正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

197年前後の東方戦線(呂布、袁術、劉備)の整理② + 韓暹、楊奉

前回は
①紀霊の劉備攻撃
呂布袁術の戦闘
を考えた。

今回は
呂布劉備の戦闘(2回?)
④韓暹、楊奉の滅亡
を見ていく。

あらためて通鑑での時系列(記載順)を貼っておく。


196年:
袁術が徐州に侵攻し、劉備が防戦する。
呂布が下邳を奪い、劉備袁術に敗北する
劉備呂布に降伏する。
呂布袁術が約束の軍糧を提供しない事に怒る
呂布劉備豫州刺史とし、小沛に駐屯させる
呂布配下の郝萌が反乱する
曹操が天子を許都に迎える
曹操に敗北した楊奉(と韓暹)が袁術のもとへ走る。
袁術呂布を恐れ、婚姻を申し出る。呂布は承諾する。
袁術配下の紀霊が劉備を攻撃へ。呂布が仲裁する。
呂布劉備への警戒を深め、攻撃。劉備曹操へ走る。
曹操劉備豫州牧とし、小沛に駐屯させる


197年:
・春、袁術が皇帝を僭称する
袁術が陳珪の子を人質にし、帰服を求める。
袁術呂布に婚姻の履行を求める
・陳珪の説得もあって呂布が翻意し、使者を許都に送って処刑。
・許都からの使者があり、呂布を左将軍に任命する。
・陳登が使者となって許都に赴く。
・陳登と曹操呂布打倒を謀る。陳登が広陵太守に任命される
・陳登が徐州に帰還する。
袁術軍が下邳を目指して進軍する。
・陳珪の策により、韓暹、楊奉が寝返る。
袁術軍を破った呂布は鍾離県まで侵攻し、帰還する。
・泰山賊帥の臧霸が琅邪相の蕭建を破る。
曹操呂布孫策、陳瑀に働きかけ、袁術包囲網を作る。
袁術が陳王の劉寵を暗殺する。
・9月、曹操が東征する。袁術は逃走する
曹操袁術軍の橋蕤らを破る
・飢饉が起こり、袁術はこれ以降衰退する
・韓暹、楊奉が徐州を荒らす。辞去を申し出るも呂布は拒否。
楊奉劉備呂布攻撃を提案。劉備はこれを偽許して楊奉を斬る。
・韓暹が并州への逃走を図り、杼秋県で斬られる


198年:
呂布袁術が再同盟
・高順、張遼劉備を攻撃。曹操夏侯惇を派遣。
・9月、高順が小沛を破る。劉備は単身逃走する。
曹操呂布攻撃に向かう


さて、呂布劉備の戦闘である。
通鑑によれば、かなり早い時期に勃発している。
袁術に敗れた劉備呂布に降伏し、
呂布劉備を小沛に置く。
袁術劉備を攻撃すると、呂布がこれに介入して停戦させるが、
その直後に、呂布自ら出兵して劉備を攻撃し、
小沛から追放しているのである。
なんでも、劉備が兵萬餘人を得たことを呂布が憎んだため、らしい。


その劉備は敗走して曹操に帰服し、
曹操劉備豫州牧に任命。
劉備は小沛に戻り、散兵を糾合する。
ここまで、196年の記事に収められている。


色々と疑問が渦巻く。
が、通鑑の書きぶりを追っていく。


197年、呂布曹操と和解して、袁術に対抗していく。
が、198年になると呂布は再び袁術と通じ、
劉備を攻撃する。
攻撃を主導するのは高順と張遼である。
曹操夏侯惇を送って劉備を支援するが
9月に沛城が陥落し、劉備は単身逃走する。
このあと、曹操呂布討伐に乗り出し、
一挙に徐州を破るのであった。


以上のように、196年、198年の項に2回の戦闘が書かれる。


このうち、1度目の戦闘がよく分からない。
そもそも、この直前に呂布袁術から劉備を守っている。
それは、袁術が小沛を落とし、泰山諸将と通じると、
呂布包囲網」を築かれてしまうからである。
では「袁術が小沛を取るのは嫌」だが、
劉備が小沛で勢力拡大するのも嫌」だったというだけなのか。
しかし劉備を小沛に置いたのはそもそも呂布である。
それが急に意見を変え、劉備憎しとなったのか。
もっともコロコロと意見の変わりそうなのが呂布ではあるが。


私の見立てでは、劉備袁術の戦いは196年の後半なので、
紀霊の劉備攻撃は196年末か、197年初頭である。
その直後に呂布劉備を攻撃したのだろうか。
であれば、それは袁術が皇帝を僭称するちょうどその頃合いであり、
その直後に袁術包囲網が築かれ、呂布はそれに参加。
つまり曹操と協力体制に入る。
であるので、曹操から劉備豫州牧として派遣され、
再び小沛に入っても、呂布はこれを甘受したということなのか。


それは考えられないことではない。
が、通鑑以外でどう書かれているか見ていく。


三国志武帝紀には196年の項にこう書かれる。
呂布劉備,取下邳。備來奔。


下邳を奪われてそのままやってきたかのようだ。
小沛に一時駐屯した件はどうなったのか。
そしてこの時に豫州牧に任命したことは書かれない。


この後、武帝紀に劉備が出てくるのは198年である。
呂布袁術と再同盟し、高順が劉備を攻撃する。
夏侯惇を送って劉備を支援するが敗北する。
この時、劉備曹操のもとに来たとか、
豫州牧に任命したとかはやはり書かれない。


三国志呂布伝には、1度目の戦闘は描かれない。
劉備を小沛に置いて以降、最初の戦闘は198年である。
その仔細は武帝紀と全く同じである。


一方の三国志先主伝の本文を見ていく。
呂布に下邳を奪われた直後に楊奉、韓暹を斬った記述があったり、
呂布と和睦した後に関羽を下邳の守備につけた記述があったり、
疑義のあるものが多く、だいぶ混乱している。
いったんそこは無視する。


すると次に出てくるのは
呂布劉備を憎んで攻撃した」という、例の戦闘である。
内容的にはほぼ通鑑と一致している。
ただし、こちらでは時期を明示していない。
そしてもうひとつ、記述の末尾の部分に差異がある。
それは、通鑑では曹操劉備を小沛に置いた意図として
「もって呂布を図る」と書いているのに対し、
先主伝では「呂布を攻撃せしむ」と書いている点である。


これは少し通鑑がズルをしているということだ。
曹操劉備を小沛に配置したのが197年初頭頃とするなら
それは袁術包囲網の直前であり、
曹操劉備呂布を攻撃させるのはおかしい。
そこで通鑑がかってに先主伝を読み替えたのだ。
「攻撃せしむ」を「図る」に変えた。


先主伝に戻る。
曹操劉備を小沛に戻し、兵力も増強させて呂布を攻撃させた。
すると呂布は高順に劉備を攻撃させる。
そこで曹操夏侯惇を派遣し、劉備を支援しようとするが、
両者とも高順に破られることになった。


つまり、1度目の戦闘、2度目の戦闘が連続しているように読める。


先主伝注の英雄記には、別の書き方がされている。
198年春、呂布が人を送って河内郡に馬を求めると
劉備の兵がこれを略奪した。
そこで呂布は高順、張遼を送って劉備を攻撃した。
9月、沛城は敗れ、劉備は単身逃亡し、その妻子が捕らえられた。


次に後漢書呂布伝を見る。
基本的に三国志呂布伝と同じで、
1回目の劉備との戦闘は描かれない。
後漢書は先主伝の「呂布劉備を憎んで~」は採用しなかった。
他に特筆すべきところでは
最初に呂布劉備を小沛に配置したとき、
劉備豫州刺史としたというのは、この後漢書呂布伝が初出のようである。


さて、こうして見てきて、
やはり私は通鑑の採った時系列を受け入れられない。
通鑑は武帝紀の「196年に劉備曹操に帰服した」と
先主伝の「呂布劉備を憎んで攻撃した」を
1つの出来事のように解釈しているが
果たして本当にそうなのか。


果たして、196年末/197年初頭に呂布劉備を攻撃したというのは
本当なのか。


まず、直前に劉備を救ったはずの呂布がすぐさま劉備を攻撃している違和感。
また、曹操劉備を小沛に送ったのを呂布が容認している違和感。
もっともこれは袁術包囲網の一貫とすれば、理屈は通る。
だが、197年には袁術豫州を縦断し、
陳国に再度攻撃を仕掛けているのである。
もし劉備曹操の支援を受けて豫州牧となっているのなら
ここで袁術との衝突が描かれないのは不自然だ。


ただし、劉備曹操への帰服が遅れた場合、
その間の曹操方の豫州刺史/牧が誰だったのかという問題はある。
仮に195年までは刺史が郭貢だったとして
196年以降は誰なのか。
曹操豫州潁川郡の許県に天子を迎えており、
また、袁術とは継続して豫州を争っている。
豫州刺史に誰を据えるかというのは重要な問題だったはずだ。
そこを重視すれば、劉備を対呂布、対袁術のために
豫州牧に起用するというのは自然に思える。
もっとも、時期的には呂布と和解して袁術と対抗するのが最優先。
呂布により豫州刺史に任命された、呂布の「衛星国」たる劉備
曹操豫州刺史として認めざるを得なかった、ということか。


後に劉備が敗れて曹操のもとに来た時、
劉備豫州牧に「任命した」というのは
197年時点ですでに豫州刺史として認められていたことと
矛盾するように見えるかも知れないが、
「刺史でなく牧」というところが着目すれば
矛盾とまでは言えなくなるだろうか。


以上の考察を踏まえて時系列を整理する。
私にとって自然なのは、下記の流れである。


呂布劉備豫州刺史とし、小沛に駐屯させる
袁術配下の紀霊が劉備を攻撃へ。呂布が仲裁する。
・197年春、袁術が皇帝を僭称する
袁術包囲網が築かれる
呂布の「衛星国」の劉備も、曹操から豫州刺史として認められる?
袁術の攻撃を呂布が撃退し、徐州南部を確保する。
劉備楊奉を斬る。(呂布の警戒心アップ)
劉備呂布の使者(馬購入)を邪魔する(呂布の警戒心アップ)
呂布自ら出兵し、劉備を破る
劉備曹操のもとに逃走
・198年春、呂布袁術が再び組む(呂布曹操の敵対確定)
劉備曹操から豫州牧に任命され、小沛に戻る
劉備は散兵を糾合し、曹操の支援も受け、呂布を攻撃
呂布は高順、張遼を送り、劉備を攻撃
曹操夏侯惇を派遣し、劉備を支援
・高順が沛城を破り、劉備の妻子を捕らえる


上記の整理が正しいとまでは断言できない。
たとえば、劉備がが兵萬餘人を得たことを呂布が憎んだ、という話。
これを198年までスライドさせていいのか。
劉備は198年になるまで、兵萬餘人未満だったのか、など
疑問は色々と残る。
だが、通鑑の整理が絶対ではないとだけ確認できれば
私にとっては充分である。


さて、やっと辿り着いた④韓暹、楊奉の滅亡。


天子東還の最中、韓暹は大將軍にまで、
楊奉は車騎將軍にまで登りつめた。
天子が洛陽に入ると、これを董承と韓暹が警護した。
楊奉はそれとは別に梁に駐屯。
これは豫州梁国ではなく、河南尹の梁県のようである。


その後、韓暹を嫌った董承が曹操を招き入れると、
韓暹は楊奉のもとへ単騎で出奔。
天子を許都へ遷した曹操は、196年10月に楊奉を討伐。
楊奉、韓暹は袁術のもとへ奔る。
ここで河東に帰還できなかったことが、両者の運命を決める。


197年春、袁術が皇帝を自称すると、呂布はこれを拒絶。
怒った袁術呂布への討伐軍を差し向ける。
この時、袁術軍は楊奉、韓暹と「連勢」したと書かれる。
これを迎え撃つ呂布軍は、楊奉らを袁術軍から離反させるが
この時、陳珪は袁術軍と楊奉らの関係を
「卒合之軍」「卒合之師」と表現している。
にわかに連合した軍、とのことである。
完全に袁術軍には取り込まれず、
客将として協力している関係だったのだろう。


呂布楊奉らの離反の余勢を駆って袁術軍を撃破。
そのまま寿春を目指して進撃。
楊奉、韓暹もこれに同行している。
この戦闘の勝利により、
おそらく呂布は徐州南部も支配することとなった。


このあとの楊奉、韓暹の動向であるが、唯一詳しく記述するのは通鑑である。
他の史書から見ていく。


三国志先主伝によれば、劉備袁術に敗退した後、
呂布に降伏するまえでの間に楊奉、韓暹を斬ったように書かれる。
これは他伝と矛盾が多く、信用できない。


後漢書董卓伝によれば、楊奉、韓暹は袁術のもとに奔り、
揚州、徐州の間を暴れまわった。
その翌年(=197年であろう)、左將軍劉備楊奉を斬った。
後漢書注は、このとき劉備は左将軍でなく、鎮東將軍であったとしている。
これは呂布袁術の抗争への関与が記されない点で
信憑性に疑義がある。


三国志董卓伝注の英雄記によれば
劉備楊奉を会見に誘い込み、そこでこれを捕らえたという。
詳細な状況が不明である。


これらに比べて、通鑑がかなり筋道だった記述がある。
その記述がなにをもとに書かれたのかは疑問であるが。
197年11月の記事(曹操の張繡攻撃)に続き、こう書かれる。


>韓暹、楊奉在下邳,寇掠徐、揚間,軍飢餓,辭呂布,欲詣荊州;布不聽。
>奉知劉備與布有宿憾,私與備相聞,欲共擊布;備陽許之。
>奉引軍詣沛,備請奉入城,飲食未半,於座上縛奉,斬之。


(拙訳)
韓暹、楊奉は下邳におり、、徐州揚州の領域を略奪したが、
その軍は飢餓し、呂布に辞去を申し出、荊州へ行くことを欲した。
呂布は許可しなかった。
楊奉劉備呂布に対してわだかまりがあるのを知り、
ひそかに劉備と連絡をとり、共に呂布を攻撃したく思った。
劉備は偽ってこれを許可した。
楊奉は軍勢を率いて沛に行くと、劉備は入城するよう請うた。
宴会の飲食の途中、その座において楊奉を縛り上げ、これを斬った。


まず疑問なのは、韓暹、楊奉の「略奪」である。
これは呂布側からの補給が十分でなかったのか
韓暹らの軍の統制が効いていなかったのか、
あるいは韓暹らが意図的に略奪したのかは分からない。
しかく各書物に「徐、揚間を略奪」と書かれており、
事実なのだろう。
そしてその書き方にぶれが無いことから
地理的にも「徐、揚間」というのは正しいのではないか。
通鑑では「韓暹、楊奉は下邳におり」にいたと書かれるが
これは下邳県のことではなく、下邳国のことかもしれない。
下邳国、そして広陵郡は、この少し前に呂布袁術から獲得した。
そこに韓暹、楊奉らが駐屯していたということか。
気になるのは、その下邳国から劉備のいる小沛までの距離だ。


呂布の配下としては彭城相の侯諧がおり、
ここを自由に通過するというのは少し疑問が湧く。
であるなら、どこを通って小沛まで行けたというのか。
もしかしたら豫州を通って行ったのかも知れない。


197年の中頃、呂布袁術に勝利。
また、9月頃、陳国に侵出していた袁術軍を曹操が撃退。
このとき、方面軍司令官クラス(橋蕤)が戦死している。
袁術軍の豫州戦線は大幅な後退を余儀なくされたのではないか。
沛国の西部には曹操が、中部には劉備が進出したのかも知れない。
そして、呂布陣営から辞去を申し出た楊奉らも慰留されたわけだが、
このタイミングで下邳国から沛国東部あたりに駐屯地を変えたのかも知れない。


上記の想像に基づき、劉備が沛国の中部を抑え、
呂布が東部を抑え、楊奉らがそこに駐屯した場合の地図を置いておく。
この頃、臧霸はもう蕭建のいる莒県を陥していた頃か。

 

 

さて、呂布を謀ろうとしていた楊奉劉備は斬ったわけだが、
これにより呂布の信頼を得るのとは逆の結果になった。
呂布の反応は描かれないが、
これからまもなく呂布劉備を攻撃したことを考えれば
呂布側の劉備への警戒心が高まる結果となったのだろう。


このあと、韓暹はどうなったか。
楊奉を失い孤立した韓暹は、并州に帰還しようとし、
杼秋県で張宣に殺された。


まず、并州というのが少し不思議である。
韓暹の根拠地は河東であり、司隸に属する。并州ではない。
これは単なる書き間違いなのか。
あるいは河東・并州の勢力は一体化していたのか。
それとも、河東とは関係なく、本当に并州を目指したのか。
并州にいる誰かを頼ったのか。


次に、并州に向かう韓暹の勢力であるが、
通鑑によれば「十餘騎」、後漢書董卓伝では「千餘騎」となっている。
勢力が「十餘騎」まで減じていたというのは考えにくいが、
逃避行に同意したのが「十餘騎」だった、ということかも知れない。
少数だからこそ、杼秋県まで進むことが出来た。
そしてそこで討ち取られたのも少数であったから、と理解することができる。


韓暹を討ち取った張宣は通鑑では杼秋令と書かれるが、
三国志董卓伝注の英雄記では「杼秋屯帥」と書かれる。
おそらく通鑑はこの「杼秋屯帥」がよく分からず、
勝手に県令に読みかえたのだと思われる。
これはズルである。
おそらく県令クラスではなく、もっと上位の軍人だったと推測する。
そして、おそらく劉備の配下である。
もしかしたら張飛の間違いではないのか、という気もしている。


と、ここまで書いてきてふと思ったが、
韓暹はなぜ并州への逃走を図ったのか。
なぜ呂布を頼らなかったのか。
劉備楊奉を斬ったことが
呂布に問題視されたと史書に書かれないことも合わせて考えれば、
徐州を荒した時点で、韓暹、楊奉呂布の「客将」身分から外れたのではないか。
通鑑は韓暹らが荊州に行こうとし、呂布はそれを許さなかったというが、
やはり駐屯地は徐州の域外に移転となり、
そこで勝手にやってくれ、という状況になったのかも知れない。
呂布は韓暹らの荊州への出奔を許さなかった、
つまりは徐州略奪を表面上は赦したものの、
わだかまりは残り、関係性は変転した。
だからこそ韓暹は呂布を頼れず、
并州への逃走を図らざるを得なくなった。


しかも杼秋県を通ったということは、
その後は兗州を縦断して河北に抜ける必要がある。
曹操の勢力圏である。
いちおう、韓暹は楊奉を頼って梁県で合流した際に、
曹操とは交戦しているとみられる(196年)。
徐州から青州に抜け、袁紹の勢力圏に入った方がまだ安全だと思うが、
それをしなかったのは呂布との関係に亀裂が入っていたからなのか。
あるいは、曹操とはそれほどの敵対関係にはなかったのか。
いずれにしても、呂布を頼ることは出来なくなっていたのだろう。
この推察は、個人的には今回の記事の収穫となりそうだ。


さて、次回は華歆の前半生について書く予定。