正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

沈友と、呉興武康県の沈氏を考える

前回の華歆の記事において、沈友との関係は省略した。
今回をそれを取り上げたうえで、沈氏のことを少し考える。
 
 
沈友は三国志呉主伝の注の吳錄に出てくる。
呉主伝の204年の記事に注が付され、
その文章は「この時~」と始まり、孫権が沈友を処刑したと記す。
いちいち訳さないが、その全文を載せておく。
 
 
>吳錄曰:是時權大會官寮,沈友有所是非,令人扶出,謂曰:「人言卿欲反。」
>友知不得脫,乃曰:「主上在許,有無君之心者,可謂非反乎?」遂殺之。
 
 
>友字子正,吳郡人。年十一,華歆行風俗,見而異之,
>因呼曰:「沈郎,可登車語乎?」
>友逡巡卻曰:「君子講好,會宴以禮,今仁義陵遲,聖道漸壞,先生銜命,
>將以裨補先王之教,整齊風俗,而輕脫威儀,猶負薪救火,無乃更崇其熾乎!」
>歆慚曰:「自桓、靈以來,雖多英彥,未有幼童若此者。」
 
 
>弱冠博學,多所貫綜,善屬文辭。兼好武事,注孫子兵法。
>又辯於口,每所至,眾人皆默然,莫與為對,
>咸言其筆之妙,舌之妙,刀之妙,三者皆過絕於人。
>權以禮聘,既至,論王霸之略,當時之務,權斂容敬焉。陳荊州宜并之計,納之。
>正色立朝,清議峻厲,為庸臣所譖,誣以謀反。權亦以終不為己用,故害之,時年二十九。
 
 
沈友は享年29なので、もし本当に処刑されたのが204年で間違いないのなら
11歳の時に華歆と会ったというのは、186年のこととなる。
華歆は「行風俗」、つまり使者として地方の風俗を巡察したおりに沈友と会った。
 
 
ちくま訳は「行風俗」の3文字をこう訳している。
「朝廷から使者として遣わされ各地の政治教化の成績を尋ねて巡察していたが」
あまりに補完しすぎだが、意味としてこのように解釈すべきなのだろう。
 
 
さて、この出会いにはいくつか違和感がある。
まず、三国志集解も言うように、沈友に対する華歆の台詞である。
桓帝霊帝の御代以来、俊才は多くあれど、ここまで若い者はいなかった」。
 
 
もしこれが186年の出来事なら、ここで「霊帝」と言うのはおかしい。
霊帝諡号であるから、霊帝死後(189年以後)の登場する言葉だからだ。
また、集解は華歆伝に「霊帝時代に華歆が呉郡を巡察したこと」が不記載として
この吳錄の内容を疑っている。
 
 
個人的にはもうひとつ、軽い疑いを掛けておきたい。
華歆の評価は別の機会にやるかも知れないが
彼は「清らかで控え目で折り目正しい徳義の人」、それ一本やりであり、
みだりに人物評価を行う印象は薄い。
この、11歳の沈友とのエピソードは私の華歆のイメージから離れている。
(伏皇后殺害の件は、華歆を考える上でのノイズである)
 
 
とは言え、両者の出会いがなかったとまで言えるのか。
華歆の台詞が少し違うだけで、本当に霊帝時代に出会っていたかもしれない。
あるいは、袁術陣営にいて太傅掾となった頃(193年)に
呉郡を訪ねたことがあったとか。
その場合、「行風俗」=朝廷の使者として、という解釈とは微妙に齟齬はあるが
矛盾とまでは言えないかも知れない。
 
 
ただし193年に沈友が11歳だったとすると、処刑されるのは211年である。
沈友は孫権から謀反の疑いを掛けられた際、
「天子は許におり、それを無下にする者は謀反でないと言えようか」と言った。
211年であれば、孫権曹操との敵対関係に完全に入っており
「君側の奸を除く」という大義名分を掲げていたはずだ。
それに対して「許都朝廷への忠誠の有無」を持ち出すのは道理が通らない。
曹操こそが不義の臣という解釈なのだから。
沈友の抗弁の内容を信じるなら、処刑は赤壁以前のように思える。
 
 
とは言え、沈友の言葉が正しく残っていないだけの可能性もあるので、
211年死亡説もまた完全には否定できない。
 
 
と、このように結論が出ないため、前回の記事とは分けることにしたのである。
 
 
次に考えておきたいのは、両者がどこで会ったか、である。
実は2人が呉郡で出会ったとは書かれていない。
華歆が地方巡察したのだから、沈友の故郷たる呉郡を訪ねたと想像するだけである。
別のどこかで会った可能性もあるが、その想像はキリがない。
だが、呉郡のどこであったか、については一度は考えたい。
というのも、沈友は呉郡人と書かれるだけで、出身県は不明である。
 
 
しかし、孫呉、あるいはその後の南朝において
「呉興武康県の沈氏」が史書に名を残していく。
沈友はもしかしたら、この「呉興武康県の沈氏」の可能性がある。
 
 
その話の前に、最後にもうひとつ沈友のことを触れておきたい。
呉録において、沈友は孫氏の兵法に注を入れたと書かれるが、
隋書の經籍三に「孫子兵法二卷,吳處士沈友撰」と記載がある。
沈友は実在した俊才で、その著作物は後代に伝えられたということだ。
 
 
さて、「呉興武康県の沈氏」。
司馬炎が永安県を改名して武康県としたのだが、
三国志集解の載せる「呉興記」によれば、
195年、呉郡太守の許貢が呉郡烏程県の餘不鄕を分離し、永安県を新設。
宋書によれば、霊帝の時代に烏程、餘杭の両県から分離したのが永安県。
どちらが正しいかは不明。
この後、孫晧の時代に永安山賊の施但が反乱(266年)。
その対応のためもあり、同年、呉興郡が新設された。
呉郡の西部、丹陽の東部の県を割いて作ったこの郡。
郡治は烏程県である。
 

後漢末に孫権が新都郡、鄱陽郡を立て、
孫晧の時代に呉興郡が立てられた。
 
 
この呉興武康県の沈氏と言えば、
東晋を調べている身からすれば、まず思いつくのは沈充である。
沈充は東晋の初年に反乱を起こした王敦の一味であり、処刑された。
その子の沈勁は、父が叛臣であることを「悲哀」しており、
北方戦線の前燕相手の籠城戦で国家に殉じることで、父の汚名を雪いだ。
 
 
晋末宋初にも呉興武康県の沈氏が出てくる。
私は劉宋の時代となると勉強不足でさっぱり分からないが、
それでも劉裕の創業を支えた沈田子、沈林子兄弟くらいは馴染みがある。
沈林子の孫が沈約であり、宋書を著した。
 
 
その宋書の「列傳第六十 自序」は沈約の祖先が細かく記載されている。
そのうち、後漢孫呉の時代をピックアップしたものが下図である。

 
沈氏のルーツは汝南平輿沈亭だというが、
前漢初に寿春に遷り、後漢初の沈戎が烏程県の餘不鄕に遷った。
その沈戎の子が沈酆、沈滸、沈景だというが、
一方で、新唐書の宰相世系によれば沈酆の子が沈滸だという。
年代的な整合性を考えると、新唐書の方が無理ないように思えるがどうか。
沈景の後継の詳細は書かれないが、沈演之はその子孫とのことである。
 
沈滸の子孫の中で気になるのは沈儀である。
おそらく孫権と同世代人であるが、出仕はしなかった。
その沈儀は族子の仲山や陸公紀と仲が良かったという。
陸公紀は陸積のことだろう。
両者は姻戚関係にもある。
族子の仲山は、沈珩の可能性がある。
沈珩は字が仲山、韋昭の呉書では「呉郡人」と書かれる。
この人も孫権の同時代人であり、
魏の文帝への使者となった事績が残っている。
そうであれば沈儀の族子でなく、族弟の可能性もあるのではないか。
 
 
さて、沈友を呉興武康の沈氏と見なす根拠は何もないが、
もし同族であれば、同世代の沈儀とも交友があったろう。
沈儀の祖父の盛憲は孫権により処刑され、
友人の陸績は正言により遠ざけられ、
さらに沈友もまた殺された。
沈儀が処士を貫いた=出仕しなかったのは、
ある意味で自然な流れだったのかも知れない。
 
 
その沈儀の子の沈憲は呉に仕えたという。
新都都尉、定陽侯(定陽県侯)になったとされる。
県侯というのはよっぽど功績があったということだが
官位の新都都尉とあまり釣り合わない。
 
 
その子の沈矯は孫晧の時代に将軍としての「称(ほまれ)」があり、
建威將軍、新都太守となった。
平呉の役を生き延び、太康(280-289)末に死去。
 
 
親子で新都郡の統治に関与しているが、
これは賀斉が丹陽南西部を討伐して新設された郡で
山越の住まう処の1つである。
もしかしたら沈憲は山越統治の功績により県侯にまで至り、
その沈憲の威名があればこそ、
子の沈矯も新都太守となり、山越対策にあたったのかも知れない。
 
 
沈矯と同じく呉末の沈瑩は、平呉の役で死亡した人物として
三国志ファンの間では有名だろうか。
ただし沈瑩は沈友と異なり、呉郡人であったかどうかすら分からない。
だが、呉興武康の沈氏であったのではないかと推測したくなる。
 
 
次回も揚州関連のことを書く予定。