた。


まず馬日磾のことを考えると、
192年7月、李傕政権により太傅に任命されている(後漢書献帝紀)。
そして193年、関東諸侯を和解させる使者となる(三国志袁紹伝)。
このあと馬日磾は訪問先の袁術陣営において拘留され、
194年に死亡することになる。
193年春に袁術南陽を捨てて兗州に侵攻、
曹操に撃退されると揚州に逃走し、そこを根城にするわけだが、
馬日磾が袁術を訪問したのは、この揚州移動後なのだろう。


つまり、華歆伝には描かれないが、
華歆は袁術のもとから辞去することを考えつつも、
揚州への移動に付き従い、そこで太傅掾となったと推察される。


※華歆が袁術と別れ、どこかを放浪している際に
たまたま馬日磾と出会った可能性もゼロではないが、
それは想像の度合いが高すぎる。
今回の記事ではその可能性をバッサリと無視したい。


この頃に太傅掾となった人物では、他に孫策朱治がいる。
朱治はこのあと呉郡都尉になるのだが
では同じ頃に華歆も豫章太守になったのだろうか。
そもそも「東に向かい徐州に至ると(東至徐州)」とは何を意味するのか。
いったんこの謎を保留して、豫章郡の情勢を整理する。


豫章太守としては献帝の初年頃には周術なるものがいたらしい。
具体的な就任時期は推測である。
周術死後、その後継を巡って朱皓と諸葛玄が争った。
朱皓は朱儁の子であり、朝廷による任命である。
諸葛玄は諸葛亮の從父だが、任命者は劉表とも袁術とも言われる。
その考察もいったん措く。


この争いの最中、豫章にやってくるのが劉繇である。
劉繇は揚州刺史となると曲阿を拠点としたが、
孫策に敗れると丹徒へ逃げ、長江を遡った。
豫章に辿り着くと、彭澤に駐屯した。
劉繇の協力者としては笮融がいたが、
笮融は先に豫章に着いて、朱皓を殺したという。
これは三国志劉繇伝の本文の記述である。
注の獻帝春秋によれば、劉繇は豫章に至ると、
笮融を派遣して朱皓に味方させ、諸葛玄を攻撃しようとした。
だが笮融は朱皓を殺してしまった。


正史本文に戻ると、このあと劉繇は笮融を討伐。
笮融は山中に逃走したが、そこで民に殺された。
劉繇もまもなく病没したという。


さて、諸葛亮伝によれば、
諸葛玄は袁術の命に豫章太守となったが、
朱皓が送り込まれてくると、旧交のあった劉表を頼ったという。
荊州へ逃亡したという意味だろう。
諸葛亮伝注の獻帝春秋は別の結末を書く。
諸葛玄は劉表の上表により豫章太守となったが、
朱皓がやってきて、劉繇の助力を得て攻撃してくると、
南昌県から西城へと撤退した。
197年1月、西城民が反乱し、諸葛玄が殺害されたという。
西城というのは南昌県の西にあったという(三国志集解)。


通鑑は上記の記述を組み合わせている。
劉繇が孫策に敗北したのは195年なので、
そこから豫章に進み、朱皓、笮融が死ぬことまでまとめて書かれる。
ただし諸葛玄の最後は出てこない。
笮融死後、詔勅により「前太傅掾の華歆」が太守になったというところまで
195年の項に書かれている。


この整理は半分は正しい。
つまり、諸葛玄と朱皓の「豫章二分」の時期はあったが、
諸葛玄、朱皓、華歆の「豫章三分」の時期はないだろうということだ。


ただし、朱皓の死が195年というのは根拠がない。
つまり華歆の太守就任が195年というのも根拠がない。


しかし195年以前ではなく、以後に就任ということは分かる。
通鑑はその時の華歆の肩書きを「前太傅掾」とするが、
太傅の馬日磾の死は194年のため、
194年~195年の華歆の肩書きが不明ということが見えてくる。


いったい、華歆の着任はいつなのか。
誰が任命したのか。
それは後回しにし、劉繇死後の動向を先に見ておこう。


実は劉繇の死亡時期はハッキリしない。
通鑑では、先ほどの195年の記事が生存時の最後の登場となる。
劉繇考察は今回のテーマではないので、
さらっとだけ触れておく。


孫策は195年に劉繇を破り、呉郡(の一部)を手にする。
196年、会稽に侵出して王朗を破り、会稽太守となる。
197年春、袁術が皇帝を僭称すると、孫策はこれに絶交。
曹操/許都政権による袁術包囲網に参加する。
袁術配下の袁胤は丹陽太守であったが、これを破り、追い出す。
もっとも、袁胤が支配できていたのは丹陽の東部だけである。
西部には、祖朗、太史慈らが独立勢力として存在していた。
太史慈は劉繇陣営からは離脱して独立していた)
次に孫策はこの丹陽西部を攻撃するわけだが、
太史慈を捕らえると、彼に劉繇陣営の偵察を命じる。(★※追記あり。後述)
太史慈はそのまま逃亡するのではという意見があったが、
孫策は彼を信じて送りだしたというのが有名な逸話である。
で、この偵察を任せた時、すでに劉繇は死去していた。
劉繇死後の遺臣の動向を探らせたのである。
これが具体的にいつなのかは不明だが、
なんとなく198年なのではと思っている。
呉郡の大小軍閥(厳白虎など)の掃討は
具体的な時期は絞り込めていないが、196年ー198年頃だろうか。

(★※追記。太史慈伝を読み返すと、太史慈を捕らえた際に劉繇陣営の偵察を命じたのは呉歴の記事であり、裴松之はその真偽を疑っている。おそらく太史慈を捕らえてから、劉繇の死まではタイムラグがあったと思われ、本稿で「劉繇の死亡時期=198年なのでは?」と書いたのは根拠がない。199年である可能性もあると思われる。)


199年夏の袁術死後、孫策は大きな軍事行動を起こす。
廬江太守の劉勳を騙して、
「上繚宗民」と呼ばれる独立勢力の攻撃に向かわせる。
その隙に廬江の皖県を陥し、そのまま進んで劉勳を撃破。
劉勳救援に来た黄祖軍を撃退するだけでなく、
追撃して江夏郡でも戦闘。
そして帰還の途上、一気に豫章、廬陵を平定する。
この時、豫章太守の華歆が戦わずして孫策に降伏する。


呉録が載せる孫策の上表文によれば、
孫策が江夏を攻撃したのは199年12月である。
孫策の死は200年4月である(三国志注の「志林」による)。
では華歆が降伏したのは200年1月頃だろうか。


降伏の経緯だが、各書のより細部は異なる。
華歆の孫の華嶠が著した「譜敍」では比較的かっこ良く書かれ、
呉歴や江表伝ではそうでもない。
こうした場合は両論あるのが当然だろうから
どちらが正しいかは今回は踏み込まない。


気になるのは、江表伝の載せる華歆の言葉である。
孫策に降伏するよう部下に進言された華歆はこう言う。


>「吾雖劉刺史所置,上用,猶是剖符吏也。
>今從卿計,恐死有餘責矣。」


(拙訳)
私は揚州刺史の劉繇殿により(勝手に)任命されたとはいえ、
その後、朝廷により追認されたのだから、正式な太守のようなものだ。
もし進言に従い降伏すれば、死で贖えないほどの罪が残るだろう。

 

さて、ここから本題。
華歆が誰に任命されたかという問題である。


上記の江表伝を信じるならば、まず劉繇により任命されたということだ。
しかし華歆伝本文、劉繇伝本文に両者の関係を示す記述はない。
唯一、考える材料になりそうなのは、華歆伝注の魏略である。


>揚州刺史劉繇死,其眾願奉歆為主。
>歆以為因時擅命,非人臣之宜。
>眾守之連月,卒謝遣之,不從。


(意訳)
揚州刺史の劉繇が死ぬと、その遺臣は華歆を推戴しようとした。
華歆はそれを拒んだ。


これはつまり、劉繇の遺臣は
華歆に揚州刺史を自称させようとしたということだろうか。
華歆はそれは拒んだ。
しかし両者の関係は良好であったと想像させる。
そもそも、劉繇が彭澤に入ったのち、どこに割拠したかは不明だが
華歆のいたであろう南昌(豫章郡治)と隣接していたはず。
両者が対立していたとは想像しづらい。
劉繇により太守に任命されていたと考えるのは一番自然だろう。


では両者が結びついたのはいつなのか。
そもそも華歆は袁術陣営にいた。
袁術は一時は劉繇に対し融和的な対応をするが(193年頃)、
すぐに対立が明確化する(194年頃)。


袁術のもとにいた華歆は太傅掾に任命された(193年~194年頃)。
そして「東に向かい徐州に至ると」、詔勅により豫章太守に任命された。


もしかしたら、この「徐州」というのは間違いであって、
実際は「江東に避難した」のではないのか。
つまり、劉繇のいる曲阿へ逃亡した。
劉繇は青州人であり、数多くの青州人は彼を頼っている。
孫邵、是儀、太史慈、滕耽・滕冑兄弟らである。
※彼らはみな、その後は孫氏に仕えることとなる。


つまり、194年頃、袁術と劉繇の対立が決定化した段階で
華歆は劉繇のもとへ逃亡した。
対立が決定化する前に逃亡するのは考えづらい。
袁術から「華歆を返せ」の指令が出たら、身の危険が大きくなる。
そしてその後、劉繇が孫策に打ち破られると、
劉繇に従って豫章へと移動。
そして劉繇が支援した朱皓が死亡した際、後任の太守に任命されたか。


このケースでは、「東に向かい徐州に至った」が誤謬とみなすと同時に
どこにも書かれていない「劉繇のもとへ逃亡した」という想像をしなくてはいけない。
さらに、もう1つの問題がある。


それは、194年時点で袁術のもとから
劉繇のもとへ逃亡することは「現実的にあり得るのか」ということだ。
袁術は揚州に逃亡したあと、なぜかめきめきと勢力を強化しており
(これは本当に袁術の七不思議である)
劉繇は丹陽にいる呉景らを追い出すことは出来たものの、
優勢と言える状況とまでは言えなかった。
事態はどう転ぶか分からない状況だった。
また、淮南には張範・張承兄弟、何夔といった「名士」もいたが
彼らは長らく袁術の勢力圏に留まっている。


つまり、袁術の恨みを買うことを承知で、
華歆がそこを抜け出すことは現実的な想像と言えるだろうか。


では、江表伝のこの記事(劉繇に任命された)を疑った場合、
華歆は他の誰に任命されたと考えられるだろうか。


つまり、可能性②を考える。
まずは袁術である。
袁術は独自に揚州刺史を任命しており、
揚州全土に対して影響力を保持しようとしている。
まして早い時期に廬江郡を手中に収めており、
その目と鼻の先の豫章太守を任命していないわけがない。


諸葛玄を豫章太守に任命したのは袁術か、劉表かという話がある。
袁術陣営には琅邪人の劉勳、惠衢が参加しており、
2人とも「故吏」と書かれる。
袁術伝には未記載だが、袁術が琅邪国相になった可能性を想像させる。
そういう意味で、琅邪人の諸葛玄もまた袁術の「故吏」ではないか、
任命者は袁術なのではないかという推察は
多くの三国志ファンが通った道だと思う。


さらに劉繇が孫策に敗北して豫章を目指した際、
劉表を頼るべきという意見が出されたこともあり、
諸葛玄の任命者が劉表であれば、劉繇が諸葛玄と戦うのはおかしい。
これは三国志集解に載る見解である。


つまり、諸葛玄は袁術により任命された太守だった。
そしてその諸葛玄が敗れて死亡した、または荊州に逃亡した場合、
当然、袁術は新たな太守を送り込んでくる。
それが華歆であった。
この解釈は一度はしてみたくなる。
華歆伝では「詔勅により任命された」と書かれるが、
もちろんこの場合は、袁術による「偽勅」である。
孫策袁術の上表の結果、行殄寇將軍となるも、
それが袁術による「詐擅」だと後に知ったと告白が呉録にある。
それと同様であろう。


このケースでは「東に向かい徐州に至ると」の疑問は解消される。
袁術軍が徐州に侵攻した196年を想起できるからだ。
華歆は袁術軍の徐州侵攻に従軍したが、
その頃に諸葛玄が敗北したため、後任として豫章へと旅立った。
そう推測が出来る。


だが、この場合は別の問題が出てくる。
まず、華歆は武人ではない。
戦地化している豫章に送り込むような人選ではない。
そして劉繇の態度の謎である。
どうやら劉繇陣営と華歆は上手くやっていったようだ。
袁術の任命した豫章太守と、
なぜ融和することが出来たのか。
もちろん、劉繇も華歆も青州の「名士」である。
両者の個人的関係は問題ないだろう。
劉繇は、華歆のバックに袁術がいることは無視して
個人的に華歆を信頼したということか。
あるいはそれも見越しての袁術の人選なのか。
つまり、劉繇と和解するための華歆起用なのか。

揚州東部を手中にし、
今度は徐州へと目を向けている袁術にとって
劉繇は率先して倒すべき相手ではなくなった。
豫章太守として自分の息のかかった華歆を送り、
揚州西方に影響力を保ちつつも、
劉繇とは大枠では和解しようとした。
こういうことなのだろうか。


その場合、197年の袁術の皇帝僭称は
多少の問題を引き起こしたかも知れない。
つまり華歆は袁術への断交を強いられたかも知れぬ。
もし断交していなかったら
孫策は何の迷いもなく豫章を蹂躙したことだろう。
だが、そうではなく、豫章侵攻時、
孫策の気の遣う様子は史書に残っている。
仮に華歆は袁術による任命で赴任していたとしても
どこかのタイミングで関係を切ったのは間違いないだろう。


このケースで難しいのは、
袁術が劉繇との和解のために華歆を送り込んだ、
その想像を受け入れられるかという点である。


次の最後のケース、可能性③を考える。
これは劉繇でも袁術でもなく、
まず朝廷が行った人選という可能性である。


最近、このことを考えるに至った契機があった。
それは陳矯伝を読んだ時のことである。
ここには陳登が自分の尊敬する人物を列挙する言葉が載っており、
陳紀兄弟、華歆、趙昱、孔融劉備への評価が出てくる。
当時の人々の息吹を感じさせる言葉であり、
このような記述に触れるために私は三国志を読んでいると書いてきたが、
先日ハタと思ったのは、ここで列挙されているのは
当時の著名人物ということではなく、
実際に陳登が会ったことのある人物ばかりではないのか、と。
陳登は実際に陳紀、趙昱、孔融劉備に会ったことがあると思われる。
陳紀の弟の陳諶は早く亡くなったとされ、
陳登が陳諶に会ったことがあるかどうかは、かなりあやしい。
だが、筆のノリで陳紀兄弟と書かれただけかも知れない。
だいたい陳紀と陳諶とはセットで語られるからだ。
つまり、残りの華歆も陳登と会ったことがあるのではないか。


そしてそれはいつか。
陳登の一族は名家であり、
若い頃の華歆が各地を遊学でもした折に
立ち寄った可能性がないでもないだろう。


しかしその可能性をいったん無視すると
淮南の袁術陣営にいた華歆が徐州に赴いて陳登と出会った、
つまり「東に向かい徐州に至る」は事実だと思えてくるのだ。


ではそれはいつ、どのような経緯で徐州に至ったのか。
その可能性もいろいろあるが、
これまですでに1つのケースを見てきている。
つまり、劉繇のもとへ「出奔」した可能性を見てきた。
もしかして、徐州へ至ったとは、「出奔」だったのではないのか。


袁術が皇帝を僭称すると、その陣営からは離脱者が続出した。
多くは孫策のもとへと出奔したのだが
このとき華歆は徐州へ逃げたと考えることは出来ないか。
おりしも、許都政権により袁術包囲網が築かれる時期であり、
このとき華歆と陳登は徐州で邂逅した。
そして陳登は華歆の人柄に感服した。
陳登は許都への使者にもなっているが、
曹操になにか吹き込んだかも知れない。
そして、華歆は袁術包囲網の要員として豫章太守となった。


つまり、豫章太守任命は正式な詔勅によるものということになる。
華歆伝は魏の先行史料に基づいている。
魏の立場的には、許都政権による任命か、
袁術による勝手な任命かはちゃんと書き分けることは出来たはずだ。
孫呉蜀漢の方は任命者を濁したいケースはあろう。


そして正式な詔勅の場合、
195年~196年秋までの朝廷はかなり混乱していたので
やはりその時期から外れたところでの任命となろう。
袁術の皇帝僭称(197年春)以後なら
かなり整合性は出てくる。


この場合の疑問点としては
197年まで袁術のもとにいたとなると、かなり「空白の期間」が出てくること。
また、徐州へ出奔した華歆を、一度も許都に招くことなく
そのまま豫章太守に任命することがありえるのか、ということも思う。


しかし劉繇への出奔の可能性を許容できるのであれば、
こちらのケースも検討の余地があるのでないか。
そして、孫策が豫章侵攻時にかなり気を使ってる点について、
このケースではよく説明がつくと思う。

 

まとめとして、可能性①~③を簡略化して記載しておく。


【まとめ】 華歆の豫章太守任命の経緯とは?


可能性①:
華歆は袁術のもとから逃亡し、同じ青州出身の劉繇に身を投じた。
その後、孫策に敗れると、劉繇と共に豫章へ逃亡。
豫章太守の朱皓が死亡すると、華歆が後任となった。
後に朝廷からも正式に任命された。


※この場合、華歆が「徐州に至った」という記述を無視することになる。
※劉繇に身を投じたというのはそもそもどこにも書かれていない
袁術の恨みを買ってまで劉繇に身を投じるのはリスキーに思う。


可能性②:
袁術派の豫章太守の諸葛玄の後任が華歆。
袁術の徐州侵攻に華歆は従軍していた。
その最中、豫章太守に任命され、豫章へ赴いた。
その袁術派の華歆を劉繇も迎え入れた。
これは結果的に袁術・劉繇の和解となった。


詔勅により任命された(華歆伝)と異なる(偽勅ということ)。
※劉繇による任命(江表伝)とは異なる。
※華歆起用が和解になったということにリアリティを感じられるかどうか。


可能性③:
袁術の皇帝僭称に伴い、華歆は徐州へ出奔。
この頃、陳登と邂逅する。
その後、許都政権により豫章太守に任命。


袁術のもとに長くいることになり、空白期間が大きくなる。
※許都に召還されずに一挙に豫章太守に任命されることへの違和感あり。

 

さて、以上のような3つの可能性を考えることが出来た。
このいずれが正解かはまだ分からないが、
状況をある程度整理できたように思っている。


しかし今回言及していないこともある。
それは呉郡人の沈友と、華歆との関わりである。
三国志呉主伝注の呉録によれば、
華歆が巡察にいったおりに11歳だった沈友と出会ったという話があるが、
具体的な時期が判然とせず、
そもそもこの話の真偽すら検討する必要がありそうで
今回の考察からは外している。
いずれにしても、沈友の記事から確定的なことは言えそうにないので
上記の3つの可能性に特に変更が出てくることはなかろうと思っている。


ついでと言うわけではないが、
次回、沈友についてちょっとした記事を書く予定。