正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

197年前後の東方戦線(呂布、袁術、劉備)の整理①

前回、196年頃の陳珪について考えた。
それに引き続いて、翌年の徐州の情勢を整理しておく。
自分の分かっていること、分かっていないことの整理である。


武帝紀はこのあたりの情報が少ないため、
通鑑をもとに見ていく。
通鑑での時系列(記載順)は下記である。


196年:
袁術が徐州に侵攻し、劉備が防戦する。
呂布が下邳を奪い、劉備袁術に敗北する
劉備呂布に降伏する。
呂布袁術が約束の軍糧を提供しない事に怒る
呂布劉備豫州刺史とし、小沛に駐屯させる
呂布配下の郝萌が反乱する
曹操が天子を許都に迎える
曹操に敗北した楊奉(と韓暹)が袁術のもとへ走る。
袁術呂布を恐れ、婚姻を申し出る。呂布は承諾する。
袁術配下の紀霊が劉備を攻撃へ。呂布が仲裁する。
呂布劉備への警戒を深め、攻撃。劉備曹操へ走る。
曹操劉備豫州牧とし、小沛に駐屯させる


197年:
・春、袁術が皇帝を僭称する
袁術が陳珪の子を人質にし、帰服を求める。
袁術呂布に婚姻の履行を求める
・陳珪の説得もあって呂布が翻意し、使者を許都に送って処刑。
・許都からの使者があり、呂布を左将軍に任命する。
・陳登が使者となって許都に赴く。
・陳登と曹操呂布打倒を謀る。陳登が広陵太守に任命される
・陳登が徐州に帰還する。
袁術軍が下邳を目指して進軍する。
・陳珪の策により、韓暹、楊奉が寝返る。
袁術軍を破った呂布は鍾離県まで侵攻し、帰還する。
・泰山賊帥の臧霸が琅邪相の蕭建を破る。
曹操呂布孫策、陳瑀に働きかけ、袁術包囲網を作る。
袁術が陳王の劉寵を暗殺する。
・9月、曹操が東征する。袁術は逃走する
曹操袁術軍の橋蕤らを破る
・飢饉が起こり、袁術はこれ以降衰退する
・韓暹、楊奉が徐州を荒らす。辞去を申し出るも呂布は拒否。
楊奉劉備呂布攻撃を提案。劉備はこれを偽許して楊奉を斬る。
・韓暹が并州への逃走を図り、杼秋県で斬られる


198年:
呂布袁術が再同盟
・高順、張遼劉備を攻撃。曹操夏侯惇を派遣。
・9月、高順が小沛を破る。劉備は単身逃走する。
曹操呂布攻撃に向かう


細かいところまで見ていくのは大変だ。
たとえば呂布は左将軍に任命された一方で、
平東将軍に任命されたとの記述もあり、
そのあたりも課題としてはあるのだが、
今回は次の4点に絞って考えてみたい。


①紀霊の劉備攻撃
呂布袁術の戦闘
呂布劉備の戦闘(2回?)
④韓暹、楊奉の滅亡


今回のこのうちの①②を見ていく。


まず、紀霊の劉備攻撃である。
もともとの袁術の徐州侵攻は
呂布の挙兵を当てにしてもいたが
その呂布の挙兵が上手く行き過ぎた。
それが袁術にとって問題となった。
なぜなら劉備袁術の仇敵ではなかったからだ。
袁術の目的は劉備打倒ではなく、
徐州獲得であったからだ。
結果として、袁術が獲得したのは
淮水下流域だけとなってしまい、
徐州中部は呂布が固めてしまった。
そして劉備がなんと呂布に降伏し、
呂布はその劉備を小沛に置いて自領の西藩とする。
この時、呂布は徐州刺史を自称する。


袁術は挙兵の約束の軍糧を渡さず
呂布の怒りを買うが、その後に和解。
これでもう徐州侵攻は諦めざるを得ない。
そこで目をつけたのが小沛の劉備である。


となると、小沛への侵攻ルートは徐州域外であったということか。
これに呂布が介入して紀霊を撤退させたのは有名だが
それは沛の西南一里の場所であった。
ここでいう「沛」はおそらく「小沛」のことなんだろう。
そしてこの時の沛国相は陳珪である。
196年時点で、陳珪は袁術への協力を拒絶している。


では袁術軍は、この小沛侵攻時に陳珪も攻撃したのだろうか。


可能性(1):
陳珪は劉備と共に小沛におり、袁術軍の攻撃を免れた。


可能性(2):
陳珪は沛国の中部、南部におり、
袁術の攻撃を受けて敗北し、呂布を頼った。
その後も「沛国相」の肩書きは変わらないが、
沛国を実効支配できていたかは不明。


可能性(3):
陳珪は沛国の中部、南部にいたが、
袁術軍はこれを素通りして小沛を目指した。

 


ここから更に考えていくのは難しいが
袁術軍が小沛に直接進撃していくのが可能であったこと、
しかし呂布がそれを妨害しようとして
下邳から駆けつけても十分間に合う状況であったこと、
この2つは覚えておきたい。


次の問題に移る。
呂布袁術の戦闘である。
呂布袁術劉備攻撃を邪魔したものの、
両者の関係に亀裂は入らなかったようで不思議である。
そして197年春、袁術は皇帝を自称する。
これに対し陳珪は袁術との関係断絶を呂布に勧め、
呂布曹操主導の「袁術包囲網」に参加をする。


ここで最初に動いたのは袁術の方である。
呂布への使者の韓胤が許都に送られ処刑されたのだが
それに激高したのか、袁術のターゲットは呂布となった。
そして袁術軍の歩騎数万が下邳を七道から目指す。
注目すべきは「下邳」を目指したことである。


これより前、呂布は徐州刺史を自称しており、
袁術とも同盟関係にあったが
それでも下邳以南に防衛線を引けなかった。
これが袁術と戦った時の劉備との違いであり、
淮水下流域は袁術が支配を続けていたということである。
それを呂布は取り戻せていなかった。


そして呂布の戦力は少なく、この防衛戦は不利であったが
韓暹、楊奉の寝返りにより形勢が逆転する。
呂布袁術軍の将軍10名を斬ると、
そのまま寿春に向かって進撃。
鍾離県まで到ったあと、淮水を北に渡り、帰還する。


197年春に袁術が皇帝を自称してから
袁術軍には離反が相次いでいる。
広陵太守の呉景も孫策のもとへ出奔しているが、
この呂布の寿春侵攻時にはすでに不在だったかも知れない。
また、呂布が淮水以南を進撃した形跡があること、
また、袁術包囲網の情勢からも判断すると
袁術劉備攻撃時に手にした徐州領域を
すべて失ったのかも知れない。
ポイントは、寿春を目指した呂布の最終到達地点が
鍾離県だということである。
鍾離県は徐州と揚州の境界にある。
徐州全域を奪還することが作戦目標だったのかも知れない。
つまり、侵攻ルートにしても、直線的に寿春を目指したのではなく、
泗水沿いに南進し、その後、淮水南岸を侵攻したのではないか。

 

 

袁術包囲網では、曹操は陳登を広陵太守に任命している。
そして陳珪のいとこの陳瑀は行呉郡太守、安東將軍である。
陳瑀は海西に駐屯していたというが、
その後、江東の孫策にちょっかいを出すことから見ても
海西ではなく、海陵が正しいかと思われる。
あるいは、海西を出発して、
広陵南部に侵攻してこれを取り戻したか。
それならば、呂布と陳瑀は共同作戦を行っていたかも知れない。


さて、
呂布劉備の戦闘(2回?)
④韓暹、楊奉の滅亡


この2つについては次回考えていく予定。

沛国相・陳珪に関する疑問

三国志を読んでいて、さっぱり分からない記述にはよく出会う。
その場合はそれをノイズとしていったん無視してしまうか、
あるいは誤謬の混入を疑い考察するか。
私にとって、「袁術が陳珪の子を人質にした」という記述も、
またそのうちのひとつであった。


それは三国志袁術伝に出てくる。
記述の順番としては以下の通りである。


袁術が刺史を殺害して揚州を乗っ取る
長安の李傕政権により左將軍に任命される
長安からの使者であった太傅の馬日磾を拘留する
・沛相の陳珪に協力を要請する
袁術が陳珪の子(陳應)を人質にする
・陳珪が拒絶する
・195年冬、天子が東遷の道中で敗北する
袁術が皇帝即位の是非を部下に問う


この袁術と陳珪の逸話は後漢書も通鑑も採用していない。
やはり「よく分からない」からなのか。
おそらく、一番分からないポイントは、
なぜ袁術が陳珪の子を人質に出来たか、ということであろう。


原文を確認していく。


>時沛相下邳陳珪 ,故太尉球弟子也。
>術與珪俱公族子孫,少共交游,書與珪曰:
>「昔秦失其政,天下羣雄爭而取之,兼智勇者卒受其歸。
>今世事紛擾,復有瓦解之勢矣,誠英乂有為之時也。
>與足下舊交,豈肯左右之乎?若集大事,子實為吾心膂。」


陳珪は太尉の陳球(118-179)の弟の子である。
袁術とは「公族」の子弟同士であって、若くから交流があった。
曹操は155年生まれだが、
陳珪、袁紹袁術は140年代前半~中頃の生まれであったか。
袁術は当時の情勢を秦末の群雄割拠と重ね、
陳珪が自分に帰服するように書を送った。


これに対する陳珪の反応は不明で、こう続く。


>珪中子應時在下邳,術並脅質應,圖必致珪 。 


陳珪の中子の陳應は下邳に滞在していて、
袁術は脅してこれを人質とし、
陳珪を絶対に帰服させようとした。


このあと、陳珪の反応が明らかになる。
陳珪は返書してこれを拒絶した。


>珪答書曰:「昔秦末世,肆暴恣情,虐流天下,毒被生民,
>下不堪命,故遂土崩。今雖季世,未有亡秦苛暴之亂也。
>曹將軍神武應期,興復典刑,將撥平凶慝,清定海內,信有徵矣。
>以為足下當勠力同心,匡翼漢室,而陰謀不軌,以身試禍,豈不痛哉!
>若迷而知反,尚可以免。吾備舊知,故陳至情,雖逆于耳,
>骨肉之惠也。欲吾營私阿附,有犯死不能也。」


陳珪は拒絶の理由として、
情勢が秦末とは異なること、曹操が漢室を補佐していることを挙げる。


さて、ここから色々と考えていく。
後に呂布が下邳で籠城した際、やはり陳珪の子を人質にした。
これは特に疑問はおきない。
だが袁術は下邳を支配したことはない。
なぜその袁術が、下邳にいた陳應を人質にできたのか。
袁術と言えば、陳王の劉寵を暗殺したこともある。
それから想起するに、袁術は他勢力に間者を送り込んで
工作行為をするのに長けていたのだろうか。


おそらくこのあたりのことが思い込みとなり、
私を混乱させていた。


後漢書によれば陳球は下邳国淮浦県の出身である。
陳應がいたのは下邳県ではなく、淮浦県ということか。
淮浦の位置を確認する。


※下邳と広陵の歪な郡境は納得しがたいが、
いったん考察はやめておく。
また、盱眙や淮陰の位置も怪しいが
東西の位置関係だけ分かれば、今回は良しとする。


こうして見ると、袁術が淮浦を支配できた時期があることに気づく。


196年、袁術は徐州に侵攻し、劉備と戦った。
その戦場は盱眙や淮陰と書かれる。
しかし下邳で反乱が起き、呂布が徐州を乗っ取る。
劉備軍は飢えに苦しみながら海西に撤退する。
この時、劉備軍を救援したのが麋竺である。
麋竺陶謙時代の末に徐州の別駕從事であり、
劉備時代においても別駕であったと推測する。
であれば、留守役として下邳にいた可能性があろうが、
反乱を受けて故郷の朐県に避難していたか。
そこで部曲を糾合し、朐県からほど近い海西に駆け付けた。


なお、海西県の位置は中国歴史地図集を参考にしている。
水經注図には記載はなく、確証は持てない。
が、もとは東海国に属したということで、かなり北部にあったろう。


袁術軍が劉備軍を追撃したとは書かれていないが、
海西の手前までは制圧した可能性がある。
であれば、淮浦県を陥し、陳應を人質にできた。


これは、下邳県に間者を送って陳應を拉致したという想像よりは
いくらか真実味があると言えよう。

 


※先主伝注の英雄記によれば、仔細はいくらか異なる。
反乱を知った劉備は下邳への帰途につくも、兵が離散し、
東の広陵へと転進するも、袁術に敗れたという。
この広陵とは海西県のことを指すだろうか。
いずれにしても、袁術が淮浦県を制圧した可能性と矛盾はしない。



時期的にはこれは196年のことであった。
袁術伝では195年以前のことのように書かれるが
その記述の順序に錯誤があったということだ。


時期に関してはそれを裏付ける証拠も別に見つかった。
それは陳珪の返書の内容である。
そこでは曹操が漢室を補佐し、
乱世を収束しつつあることを書く。


これはやはり196年のことである。
そして、返書に書かれていないことにも注意が必要だ。


陳珪は陶謙劉備呂布曹操に仕えたと知られている。
いや、実は陶謙劉備との関係性は不明だ。
だが、子の陳登は陶謙劉備にも仕えており、
やはり陳珪も両者に仕えたと考える方が自然と思う。


そして、返書には劉備呂布も出てこない。
もし呂布に仕えていた時期であれば、
当然、呂布の名も出して拒絶するのが自然である。
劉備にしても同様だ。
だが、出てくるのは曹操の名前だけだ。
それは陳珪が曹操だけを高く評価していたからというより、
曹操以外の名前を出せない時期だったからだ。


つまり、劉備が敗北したあとの時期であり、
陳珪が呂布に仕える前の時期であった。


それを示す根拠がある。
それは書面中の「曹將軍」という呼び方である。
この「曹將軍」はなかなかレアである。
曹操が司空となった後、曹操は「曹公」と呼ばれる。
兗州刺史となった当初は「曹兗州」「曹使君」である。


曹操の肩書きの推移を確認する。
196年
6月:鎮東將軍となる。
7月:天子が洛陽に帰る。
9月:天子が曹操の陣に至る。曹操が大將軍となる。
10月:司空,行車騎將軍となる。


鎮東將軍となる少し前に建德將軍に任命されているが、
おそらくその頃は「曹兗州」と呼ぶ方が適当かと思われる。
しかし、鎮東將軍というのは明らかに「上将軍」であり、
もはや「曹兗州」と呼べなかったのではないか。
であれば、6月~9月までが「曹將軍」だったのではないか。


ところで私は根拠を示さずに推測を書くことがある。
それは本当に根拠がない当てずっぽうであるときも、
本当は根拠があるが書くのを割愛している時もある。


袁術の徐州侵攻を「196年の後半」と過去に書いた。
通鑑では196年前半の位置に書かれているのに、である。
これには理由がある。
この戦いの最中、曹操の上表により、
劉備が鎮東將軍に任命されるからである。
(※★追記。通鑑では確かに前半の位置に書かれている、というか、後半のボリュームが多いためにそう見える。が、正確に言うと、6月の記事(天子が聞喜県に至る)と、7月の記事(天子が洛陽に至る)の間に置かれている。196年前半の位置に書かれている、としたのは不正確であった)


三国志先主伝:
袁術來攻先主,先主拒之於盱眙、淮陰
>曹公表先主為鎮東將軍,封宜城亭侯,是歲建安元年也。


劉備袁術の戦いの最中、曹操劉備を支援する必要があった。
その頃、曹操は天子を奉戴した。
あるいは、天子に意見が通りやすい状況にあった。
であるからには、天子の洛陽帰還後(7月)以降だろう。


曹操の鎮東將軍が、劉備へと受け継がれたと考えるなら、
曹操の大将軍着任(9月)以降ということになる。


こうして整理してきた時系列には文句のつけようもないと思うが、
問題がないではない。
それは呂布伝注の英雄記の記述である。
そこでは呂布が下邳を乗っ取った事績につづけて
196年6月の出来事として郝萌の反乱が書かれる。
ここだけ見れば、196年前半から袁術の徐州侵攻があり、
その後に下邳乗っ取り、つづけて劉備への鎮東將軍任命があることになる。


可能性のひとつとしては、
下邳を失ったあとの劉備に対し
鎮東將軍任命があった、というものがある。
下邳陥落後であれば任命は遅きに失したと言えるが、
情報伝達のタイムラグがあったのかも知れない。


可能性②は、英雄記の記述の順番の誤りである。
196年6月に郝萌の反乱はあったが、
その後に下邳の乗っ取りがあった。
これは英雄記の問題ではなく、
裴松之の注の記載順の問題なのかも知れない。


最後の可能性③は、英雄記の記述内容の誤りである。
196年6月ではなく、197年6月であるとか、
196年10月の可能性はゼロではない。
建安元年と建安二年、
あるいは六月と十月の転写ミスは充分あり得るだろう。


いずれにしても、陳珪が返書をした時期自体は揺るがない。
曹操が天子を輔弼し、上将軍であった時期。
196年秋ごろが最有力であろう。
このあと、陳珪は呂布に「仕えた」。
一方で、呂布劉備を小沛に配置した。
小沛=沛国沛県のことである。
その間、劉備と陳珪の人間関係は不明である。


197年、呂布曹操の関係が急速に改善される。
その中で曹操は、陳登を広陵太守に任命し、
陳珪の秩禄を中二千石に引き上げる。
つまり、陳珪は呂布に仕えても
沛国相であり続けたのだろう。
ただし、まるで呂布の側近であるかのように史書に出てくるので
滞在していたのが沛国なのか、下邳なのか、少し疑問だ。


呂布は198年冬に敗北するが
その後の陳珪の動向も生死の状況も不明である。
功績を考えれば、入朝して高官に就任してもおかしくはない。
ただ、曹操は東方の統治を有力者に委任したので
引き続き沛国を預かった可能性もある。
その場合、劉備の反乱に対して陳珪がどう反応したかは
気になるところである。


さて、次に沛国相に就任した時期を考えておこう。


陳珪より前の沛国相には袁忠がいた。
袁紹袁術とは「はとこ」にあたる。
袁忠は192年の陶謙の協力者として名が出てくるが、
後に江南に避難し、會稽太守の王朗を頼った。
次に交州に移った。
もともと曹操に恨みを買っていた人物である。
193年秋の曹操の徐州侵攻を契機に
職を去った可能性が高いだろう。


であれば、陳珪の沛国相の就任は最速でその頃か。
陶謙の末年(194年)に劉備豫州刺史として小沛に駐屯するが、
それと同時期に陳珪も沛国相となったと考えたくなる。


その場合は少し問題がある。
過去の記事で根拠を示さずに推測を書いたことのひとつで
豫州の情勢がある。
195年、袁術豫州に侵攻していた。
少なくとも陳国には侵攻している。
潁水ルートであれば、揚州から汝南を突っ切って
陳国に達することは可能ではある。
しかしもう1つのルートとして濄水ルートがあり、
こちらは一部は沛国を通過することになる。
そして195年末には濄水流域の武平県で
曹操軍との衝突が起きている。
また、刺史の治所である譙県も濄水ルートにある。




もし陳珪がこの時すでに沛国相であったのなら
このタイミングで帰服を呼びかけるのが自然であろう。
だとしたら、陳珪の着任はもっと後なのだろうか。
つまり195年末に袁術豫州侵攻はいったん頓挫し、
その軍勢は豫州南部に引き上げたことだろう。
その後に陳珪は着任したか。
そして196年、袁術は矛先を徐州に変えた。
そして旧知の陳珪に誘いの書を送りつつあるうち、
その子を下邳国淮浦で手に入れるに至ったのか。


あるいは陳珪はやはり194年頃に赴任していた。
195年に袁術豫州侵攻するに際し、
陳珪を帰服させんと書を送った。
それが袁術伝に記載の書であった。
しかし陳珪はそれに返事を出さなかった。
袁術は侵攻ルート上の沛国各県については攻撃しつつも
(たとえば龍亢県)、陳珪自体は捨て置いていた。
主目的は陳国(劉寵)や譙県(郭貢)であった。
その後、陳珪の子を手に入れ、あらためて脅迫したのか。


これに関連してもう一つ考えることがあるとしたら、
それは沛南部都尉のことである。
呂布敗北後、曹操は袁渙を沛南部都尉に任命した。
もしこの沛南部都尉がもっと前から存在していたとしたら、
袁術がその領域を横断しても
陳珪には関係のないことだったのかも知れない。


この沛南部都尉は後に譙郡が建てられるとき、
その土台となったはずだ。
晋書によれば、譙郡は魏が設置した。
一方で曹操が設置したとも書かれ、
後漢末の設置なのか、魏代なのかは不明だ。
ただ、曹氏の故郷でもあるためか、
その版図はきわめて大きい。
西晋代では郡境は大きく修正された。
下記の地図は中国歴史地図集を参考にしたものである。


中国歴史地図集とてどれほど正確かは分からないが
今回は特に検証はしていないので
あくまでも参考程度である。
が、両郡が西晋代に東西に綺麗に並ぶのは興味深い。
豫州はこの地図に載せた以外にも
たくさんの河川が西北から東南に向かって走っている。
となれば、地理的結びつきはその河川に沿ったものであり、
沛郡と譙郡が東西に並ぶのは自然なことかも知れない。


つまり後漢末の沛南部都尉とは
西晋の譙郡のような形をしており、
袁術は北上する際にここだけ攻撃した。
であれば、沛本国(陳珪管轄)は無関係だったのかも知れない。


さて、まとめを書いて終わりとする。
(すべて推測を交えている)


袁術の195年の豫州侵攻時、陳珪が沛国相であったかは微妙
・沛南部都尉の設置状況もそれに関係する
袁術が陳珪の人質を取ったのは196年の徐州侵攻時か。
・陳珪の中子の陳應は下邳国淮浦県にいたか。
劉備の敗走により、袁術は淮浦県まで制圧した。
・陳珪は袁術の要請を拒絶したのは196年の秋頃。
・それは曹操が鎮東将軍ないし大将軍であった頃

應劭(応劭)は入朝したのか

後漢書には應奉伝がある。
應奉は汝南南頓の人で、150年代~160年代に
武陵蠻に反乱の平定に功績があった。
党錮の禁が起こると(166年)引退し、著作活動に専念した。


應奉の子が應劭である。
應奉伝に続いて應劭の事績が記述されているが、
記述量は父親よりも多い。


應劭は父親同様に博覧強記の人であり、
始めに車騎將軍の何苗の掾になったというが、
これは時期的に少し疑義がある。
何苗が車騎將軍となったのは時期的にもっと後であろう)
185年、韓遂らの反乱鎮圧に鮮卑を徴発しようという案があり、
應劭はそれに反対したようで、その議論が残っている。
そして朝廷は應劭の意見を採用した。
189年、泰山太守となり、191年には青徐黄巾の侵入を撃退した。
のちに領内で曹操の父が殺害される事件が起こると
曹操を恐れて袁紹にもとへと逃げた。
そのあと應劭は著作に励んだようで、それがために歴史に名を残した。


196年には律令を刪定して献帝に献上し、喜ばれた。
これが河東安邑県に滞在時のことか、
許都に移ったあとの時期のことかは判然としない。


197年には詔勅により「袁紹の軍謀校尉」に任命されたという。
袁紹は当時、大将軍になっていたが、
 大将軍に軍謀校尉という属官があったのか
 大将軍の軍謀掾の間違いなのかは分からない。
 大将軍の属官を詔勅で任命するのは不思議な気がするが、
 霊帝末年の「中軍校尉」「典軍校尉」のようなものなのだろうか。

この頃、「漢官儀」を著して、朝廷制度の整備に寄与したという。
また、「風俗通」など著述は136篇あり、後に鄴で死去した。


武帝紀注の世語には「後太祖定冀州,劭時已死。」と書かれる。
鄴陥落は204年8月だが、
冀州全域の平定は翌年1月の袁譚滅亡を指しているだろうか。
あるいはその少し後の張燕の降伏を指すだろうか。
普通に考えれば、鄴陥落の時にはすでに死んでいたということだろう。


では、袁紹のもとに逃亡してから、ずっと鄴にいたのだろうか。
というのも、朝廷に大きく貢献していながら
入朝することはなかったのと疑問を抱く。


中文Wikiには「應劭入朝制定典章。後卒於鄴縣。」と書かかれている。
應劭は「入朝」していた?
その論拠は何かあるのだろうか。
私も應劭入朝の痕跡を探していた時期がある。
しかし何も見つけられなかった。
著述に励み、朝廷の制度や儀礼の回復に寄与しながら
それでも入朝しなかったのは何故か。
袁紹が彼を手放さなかったのか。
あるいは、曹操への警戒心が解けなかったのか。
もっとも、弟の應珣は曹操に仕えたようで、司空掾となっている。
そして、應珣の子の應瑒は建安七子のひとりであり、
應瑒の弟の應璩も文人としての才能があり、
魏の高官を務め、252年まで生きた。


なんか名前からすると應珣、應瑒、應璩は兄弟なのではないか、
という気もしてくる。
兄:應劭、字は仲遠
弟:應珣、字は季瑜
弟子:應瑒、字は德璉
弟子:應璩、字は休璉


應珣の字は季瑜ではなく、季璉なのでは?
などとも考えたが、季=末っ子(あるいは四男?)なので、
應瑒らの兄という可能性はあるのかどうか。


余談を続けてしまうと、
魏代以降、子孫が栄えたのは應璩の家系であり、
應璩の孫の應詹は晋書に伝がある。
両晋交代期の人物である。
西晋が滅んだのも、東晋がそのスタートで躓いたのも
彼のような人物を重用できなかったからだと見ている。


本題に戻る。
應劭は入朝したのかどうか。
はっきりとしたことは言えないが、ヒントはある。
隋書には下記のような記述がある。


漢書一百一十五卷漢護軍班固撰,太山太守應劭集解。


後漢太山太守應劭集二卷


つまり隋書の書かれた唐初において、
應劭の最終的な肩書きは
太山太守(泰山太守)としか分からなかった、ということだ。
時期的に後となる「軍謀校尉」としなかったのは
軍謀校尉の官位が低いとみなされたのか、
軍謀校尉についてよく分からず無視したのか、
あるいは「太山太守」が死後の追贈官という事もあり得るのか。
もっとも後漢書では追贈官の記載はないが。


贈官という可能性を無視して考えると
應劭の著作が多く現存していた唐初においても
「太山太守」以上の肩書きは分からなかったということだ。


もし入朝していたら
入朝後の肩書きの痕跡が著作物に残る可能性もあるだろう。
それがないということは、やはり入朝せずに死亡したのかも知れない。


小ネタをダラダラと引っ張ってしまった。
次回は陳珪の予定。

陶謙配下の曹宏と曹豹(後漢末の避諱のつづき)

前回、後漢末の避諱について言及した。
そちらに簡単に追記もしたのだが、
補足事項がある。


前回のあと、色々なトピックについて考えつつも形にならず、
小ネタでも書こうかと、應劭(応劭)のことなど調べようとして
避諱関連の見落としに気づいた。


張昭伝の注には避諱に関する應劭と張昭の意見が載っている。
読み直して内容自体はすぐに思い出したが
本当なら、前回のときに触れておくべきだったろう。


内容を簡単にメモしておくなら、
應劭の「風俗通」は避諱の対象を拡大・維持すべきという主張のようで、
避諱の対象自体、56名いるというのである。
それに対して様々な意見があったとし(多くは異論であっただろうか)、
張昭もまた、どちらかと言えば「否」の立場で意見を述べている。
主君について尊重するのは当然としても、
「旧君」については序列があり、必ずしも一律の対応とならないこと、
古代においても同様であったことに触れている。


ここから分かるのは、避諱が完全にルール化されてはいなかったという点で、
たとえば後漢の7代皇帝の少帝(劉懿)が避諱の対象とならなかった原因は
少帝が夭逝し、「正式な皇帝扱いされなかったため」とは言えないかも知れない。
桓帝(劉志)の少しあとの時代に「戲志才」「閻志」がいても
それほど問題ではなかったのかも知れない。


では、霊帝(劉宏)の同時代に
曹宏を名乗ることは有り得たのだろうか。


三国志魏書の本文は陶謙に手厳しいのは既知のことだが
その主張のひとつとして、「曹宏のような讒慝小人を親任し」し、
一方で徐方名士の趙昱がうとまれた、というのがある。
が、前にも書いたと思うが、
陶謙は趙昱を徐州の別駕従事に、王朗を治中従事に起用している。
別駕は州の副官で、治中は事務方トップ、のような要職である。
そして陶謙長安政権に遣使して勤王の意を表すと、
趙昱は広陵太守、王朗は会稽太守に栄転した。
これを「遠ざけた」と解釈する見方には同意できない。


さて、曹宏はここにしか出てこない人物である。
曹宏が同時代の主君たる霊帝の諱を犯しているとなると
陶謙伝における陶謙の評価への信憑性だけでなく、
曹宏という人物の存在すら疑われてくる。


霊帝は在位168年~189年であり、
死後も皇統はその子に引き継がれた。
霊帝の末年に徐州が黄巾に荒らされ、
その対策にあたった陶謙は194年に死去する。
たとえば、霊帝の同時代に「曹宏」を名乗ることも、
霊帝の死後まもなく「曹宏」を名乗り始めることも違和感があるが、
應劭や張昭の論説から分かるとおり、避諱がルール化されていないのなら
この違和感自体が無用なものなのだろうか。


私には結論は出せないので
この違和感が正しいものとして話を進める。
つまり、この時代に「曹宏」が有り得ないのであれば
この陶謙伝の一文は陶謙を貶めるために
後代にゼロから作成されたものなのか。
あるいは、「曹宏」に該当する人物自体はおり、
転写するうちに「曹宏」に書き換えられてしまったのか。


もし「曹宏」に該当する人物がいるなら
それは曹豹だったりはしないのか。


曹豹は陶謙、ついで劉備に仕えた人物で
正史での記述はわずかだが
まぁ三国志ファンにとっては「有名人」である。


正史に限定して話を続けていくと、
陶謙時代には将軍として名が出てきており、
曹操の徐州侵攻に対する防衛を行っている(が、敗北する)。
その後、劉備に仕えたようだが、
呂布による徐州乗っ取り時の主要人物となる。
呂布伝注の英雄記によれば、
当時、曹豹は下邳相であり、張飛により殺害された。


先主伝では曹豹は「下邳守將」と書かれ、
先主伝注の英雄記では「陶謙故將曹豹在下邳」とあり、
下邳相とは書かれていない。
また、張飛に殺されたとも書かれない。


まず、曹豹が下邳相であったなら、劉備に重用されたということだ。
「下邳守將」であった場合は、そこは微妙なところだ。
ただし私は劉備に全幅の信頼を置いているので
劉備が重用したのであれば曹豹は小人ではあるまい、と判断する。


また、正史での曹豹は軍人のイメージが強く、
陶謙が黄巾平定のために連れてきた、
丹陽兵を統率する丹陽人という推測は容易にできる。
だが、もし「下邳相」というのが正しく、
または曹豹=曹宏であり、趙昱と比較される立場であったのならば
徐州の要人であった可能性も俄然高まってくる。


妄想をもうひとつ。
後漢書には曹褒伝がある。
曹仁の祖父が曹褒だが、それとは別人である。


曹褒は後漢中期の儒者で、没年は102年。
出身は魯国薛県である。
以前の記事でも触れたが、
東海王国は魯国も有し、東海王の治所は魯国にあった。
その関係性から、陶謙は魯国を勢力圏に置いていたと推測するが、
であれば、陶謙に仕えた曹氏は、魯国薛県の人なのかも知れない。


以上は書くまでもない妄想まじりの論であるが
書かずにいても居心地が悪いので
このような小ネタも解放していきたい。
次回も小ネタで、応劭の予定。

 

(※★追記。下邳の反乱においては、曹豹が殺害されたあと、丹陽人の許耽が呂布軍を迎え入れるという流れがある。許耽が劉備張飛)を裏切ったのは、曹豹の死に反発したからで、両者ともに丹陽人である、という可能性もふと思ったので追記しておく。)

 

戲志才のこと、後漢末の「避諱」のこと

曹操軍団初期の謀臣・戲志才(戯志才)。
三国志に残る記述は3か所に過ぎない。
荀彧伝本文、荀彧伝注の「荀彧別伝」、郭嘉伝本文である。


荀彧伝本文:
天子拜太祖大將軍,進彧為漢侍中,守尚書令。
常居中持重,太祖雖征伐在外,軍國事皆與彧籌焉。
太祖問彧:「誰能代卿為我謀者?」彧言「荀攸鍾繇」。
先是,彧言策謀士,進戲志才 。 志才卒,又進郭嘉


荀彧伝注の「荀彧別伝」:
前後所舉者,命世大才,邦邑則荀攸鍾繇陳羣,海內則司馬宣王,
及引致當世知名郗慮、華歆、王朗、荀悅、杜襲、辛毗、趙儼之儔,終為卿相,以十數人。
取士不以一揆,戲志才、郭嘉等有負俗之譏,
杜畿簡傲少文,皆以智策舉之,終各顯名。


郭嘉伝本文:
先是時,潁川戲志才 ,籌畫士也,太祖甚器之。早卒。
太祖與荀彧書曰:「自志才亡後,莫可與計事者。
汝、潁固多奇士,誰可以繼之?」彧薦嘉。


(荀彧伝本文の意訳)
曹操が天子を許都に迎えると、荀彧は侍中,守尚書令となった。
(荀彧が手元から離れたので)曹操は代役を求めると
荀彧は「荀攸鍾繇」を推薦した。
これ以前、荀彧は策謀の人として戲志才を推薦していた。
戲志才が死去すると、こんどは郭嘉を推薦した。


(荀彧伝注の「荀彧別伝」の意訳)
荀彧が推薦した人物は多くが大出世したが
荀彧の推薦基準はひとつではなく、
「負俗の譏り」のあった戲志才、郭嘉のような人物もいた。


郭嘉伝本文の意訳)
潁川の戲志才は計略家で曹操に重宝されたが、早くなくなった。
曹操が荀彧に手紙を送って尋ねた。
「戲志才が亡くなってから計略の相談を出来る者がいない。
汝、潁の地は人材が多いが、誰が戲志才のあとを継げるか」
荀彧は郭嘉を推薦した。


まず、戲志才が曹操陣営に加わった時期を考える。


初平二年(191年)、荀彧は袁紹に見切りをつけ曹操に帰参した。
曹操が東郡太守であった時のことだというが
それならば191年であっても秋以降のことと思われる。
これ以降に荀彧が戲志才を推挙したことになろう。


ここから絞り込むのは難しそうだが、ヒントはないことはない。
194年夏、曹操が2度目の徐州征伐に赴く際、
荀彧と程昱が留守役となり、鄄城を守った。
陳宮兗州に残っており、反乱を起こすことになる。
当時の曹操陣営の智者といえば、まずこの3名になる。


彼ら全員が兗州に残っていたのなら
別の参謀が従軍して曹操に助言を続けていたはずだ。
おそらくそれが戲志才なのだろう。
もちろん、登用していきなり討伐軍の参謀トップに据えることはあるまい。
193年秋の一度目の徐州征伐にも貢献していただろう。


191年末の荀彧の帰参からほどなく、
192年、193年のうちに戲志才も曹操に仕官していたことだろう。
192年冬の青州黄巾との戦いで活躍していた可能性もある。


では戲志才の死亡時期はいつか。
戲志才が死ぬと、曹操がその後任候補を荀彧に請うた。
しかも手紙で尋ねた。
つまり荀彧が曹操から離れていた時だった。
おそらく、荀彧が朝廷高官になった時の話、
つまり196年の冬以降だ。
そして推薦された郭嘉はおそらく197年の中頃に帰参した。


こう考えていくと気になるのは
197年1月の、張繡の反乱による敗北である。
この時、曹昂、曹安民、典韋が戦死した。
もしかして、戲志才もこの時に戦死した可能性はないだろうか。


時期的には矛盾はない。
ただし、この敗戦は各書に記述があるが
戲志才の名前は出てこないから
単に死亡時期が近いだけで、戦死はしていないかも知れない。


もちろん、別の可能性もある。
戲志才はもっと前に死亡していたが、
曹操が戲志才の後任を要望したのが197年だった、
つまりタイムラグがあった可能性である。
もしタイムラグがあったのなら
その間、誰が曹操の「計略の相談相手」であったのか。


196年冬に荀彧が朝廷に入った時、
曹操はその後任を要望し、荀彧は荀攸鍾繇を推薦した。
荀攸は遠方にあり、到着は197年後半以降と推測する。
鍾繇はこの頃、御史中丞または侍中/尚書僕射であった。
荀彧の推薦を受けて、尚書僕射となったのか。
あるいは尚書僕射から司隷校尉に異動になったのか。
いずれにしても、国家戦略を相談するパートナーと言うべき地位であり、
曹操荊州進出に従軍するような身分ではない(可能性はゼロではないが)。
程昱は東中郎將,都督兗州事として兗州をまとめていた。
董昭は曹操と関係を深めつつあったが、まだ符節令として朝廷にいた。


であれば、197年1月の荊州侵攻に従軍する「軍師」は
戲志才をおいて他にいないのではないか。
つまり197年前半まで、ずっと戲志才が曹操の「相棒」だった。
戲志才は張繡の反乱で戦死しなかったが
ほどなく亡くなり、後任として荀彧は郭嘉を推挙した。
これが197年中頃だった。
そういう想像は成り立ちそうに思える。


曹操陣営は多士済々のイメージがあるが、
人材が結集し始めるのは献帝奉戴後である。
郭嘉荀攸が帰参したのは197年中頃以降である。
戲志才は「早くに亡くなった」という言葉に引っ張られがちだが
192年頃~197年初頭まで、
それなりの期間に渡って曹操を支えたのかも知れない。


さて、本題。
それは戲志才の名前のことである。
戲姓というのは現在でも存在するらしい。
よって、戲=姓、志才=字(あざな)と前提して、では名は何なのかを考える。


「避諱」というのは、貴人や自分の祖先の名の使用を避けるというものだ。
戲志才の名が記されないのは、まず「避諱」のためであろう。


戲志才の名と、史家の親族の名が共通していたため、避けられたのか。
たとえば陳寿の親族の名と共通していた。
しかし、裴松之のつけた注「荀彧別伝」でも名が消されている。
おそらく史家の線ではあるまい。


では時の皇帝か。
後漢や、魏、晋、
あるいはもっと後の時代、たとえば唐の皇帝と同名だったのか。
どの時期だろうか。


裴松之の注がヒントになるかも知れない。
その注で戲志才の姓名を紹介していない。
裴松之の時代には、もう名前は調べようがなかったのではないか。


逆にその頃に「戲某」と書かれており、
裴松之よりあとの時代に書き換えられたケースはあるのか。
その場合は、逆にあざなが残っていなかったはずだ。
なぜって、わずかな記述しか残っていない人物なのだから。
戲某 → 戲志才とするような書き換えは出来ず、
戲某 → 戲〇へと書き換えしたはずだ。


では裴松之の時代以前、
たとえば晋の皇帝と同名だったのか。
確かに三国志の成立は西晋の時代であり、
晋の皇帝の名が一番センシティブである。
が、三国志の史料は晋代以前のものが多くあり、
裴松之はそれを多く採用している。
三国志本文では「戲志才」と記載していても
陳寿が参考にした前時代の史料から
戲志才の名を引っ張ってくることが出来る。
それがないのだから、
裴松之の時代、西晋の時代どころか、
魏代においても名前が消えつつあった可能性がある。


戲志才は三国時代の到来より20年も前に死去している。
では、後漢の皇帝と同名だったのだろうか。
しかしこれは同時代人であるので
さすがに不便すぎて戲志才は別名を持ったのではないか。
そして別名で史書に残ったはずではないか。
そうならなかったのだから、
「戲宏(霊帝の諱)」や「戲協(献帝の諱)」ではなかったのだろう。


そう考えていくと、魏の皇帝と同名だった可能性が一番高いのではないかと思うのだ。
つまり、「戲丕」、「戲叡」あたりだったのではあるまいか。
あるいは「戲操」の可能性はあるのだろうか。
名はあざなと連関するらしいので
「志操」という言葉があることを考えると、
「姓は戲、名は操、あざなは志才」というのは有り得そうな気もする。
ただ曹操に仕えているので、早くに別名を持つのではないかと思うが、
そういうケースでは実際にどういうことが起こるのか、私は調べられていない。


以上のような想像は何度もしたことがあったが
このレベルの想像にとどまっているなら、
とても記事にする気は起きなかった。
だが、前回の「萇奴」を考えた際に新たな気付きがあった。


つまり、戲志才という名が史書に残ったが、
後漢桓帝の名は「志」である、ということだ。
これはどう考えたらいいのかという問題だ。


桓帝は168年に死亡している。
曹操は155年生まれ、荀彧は163年生まれ、郭嘉は170年生まれ。
彼らより先輩の程昱は141年生まれだが、
仮に戲志才が荀彧と同世代だとした時、
生まれてほどなくして桓帝崩御している。
志才というあざなをつける前であろう。
これは何を意味するのか。


たとえば、本当は「戲叡才」であったが、
魏の明帝の名を避けるために、史書が書き換えられた、
つまり、「志才」というのも正しくない、という可能性はゼロではない。


だが、一方で、漢末魏初には「閻志」なる人物もいるのである。
閻志が史書に登場するのは220年代だが、彼は閻柔の弟である。
閻柔は後漢末に幽州で勢力を持った人物で、曹操に帰伏した。
曹操は閻柔を見ること我が子のごとくだったというが、
閻柔は193年頃から活躍しており、
曹丕(187年生まれ)より15歳以上は年上に思えるが、どうだろうか。
仮に閻志が曹丕と同世代だとしても、後漢末には成人している。
その時は別の名を名乗り、魏代になって「閻志」に改名したのだろうか。


あらゆる可能性が考えられる。
が、後漢末に「志」を名乗っていた可能性を考えてみる。
つまり、桓帝の「志」は避諱の対象ではなかったのではないか。


というのも、霊帝桓帝のいとこの劉萇の子である。
傍系が本家を継いだのだ(もっとも、桓帝だってもともと傍系である)。


前回、明帝の禁令について触れた。
傍系から皇帝が立って本家を継ぐ際、実父について「皇」の位を贈るのをやめよ、と。
原文にはこういう表現も残っている。
「妄建非正之號以干正統」
(みだりに非正の號を建てて、正統を干犯し、)


その禁令が出されたのは、それが後漢代に横行していたからだ。
つまり、霊帝桓帝を継ぐと、
実父(劉萇)と祖父(劉淑)に「皇」を贈り、正統を干犯した。
乱暴に言い換えると「皇統がすり替わった」。


桓帝霊帝の血筋は下記である。

章帝(劉炟)- 孝穆皇(劉開) - 孝崇皇(劉翼) - 桓帝(劉志)
章帝(劉炟)- 孝穆皇(劉開) - 孝元皇(劉淑) - 孝仁皇(劉萇) - 霊帝 - 献帝


ここで目を引くのは桓帝の父、劉翼である。
後漢末~蜀漢の有名人に張翼がいる。
ここから次のことが解釈できる。
皇帝でない「皇」は避諱の対象ではなかったか(ただし皇帝は常に避諱の対象)、
または、霊帝即位後、桓帝桓帝父は避諱の対象から外れたか、である。
前者の場合、つまり桓帝は引き続き避諱の対象であったのなら、
「戲志才」「閻志」は何かの間違いとうことだ。


もう少し考える。
後漢の7代皇帝の少帝(劉懿)のことである。
中文Wikiには「在位半年て夭逝したため、朝廷から正統な皇帝として数えられなかった」とある。
日本語Wikiにはそれに加えて「そのため避諱の対象にならなかった」とし、
司馬懿呉懿を例にあげている。


この記述は、何かの研究に基づいているのか、
Wiki編集者の個人的意見が書かれているのかよく分からない。
確かに、司馬懿という名前は「懿」が避諱でない証左だが、
それは少帝固有の問題なのかどうか。


たとえば、5代の殤帝(劉隆)がいる。
こちらも夭逝だが、後漢書には殤帝紀があり、
死亡時には「帝崩」と書かれる。
少帝の劉懿は安帝紀の末尾に付記されて
独立の紀は存在せず、
死亡時にも「少帝薨」と書かれ、皇帝専用の「崩」の字は使われない。
だが、その殤帝の同名の高堂隆を我々は知っている。


少帝と似た存在に、献帝の兄である弘農王の劉辯がいる。
劉辯は皇帝に即位したが、まもなく廃立され、殺害された。
劉辯も独立した紀はなく、死亡時は「董卓殺弘農王」である。


その弘農王について、儒者の董遇が曹操にこう語っている。


「春秋之義,國君即位未踰年而卒,未成為君」
(春秋の義では、君主が即位して年を越えずに死去したならば、君主の扱いとなりません)


殤帝の在位期間は10か月ほどだが、年は越している。
そうした違いはあるかも知れない。
つまり殤帝が正当な皇帝扱いをされた可能性はありそうだが
それでも避諱の対象となっていないのである。


それは何故なのか。
年代を経るうちに、避諱の対象から外れたか(この可能性はありそう)。
それとも、傍系が「正統を干犯」したために、
それまでの「正統」が避諱の対象から外れたか。


後者の場合。
後漢末においては桓帝桓帝父は避諱の対象外であった、となる。
また、少帝、殤帝にとどまらず、他にも対象外の皇帝がいたかも知れない。
霊帝献帝の血筋だけが避諱の対象であったのかも知れない。
そうであれば、萇奴の名が史書に残ったことの違和感がますます大きくなる。
霊帝献帝は第3代章帝の子孫である。
第4代の和帝から桓帝にいたる皇帝はすべて避諱の対象外だったのかも知れない。
あるいは、在位期間やその治世の内容により、区別がつけられたか。


※黃初年間(220-226)、魏の校事に劉肇という人物がいた。
後漢末に成人していた可能性があるが、第4代和帝(劉肇)と同名である。


(★※追記。應劭について調べていたら、張昭伝注に諱についての應劭と張昭の意見とが出てきた。記憶の片隅にあったが、この記事を書くにあたって探すことを怠っていたのだ。本稿を書き直すことはやめておくが、今後、諱について書くときはそれらの議論は踏まえておきたい)


以上は素人の思い付きであって
なにか確定的なものを提示するレベルではない。
避諱の研究など各所でされているだろうから
そちらを調べるのが本筋であり、誠実な態度であろう。
だが、自分用の考察の素材とはなりそうなので、ここに書き残しておく。


今日のまとめ
・戲志才が曹操に仕えたのは192年~197年前半頃か。
・戲志才は魏の皇帝と同名だったのでは?
・戲志才の「志」は桓帝の諱である
後漢末に桓帝は「避諱」の対象でなかった可能性あり
・閻柔の弟の閻志もその傍証となるか
・殤帝も後漢末に「避諱」の対象でなかった可能性あり
・そうした避諱のぶれの原因は、傍系が本家を継ぎ、
実父に「皇」を贈って、正統を干犯したためではないのか
(実父の系統の方が代わりに避諱の対象となっていったのでは?)

董承と萇奴が曹洪軍を阻んだ、とは?

195年、呂布を破り兗州を平定した曹操
年末に豫州の陳国へと転進。
袁術が置いた陳相の袁嗣を降伏させた(196年1月)。


195年の時点で陳王国は滅んでいた(197年ではなく)、
というのが前回の記事での推測である。


このあとの曹操の動向である。


三国志魏書武帝紀:
建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降。
太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,
衞將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進。
汝南、潁川黃巾何儀、劉辟、黃邵、何曼等,眾各數萬,初應袁術,又附孫堅
二月,太祖進軍討破之,斬辟、邵等,儀及其眾皆降。天子拜太祖建德將軍,
夏六月,遷鎮東將軍,封費亭侯。
秋七月,楊奉、韓暹以天子還洛陽,奉別屯梁。太祖遂至洛陽,衞京都,暹遁走。


・1月、袁嗣を降伏させる。
・天子を迎えに曹洪を送るが、董承と萇奴に妨害される。
・2月、汝南、潁川黃巾を討伐。
・7月、天子が洛陽に帰還する。曹操が洛陽に至る。


このあと、献帝が許に入るのは8月である。
ここでの最大の疑問が下記である。


「衞將軍の董承と袁術配下の將の萇奴が険阻な地を盾にして曹洪の進軍を阻んだ」


この一文にはいくつもの謎が混在している


・なぜ董承は曹洪を拒絶したのか
・険阻な地とはどこか
・董承と袁術は協力関係にあったのか
・萇奴とはいったい何者なのか


私の関心は萇奴であるが、
董承についても考えねばいけない。


ここで地図を置いておく。




まず豫州の情勢である。
袁術は陳国まで侵攻していたが
揚州から陳国へは2つの河川が通じている。
汝陰、項を通る潁水と、山桑、譙を通る濄水である。
その流域は袁術が抑えていたはずだ。


そこから西に外れた土地には
許褚と李通がいた。(許褚については推測)
また、豫州の東部であるが、
魯国は徐州の東海王国の封土でもあったので
劉備が抑えていた可能性は高い。
沛県(=小沛)は当然、劉備支配下にあり、
その南方は相県あたりまで支配していたのではないか(推測)。


では梁国はどうだったのか。
後漢末において、まったく存在感のない梁国。


陳国については袁術の軍糧要請を拒絶し、
王と国相が暗殺されたという経緯がある。
これは後漢書資治通鑑では197年のこととしているが、
195年が正しいのではないかというのが私の推測だ。
これから考えると、梁王国もやはり軍糧を要請されたのではないか。
そして要請を受け入れることで、攻撃を忌避できたのではないか。
つまり、表向きは「親・袁術」の立場を取ることで
領内の平穏は保たれていたのかも知れない。
史書に登場しないというのは、
どの戦闘にも巻き込まれなかったのかも知れない。


次に曹操軍を考える。
194年夏に兗州で反乱が起こり、
195年秋にやっと呂布を追い出した。
雍丘に籠城した張超を破り、
兗州反乱が終了したのが195年12月。


この間、注意すべきなのが曹洪の動向である。


曹洪伝:
太祖征徐州,張邈舉兗州叛迎呂布
時大饑荒,洪將兵在前,先據東平、范,聚粮穀以繼軍。
太祖討邈、布於濮陽,布破走,
遂據東阿,轉擊濟陰、山陽、中牟、陽武、京、密十餘縣,皆拔之。
以前後功拜鷹揚校尉,遷揚武中郎將。


曹操が濮陽で呂布を破ったあと
曹洪は)転戦して十余県を陥した、という。
その功績により、鷹揚校尉に任命された。


まず、十余県を陥した主語は不明なのだが
ちくま訳では括弧をつけて曹洪であると補っている。
前後の文脈を考えればそれは正しいのかも知れない。
もっとも、初期の曹操陣営の幹部である曹洪
いまさら校尉に任命される?などの疑問もある。
曹操兗州刺史になった頃に校尉となり、
兗州反乱を制圧した際に中郎將になったのではないか、
つまり曹洪伝の記事が前後したのではないか(よくある)。
そう思うのだが、今回の主題でないので無視する。


問題は、曹洪が陥した十余県である。
ここには、州外の県が含まれている。
河南尹の東部の「中牟、陽武、京、密」の4県である。
この4県を結んだ四方の内側には他県は存在しない。
つまり河南尹に関してはこの4県だけ制圧した可能性もあるし、
他の諸県が「十余県」に含まれる可能性もある。


では、なぜ攻撃したのか。
呂布勢力を支援していた県だったのか。
呂布軍の退路を断つだめ、兗州西境を制圧する必要があったのか。
呂布と親しい張楊に対する牽制の意味があったのか。
答えは出ない。


そもそも、兗州平定後、曹操は天子を迎えるために
曹洪を西方に派遣したのだから
「中牟、陽武、京、密」を制圧したのはこの時の話なのかも知れない。
曹洪伝の記事が不正確に圧縮されている可能性もゼロではない。


というのも、この4県にほど近いのが新鄭県である。
この頃、新鄭県長だったのが楊沛であり、
曹操が天子を迎えにいく際に新鄭県を通った逸話がある。
河南の東部に曹操軍が進出するのは
やはり196年に入ってからだったのではないかという疑念が残る。


一方の、献帝の動きも見ねばならない。
長安の李傕・郭汜の政権は内紛を繰り返した挙句、
献帝の奪い合いが内紛の原因と考えたのか、
献帝を東方に送り返すという決断をくだす。
それだけでも奇妙なことだが、
あとでそれを後悔して、東遷する献帝を追撃することになる。
何ともちぐはぐな判断である。
もし李傕が献帝を手元においていたなら
東方諸侯の運命も大きく変わったことだろう。
曹操献帝を奉戴することもなく、
三国時代の到来はなかったかも知れない。


さて、献帝は195年の7月甲子の日に長安を出立する。
調べてみるとこの7月には甲子の日はないように思われ、
6月末の甲子の日の間違いのような気もするが
暦の問題に手を出すのはやめておく。
そのあと、献帝は、李傕軍の追撃を受け、
大きなところでは4回の戦闘があり、
1回目と3回目では勝利、2回目と4回目で大敗北を喫している。
やっと落ち着けたのは12月に河東郡の安邑県に入ってからだ。
このあと、196年の6月まで献帝は安邑県に留まっている。
半年もの期間である。
今までこの事に気づいていなかったが
これは考察すべき事かも知れない。


さて、河東で献帝と共にあった勢力を確認しておく。
まず、献帝の東遷の主人公として、董承と楊奉がいる。
霊帝の母、つまり献帝の祖母が董氏であるが、
董承はその一族とされる。
董卓の一族とする説もあるが、これは今回は無視する。
楊奉はもとは河東の白波賊であるが、
李傕に仕えたあとこれに離反し、献帝の東遷に従った。


献帝が華陰から陝へと進む最中に味方に引き入れたのが
白波賊と匈奴である。
匈奴は右賢王(左賢王という説も)の去卑が援軍となった。
この195年、正確な時期は不明だが、
匈奴単于於夫羅が死去し、弟の呼廚泉が継ぐ事態となる。
その匈奴の本拠地は河東の北部の平陽のあたりだったようだが
匈奴全体が献帝を支援していたのか
右賢王の去卑だけが支援していたのかはよく分からない。


白波賊はいいとして、河東太守の王邑に触れねばならない。
後漢書董卓伝によれば、献帝が安邑県に至ったとき、
王邑は「奉獻綿帛」し、列侯に封じられた。
おそらくこの時に鎮北将軍に任命された。
王邑は北地郡涇陽県の人で、
たとえば李傕は北地郡「泥陽」県の人であり、
両者がどのような関係であったかは不明だが
おそらく董卓~李傕政権により任命された太守だろうか。
王邑は206年まで河東太守を務めた。


王邑が長らく河東にあって、
白波賊や匈奴とどう折り合いをつけていたのか
これはいつか考察せねばならない。


また、協力者としては河内太守の張楊がいる。
献帝黄河を渡り、安邑に至る前、
張楊が数千人を派遣して糧米を届けている。


つまりこの「安邑政権」を支えたのは


①董承および朝臣
②もと白波賊の楊奉
③白波賊の李樂、韓暹、胡才
匈奴右賢王の去卑
⑤河東太守の王邑
⑥河内太守の張楊


の6つの勢力である。


この政権は6か月に渡り成立したが
その序盤にひとつの内紛が起きている。


後漢書献帝紀によれば
196年2月に韓暹が董承を攻撃したという。
その顛末は不明。
だが、資治通鑑によれば
董承は野王県に逃げたという。
張楊の根拠地である。


さて、ここから本題である。
以上の情勢を踏まえて、もう一度下記の記述と謎を考える。


「衞將軍の董承と袁術配下の將の萇奴が険阻な地を盾にして曹洪の進軍を阻んだ」

・なぜ董承は曹洪を拒絶したのか
・険阻な地とはどこか
・董承と袁術配下は協力関係にあったのか
・萇奴とはいったい何者なのか


この4つの謎にとどまらない、更なる謎が噴出している。


武帝紀によれば、1月に陳国を攻撃し、
2月に黄巾賊を攻撃。
曹洪の派遣はその間に記述されている。
しかしその頃、献帝は安邑におり、
諸勢力に取り囲まれている状況である。
「貢献」のために曹洪を派遣したなら分かるが、
「天子を迎える」ために曹洪を派遣というのは
あまりにも警戒心がなさすぎであろう。


では「天子を迎える」という表現は史家の潤色だとして
単に天子へのご機嫌伺いの使者だったということだろうか。
そしてそれを董承に妨害されたということか。
もしそうなら、それは董承が安邑から逃走したあとのことであろう。
董承がかなり東方に移動していて、
曹洪の進路とバッティングしたということだ。
それは野王県なのか。
しかしそこが険阻な地とは思えないし、
また、野王を通過するのであれば、
それを許可するか否かは張楊の判断になるはずだ。


あるいは、董承が張楊に合流する前、
一時的に汜水関あたりに駐留していた時期もあるのか。
そしてそこで曹洪を阻んだのか。


董承の動向についてはもう少し考える必要がある。


後漢書の趙岐伝によれば
献帝が洛陽帰還を計画したのは興平元年(194年)のことで、
董承を派遣して宮室を修理させたという。
このとき趙岐は劉表への使者となり、洛陽復旧の援助をさせた。


だが通鑑では時期が違う。
興平元年ではなく、建安元年(196年)、
董承が張楊のもとへ逃げたあとの話となっている。
張楊が董承を送って洛陽を復旧させたという。
そして趙岐は劉表を説得して、それの援助をさせた。


この通鑑の解釈を信じると、話に整合性が出てくる面もある。
つまり、董承は一定の期間、単独で洛陽に駐屯していた。
それは3月とか4月のことであろうが、
その頃に曹洪が西へ「ご挨拶」に伺ったのであれば、
予期せぬ軍隊の接近に対し、
董承がそれを「阻んだ」ということは発生し得よう。


ただし。
献帝が7月に洛陽に入った頃も、とても復興したとは言えない状況だった。
これは三国志董卓伝にくわしく書かれており
ほぼ同内容のことが後漢書献帝紀や通鑑にも踏襲されている。


三国志董卓伝:
天子入洛陽,宮室燒盡,街陌荒蕪,百官披荊棘,依丘牆閒。
州郡各擁兵自衞,莫有至者。
飢窮稍甚,尚書郎以下,自出樵采,或飢死牆壁閒。


董承が数か月前に洛陽に入り、劉表の援助で復興作業していたとは
とても思えない状況である。


本当に建安元年に董承は洛陽の復興をしていたのか。
実は趙岐伝が正しく、194年に一時的に復興作業していて、
その作業は途中で頓挫して
その後ふたたび洛陽は荒廃したということではないのか。


行き詰ったところで三国志集解を見る。
そこでは通鑑考異を引いている。
通鑑考異いわく、「武帝紀では1月に天子を迎えに曹洪を送ったとあるが、
荀彧伝ではそれは許都平定後の話である。荀彧伝に従う」。


もともと武帝紀の話では、曹操が天子を迎えようとした際、
それに賛成しない者もいたが、荀彧と程昱がこれを勧めた、という。


荀彧伝を見てみる。


荀彧伝:
建安元年,太祖擊破黃巾。漢獻帝自河東還洛陽。
太祖議奉迎都許,或以山東未平,
韓暹、楊奉新將天子到洛陽,北連張楊,未可卒制。


こちらでは黄巾平定後、
さらには献帝の洛陽帰還後の話となっている。
確かに「疑念を持つ者がいる中、荀彧は勧めた」
という点は共通しているが、
通鑑考異が2つの記事の差異を時期だけと見なしているのは
間違いである。


荀彧伝には、曹洪を派遣し
董承に阻まれたという情報は無い。


では、それは単に記述漏れという可能性はあるのか。
7月に献帝が洛陽に戻り、曹操曹洪を派遣するが
董承は一時的にそれを阻んだ。
そのあと使者は通じ、献帝は許都へ遷った。
そういう可能性はあるのか。


まず、短期間にそんな目まぐるしい展開があり得るか。
これだけでも無理があると言えるが、
もう一つは「袁術の将軍の萇奴」のことである。


やっと「萇奴」まで辿り着けた。


曹操は1月に陳国を制圧し、
2月に潁川・汝南の黄巾を破った。
なんらかの理由で河南に袁術配下の「萇奴」がいたとして
その後7月まで自立できていたというのか。
そして董承と連合したというのか。
とても信じられないが、まずは袁術軍のことを考えよう。


曹操呂布と1年以上に渡って兗州で争っていた頃、
どうやら袁術豫州に侵出していた。
しかし小沛を抑えていたのは劉備である。
劉備はもう少し南方まで抑えていたかも知れない。


そして汝南の西南端については李通が独立している。
私の推測では「許褚の砦」は汝南の中央部にあった。


汝南西北部と潁川には黄巾賊が勢力を張っていた。
この黄巾について武帝紀では「初應袁術,又附孫堅」と、
通鑑では「擁眾附袁術」とだけ書く。


この孫堅のところは色々と混乱を生むが
親・袁術であったことは間違いない。


では、袁術はその「親・袁術」の潁川郡を通って、
洛陽付近にも進出しており、それが「萇奴」だったのだろうか。


その場合、「親・袁術」とはいえ他勢力の領土を越えた「飛び地」となる。
そもそも袁術豫州の支配領域が縦に細長いのも違和感があるが
さらに「飛び地」となってまで北方に支配地を欲した理由は何なのか。


大義名分なく豫州に進出している以上は、
まず豫州全域の支配を目指す方が自然であろう。
つまり汝南の南部の制圧は当然であろうし、
東北部を有する劉備との対決もあっておかしくない。
そもそも、これ以前に袁術は徐州侵攻を考えて
廬江太守の陸康に軍糧を要求したという経緯もある。
そして実際に196年に徐州に侵攻する。
河南まで突出するのは戦略リソースの無駄遣いではないのか。


195年冬、献帝が曹陽亭の地で李傕に敗北した際に
袁術は漢の命運が尽きていると思い、
皇帝を自称する考えを群下に示す。
この時は主簿の閻象に反対され
実際に皇帝となるのは197年だが
おそらく袁術の野望はずっと変わらなかったはずだ。
つまり朝廷には見切りをつけていた。


であれば、洛陽付近に配下を残して
朝廷工作をするような計画があったとは思えない。


では袁術の河南進出は絶対になかったのかと言われれば
もちろんそうだとは言えない。
何らかの意図があり進出した可能性もあれば
「あるじ不在の土地だから進出しておこう」と
安易な判断をした可能性もある。


しかし単純に誤記の可能性もある。
この頃、董承は張楊と協力関係にあったわけで
袁術將萇奴」が「張楊將萇奴」であれば
もっと自然に感じられるだろう。
劉表將萇奴」であれば、
この頃、董承と劉表が洛陽を復興していたという証左になり得る。


そして最後の議題である。
それは「萇奴」とは誰かという問題だ。
袁術の配下が河南にいたということへの違和感の他に
萇奴なる者が本当に実在したかという疑念だ。
まずこれは人名として成立するのか。
その違和感がある。


まず名前の「奴」だが、
臧霸の一名が「奴寇」、吳敦は「黯奴」という例がある。
もっともこれは本名ではない。
が、本名としてなら、武帝紀の205年の記事に出てくる。


>故安趙犢、霍奴等殺幽州刺史、涿郡太守。


霍奴なる人物がいたことになり、「奴」という名前は成立するのかも知れない。


一方で、「萇」である。
これも見慣れないためにかなり怪しんでいたが
どうやら萇姓は存在する。
周の時代に萇弘なる者がおり、出身地は蜀。
この萇弘は西南夷だとする説もあるようである。


しかし萇姓は存在するとして、ひとつ微妙な問題がある。


それは献帝の祖父、つまり霊帝の父の解犢亭侯の劉萇である。
劉萇はどうやら早くに亡くなり、
霊帝はまず解犢亭侯を継ぎ、後に皇帝に即位したが、
劉萇は「孝仁皇」の尊号を追って送られた。


後漢の時代は傍系から皇帝が立つたび、
その実父に対して尊号が送られた。
一方、魏では明帝がこれを廃止した。
本来の礼においては、傍系が本家を継ぐ場合、
当然本家を奉ずるべきであり、
亡父に「皇」の位を送れと進言する臣下があれば、その者を殺せ。
とまで明帝は言っている。


さて、霊帝に話を戻すと、祖父の劉淑にも「孝元皇」を贈っている。
その曾祖父の河間王の劉開は桓帝の祖父でもあり、
桓帝が「孝崇皇」を送っている。
劉開の父は後漢第3代皇帝の章帝である。

つまり、献帝の血筋はこうである。
章帝(劉炟)- 孝穆皇(劉開) - 孝元皇(劉淑) - 孝仁皇(劉萇) - 霊帝 - 献帝

霊帝の父であり、献帝の祖父である孝仁皇の劉萇。
この「萇」の字は避諱の対象であったのは間違いない。
賀斉の祖父の慶純は安帝に仕え、
安帝の父(劉慶)の名を避けて賀姓に変えたという話がある。
この時期、萇姓の人々が改姓したとは思わないが、
史書に残す際には必ず変更されたはずだ。
もちろん三国志の執筆は後漢終焉後だが、
元ネタは後漢時代に書かれたもののはずである。
著名人ならばその後に再修正されて
本名に戻されただろうが
一度しか出てこない萇奴のようなマイナーな人物について
それほど手厚い対応が可能だったかどうか。


こう考えていくと、
他に出てこない「萇奴」なる名称が史書に生き残ったことが奇跡である。
「萇奴」を含む一文が他の謎を含むことを考えると
この一文自体の信憑性が低いと言わざるを得ない。

(★※追記。「萇奴」って、「匈奴」の誤記ではないかとㇷと考えた。
もっとも、その場合も簡単には意味が通じないが、
検討すべき内容がある気がする。)

さて、まとめるような内容もないのであるが、
ポイントとなる箇所だけ箇条書きにして終わりにする。

呂布との対決中に曹洪が河南尹の東部を制圧していた記述あり
・ただし時期的に呂布追放後、献帝奉戴前夜の可能性あり
献帝奉戴のため曹洪が派遣されたという
・が、献帝の安邑滞在時に派遣されたというのは疑問
・距離の問題もあるし、献帝を囲む諸勢力の問題もある

曹洪軍を、董承と萇奴(袁術配下)が阻んだという
・董承は野王か洛陽にいた可能性がある
・野王は張楊の根拠地。張楊の名が出ないのは不自然
・洛陽であれば曹洪を阻む可能性はある
・董承は196年に張楊の指示により洛陽復興作業をしたという
・が、洛陽が復興した気配なし
後漢書によれば董承は194年に洛陽復興作業をした
・その時、劉表の支援を受けたとされる
・董承の洛陽復興が事実かどうか、別途検討が必要
・この時期、董承と連合するのは、袁術よりも張楊劉表の方が自然

袁術軍が河南まで進出していた可能性に疑義がある
袁術は汝南南部なり、徐州なりを優先すべきはずだ
袁術が皇帝自称を考えた時期からするに、朝廷工作も不要だった

・萇奴は不自然な名に思えるが、人名として成立し得る
・ただし後漢の孝仁皇(劉萇)の避諱と対象となったはず
・萇奴の名が後漢末の史料に残った可能性に疑義がある

陳王・劉寵の死亡年を疑う

後漢末の豫州情勢は何かと不明点が多いが、
気になるのは陳国王の劉寵のことである。


陳国の始祖は後漢の第二代皇帝の明帝の子の劉羨である。
劉寵は第11代の桓帝(132-168)と同じ世代にあたる。
曾祖父同士が兄弟である。
第12代の霊帝(156-189)からは親の世代にあたる。


劉寵の即位年は不明だが、173年に謀反の疑いを掛けられている。
それ以前の即位ということになる。
劉寵は弓の名手として有名で、強弩数千張を有しており、
黄巾の乱の際も陳国人は敢えて反乱しようとしなかった。
董卓が専横し、義兵が起こると、
劉寵は陽夏県に駐屯し、輔漢大將軍を自称した。
国相の駱俊の政治は威恩があり、鄰郡の人々も多くこれに帰伏した。
後に袁術が軍糧を陳国に求め、駱俊がこれを拒絶すると
袁術は刺客を送って駱俊と陳王・劉寵を殺害した。


後漢書の陳王伝は死亡年を記さないが、
後漢書献帝紀によれば197年のこととしている。
資治通鑑も同様である。


後漢書より成立の古い三国志を見てみると、
どうやら陳王・劉寵の記載はない(ちくま8巻の人名索引に拠る)。
三国志注の「謝承の後漢書」には駱俊の記事があり、
内容は上記と同じだが、陳王・劉寵の名も、
駱俊と共に殺されたとも書かれない。
謝承は孫呉の時代の人で、姉は孫権に嫁いだ。
陳寿よりも、1~2世代前の人である。


さて、三国志許靖伝によれば、
同時期の陳国相に許瑒がおり、これは許靖の従弟だという。
許靖董卓の専横のころ、尚書郎であり、
吏部尚書の周毖と共に人事の中心であった。
しかし任命された諸侯がことごとく義兵をあげ、
さらにその一人の孔伷に、陳国相の許瑒が協力していたため、
許靖は処罰を懼れて孔伷のもとへ出奔した。
陳国相が孔伷に強力していたのなら
陳王も山東諸侯側についていたということになろう。
このあと、何らかのタイミングで陳国相の交代があり、
許瑒の後任が駱俊ということだろうか。


そのあと、197年までに何があったのか。


193年春、南陽にいた袁術が陳留郡に侵入し、封丘に駐屯する。
曹操に敗れると、袁術は襄邑、寧陵と逃走し、
最終的に揚州に逃げ込む。
偶然かどうか、陳国を避けるように進軍、また逃走している。


193年秋から曹操の徐州侵攻が始まる。
そして194年夏、兗州呂布を引き入れて反乱する。
翌195年秋頃、呂布は徐州へと敗走。
張超が雍丘に籠城し、これが陥落するのが同年12月。


ここからが本題である。


三国志:魏書:武帝紀:
>十二月,雍丘潰,超自殺。夷邈三族。
>邈詣袁術請救,為其眾所殺,兗州平,遂東略陳地。
>建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降。


兗州をやっと平定した曹操は、東進し、陳国へと侵攻した。
そして武平県に迫り、袁術の置いた陳国相の袁嗣は降伏した。


さて、この辺りで地図を載せておく。

 

豫州・陳国の関連情報図





東進、というのは、雍丘から陳国へ向かったということだろう。
両者の位置関係ならば、南進の方が良さそうな気もするが、
東進と言えないこともない。まぁこれは瑣末なことだ。


問題は、この時に
陳王の劉寵、陳国相の駱俊は何をしていたのか、である。
私の意見では、この時、両者は共に死亡した後であった。


これは後漢書献帝紀による死亡年(197年)と矛盾する。
だが、そもそもその死亡年が何を根拠にしているか分からない。
確かに袁術は197年にも陳国に侵攻しているが、
いま見たように、195年末~196年初にもその形跡があるのである。
(これを"袁術による195年の陳国侵攻"、と呼ぶようにする。)
後漢書の作者の范曄(398-445)は何を根拠に197年のこととしたのか。
先行史料、たとえば「謝承の後漢書」にそう書いてあったのか。
その可能性もないではないが、
197年の陳国侵攻を根拠にして死亡年を「推測」したのではないか。


しかし197年説だと、いろいろと不都合がある。
まず、上で見てきたように、195年の陳国侵攻である。
この時、陳王が存命であれば、いったい何をしていたのか。
袁術の侵攻、そして曹操による撃退を傍観していたのか。
そもそも曹操はこの時、兗州牧でしかない。
陳王が健在であれば豫州に介入する正当性はない。
もちろん曹操袁術とは仇敵関係にあるからこれを攻撃するのは自然だが
大義名分として、陳王からの救援要請があったとか何とか書かれるはずだろう。


あるいは陳王が袁術と組んでたことはあり得るのか。
たとえば、袁術が送り込んだ陳相の袁嗣は
陳王も受け入れていたのか。
曹操は陳王が袁術軍を引き入れたことを許さず、
陳国に侵攻し、勝手に袁嗣を追い出したのか。
この場合、袁嗣の後任が駱俊という解釈になるだろうか。
いや、これは不自然なところが多すぎる。


しかしこうした疑問をいったん無視し、
陳王が197年まで存命だったと考えよう。
この時に何が起こったのか。


197年春、袁術は皇帝を自称する。
この正確な時期を確かめようとしたこともあるが、今のところ答えは出ていない。
いったん、各書が記す197年春という時期が正しいものとして進める。


では陳王が殺害されるのはいつか。
後漢書袁術伝によれば、袁術の行動は皇帝自称後に活性化する。
なかなか自分に靡かない呂布へ討伐軍を差し向け、敗北。
一方で、陳国方面へも侵攻する。
それを受けた曹操が反撃に出るのが197年の9月である。


もしこの時系列が正しいのであれば、強烈な違和感が湧き出でる。
皇帝を自称した袁術が、漢の宗室の陳王に軍糧を要求し、
拒まれたから刺客を送って殺害する。
そんなことがあるのか。


もちろん軍糧要求というのはただのポーズで
最初から暗殺を狙っていた可能性はある。
が、要求を拒絶された袁術は「怒り」、暗殺した、とハッキリ書かれる。


三国志:駱統伝注「謝承後漢書」:
>後術軍眾饑困,就俊求糧。俊疾惡術,初不應答。術怒,密使人殺俊。


後漢書:陳王伝:
>後袁術求糧於陳而俊拒絕之,術忿恚,遣客詐殺俊及寵,陳由是破敗。


袁術が怒るのは勝手だが、
漢の宗室たる陳国が、偽帝・袁術の要求を拒絶するのは当然に思える。
それに史書が触れないのは不自然に思う。


では、陳王死亡は197年として、袁術の皇帝僭称より前の可能性はあるのか。
後漢書袁術伝では、皇帝僭称、陳王殺害の順に書かれる。
一方、献帝紀は197年春に袁術の皇帝僭称を記載したうえで、
197年の記事の末尾に、「是歳(このとし)」の出来事として、
「飢饉がおきたこと」、「袁術が陳王を殺したこと」、
孫策が朝廷に遣使してきたこと」を併記する。
つまり後漢書も陳王の死亡月についてはよく分かって書いていない。


では、197年2月に陳王が死亡し、
197年3月に袁術が皇帝を僭称した、そういう可能性はあるのか。


それを考えるには197年の情勢を確認せねばならない。
196年に司空となった曹操だが、197年は厳しいスタートとなる。
1月、張繡を降伏させたと思ったら騙し討ちをくらい、
実子まで戦死したのである。
その後、荊州方面の対応として曹洪を残すが、
曹操自体の動向はしばらく不明である。
この頃は呂布との関係修復という外交課題をこなしていたが、
それもこれも、張繡、劉表との対決のためであったろう。
そして9月に陳国に侵攻する袁術に対して
曹操自ら迎撃に向かう。


後漢書袁術伝からもこの動きを見ておこう。


袁術は陳国を攻撃し、陳王と駱俊を「誘殺」した。
曹操はこれの討伐に向かうと、袁術は恐れて逃亡し、
張勳、橋蕤を留めて「蘄陽」で防衛させた。
曹操は橋蕤を斬り、張勳は敗走した。


さて、「蘄陽」については通鑑に胡三省注があり、
沛国の蘄県と結びつけている。
確かに「蘄陽県」は存在しないため、場所の確認は必要だ。
沛国の蘄県には蘄水が流れる。
が、これが「蘄陽」と言っていいのか。


三国志の何夔伝を見る。
何夔は陳郡陽夏人である。


袁術と橋蕤とが蘄陽を包囲すると、蘄陽は曹操のために固守した。
何夔は蘄陽の同郡人のため、袁術は何夔に説得させようとした。
何夔はこれを拒んで灊山へと逃げた。


※こう書くと、蘄陽が人名のようにも思えてくるが、
何夔伝での記載状況(たとえば蘄陽を陽と略す箇所なし)、
他伝での記載内容(蘄陽之役と書かれる)など考慮すると
まず人名ではないだろう。


上記の内容を見れば、蘄陽が陳国にあったのは間違いあるまい。
樂進伝、于禁伝によれば、曹操軍は橋蕤を苦県で包囲して破った。
つまり、袁術が残した部隊は陳国で戦った。


袁術軍が沛国の蘄県まで後退して防衛したという見方は魅力的ではある。
197年の袁術軍がそれほど強力には思えないため
陳国のラインで曹操と争うことにどうしても違和感を覚えるからだ。
このあたりは、私の袁術考察が十分でないことにも原因があろう。


さて、陳王の死亡時期の話に戻る。
皇帝僭称後の袁術が陳国に軍糧を要求するのは道理に合わない。
では、皇帝僭称前なのでは、という可能性の話である。
たとえば、陳王死亡が2月か3月だったらどうなのか。


これはこれで別の大きな違和感が生じると言えよう。
当時の曹操の根拠地は許都である。
たしかに1月に張繡に敗北を喫し、体勢の立て直しも必要であったろうが、
許都の目と鼻の先の陳国を蹂躙されて、
それから9月まで7~8か月の間、息をひそめていたとでもいうのか。


また、蘄陽は曹操のために固守したと書かれている。

>術與橋蕤俱攻圍蘄陽,蘄陽為太祖固守。


仮に「蘄陽県」と呼ぶことにするが
その県民たちは曹操に片思いしていたわけではあるまい。
袁術の攻撃を受ける前、曹操の陣営に属していたはずだ。
陳王への恩義から、陳王を殺した袁術に抵抗した可能性だってあるが、
少なくとも史書はそうは記述していない。
曹操のために固守した、と書くだけである。


そしてその蘄陽県の抵抗を
曹操が数か月黙殺するなら、それは不自然である。


以上のように考えていくと、やはり陳王が死亡したのは
袁術の195年の陳国侵攻の頃なのではないかと思う。


なお、駱俊の子の駱統は193年生である。
195年が駱俊の死亡年であっても、そこに矛盾は生じない。


ではなぜ後漢書は、通鑑は、
陳王の死亡を195年とすることが出来なかったのか。


それは195年の陳国侵攻自体を無視しているからである。
三国志武帝紀にハッキリ書かれるこの出来事を
後漢書や通鑑は記載していない。
おそらく三国志の他伝にもこの事件への言及はなく、
またこの時期の豫州情勢は不透明なため、
ばっさりとカットしてしまったのだと思われる。


※あるいは、袁嗣の肩書きが陳相であることを考慮したのか。
陳相と書かれ、陳郡太守でない、つまり陳国は健在という解釈。
しかし、国相と郡太守の記載の混在はよくあり、
これをもって国が健在であったとは言えないと私は考える。


では武帝紀のこの記事は
バッサリ削除するのが妥当なほど、不明瞭な記事なのだろうか。
無視せざると得ないほど、理解しづらい出来事なのだろうか。


つまり、袁術が195年に陳国に攻め入ることが有り得たかどうか、考える。


193年春、南陽を捨てた袁術兗州に攻め入るが、
曹操に敗北して揚州に逃げ込む。
この頃、長安政権の働きかけにより、
山東諸侯の間で和平が結ばれていく。
袁術は揚州を「不法占拠」したものの、
長安政権の任じた揚州刺史の劉繇を迎え入れた。
これは袁術董卓死後の長安=李傕政権を認めたということだ。


しかし193年秋から情勢が変化する。
父の死を理由に、曹操が徐州侵攻を始めたからだ。
時を前後して、袁術も徐州侵攻を考える。
そして廬江太守の陸康に軍糧を要求する。
まるでどこかで聞いた手口だ。
陸康は拒絶し、袁術軍(=孫策)の攻撃を受けて敗北するが
これは194年の出来事だと推測している。
では袁術が徐州侵攻を考えたのは具体的にいつか。
曹操が侵攻を始めた頃なのか、
あるいは劉備陶謙を継いだ頃(194年後半?)か。


私の推測では、孫策は194年の後半には
江南平定へ参加している。
であれば、陸康攻撃は194年の前半か。
その場合、袁術が徐州攻撃を考えたのは、
それより前、つまり陶謙死亡前ということになる。
これはいつかの袁術考察の時のために覚えておくことにする。
そして孫策が劉繇を破って曲阿に入ったのが195年前半。
このタイミングで、江南平定軍の主力である、
孫賁と呉景が寿春に帰還しただろう。

(★※追記。孫策の曲阿入りを195年前半と推測したが、根拠がよく分からなくなってしまった。自分が以前にまとめたメモに準拠しただけなのだが、そのメモが何をもってそう推測したのかが分からない。孫策伝注の江表傳によれば、195年12月に孫策は曲阿にて行殄寇將軍に任命される。これが劉繇平定の少し後と考えるなら、曲阿入りは195年前半とは言えない。が、記事の全面修正はやめておく)


袁術が徐州侵攻に乗り出したのは196年だが、
それも後半に差し掛かった頃と推測している。
195年前半の江南平定から、だいぶ時間が経っている。
袁術は以前から徐州侵攻を考えていたはずだが
なぜそんなに時間が掛かったのか。
そもそもの徐州侵攻案がアイデアどまりであった可能性もあるが
他の仕事に取り掛かっていた可能性もある。
そしてそれが、「豫州侵攻」だったのではないか。


揚州から陳国へは、2つの河川が走っている。
濄水と潁水である。
濄水は譙を通り、武平、陽夏へと続く。
195年に袁術の置いた陳相の袁嗣は武平あたりにいた。
袁術はこの濄水ルートは制圧していたようだ。
譙は後漢時代の豫州刺史の駐屯地である。
194年夏、兗州反乱の時に豫州刺史には郭貢がいたが
その時、郭貢は豫州兗州の州境あたりにいたのでは、
という推測は以前にした。
その後、郭貢は譙県に入ることが出来たか。
しかし、195年の豫州侵攻により、敗北したのかも知れない。


一方、潁水ルート上の項県にも公路城なるものが残っていたようで
袁術(字は公路)が築いたとされる(水經注)。
これは195年のものか、197年のものか判別できない。


気になるのは、195年にしても、197年にしても
驚くほど簡単に袁術が敗北していることである。
それは豫州という平地続きの地形が、
攻めやすく、守りにくいという特性を持つためかも知れない。


以上を踏まえると、
195年に袁術が陳国へ侵攻した可能性はあり得る。
曹操兗州平定に掛かりきりだったことを思えば、
むしろ195年に豫州へ侵攻しなくてどうするか、というタイミングである。
195年に陳国へ侵攻していたのなら、
やはりその時に陳王は死亡したと考えるのが自然であろう。


最後に、195年の陳国侵攻に至る状況について
私の考える時系列を下記にまとめておく。
もちろん、推測が混じっている。

・190年春、陳王の劉寵は、反董卓諸侯と連帯していた。
・その時、陳国相は許瑒(許靖の従弟)だった。
・後に陳国相は交代し、後任は駱俊となった。
・駱俊の政治は威恩あり、隣郡の人々も陳国を頼った。
・193年春、袁術南陽から兗州に侵攻、敗北して揚州へ逃げた。
・その逃走ルートは陳国を避けるようだった。(陳国は安定していた)
・193年夏頃、山東諸侯が和解した。
・193年秋頃、曹操が徐州に侵攻した。
袁術も徐州侵攻を考えるようになった。
・194年(?)、袁術が廬江太守の陸康に軍糧を要求。
・陸康がこれを拒絶すると、袁術は陸康を攻撃した。
・194年(?)、袁術の劉繇攻撃に孫策も加わった。
・194年夏、曹操が二度目の徐州侵攻を開始した。
・しかし兗州が反乱し、曹操は撤兵した。
・このあと195年冬まで、曹操兗州平定に専念する。
曹操撤退後、陶謙劉備豫州刺史とし、小沛に置いた。
・一方で、同時期の豫州刺史には郭貢がいた。
・郭貢は長安政権から任命された刺史と思われる。
・が、郭貢が豫州刺史の治所である譙県にいたかは不明。
・194年冬、陶謙が死亡し、劉備が徐州を継いだ。
劉備は後任の豫州刺史を任命しなかった??
・195年春頃、孫策が劉繇を破り、呉郡曲阿に入った。
(★※追記したように、曲阿入りは195年後半~終盤の可能性も高い)
孫策軍の孫賁、呉景が寿春に帰還した。
・この頃、袁術豫州侵攻を開始したか。
・譙人の許褚は譙県を脱し、砦を作ってそこで自衛。
袁術軍は濄水、潁水沿いに豫州を北上。
・譙県を破り、刺史の郭貢を滅ぼした(推測)。
袁術軍は項県に城を築いた。
・陳国に軍糧を要求したが、陳国は拒絶した。
袁術は陳王の劉寵と、陳相の駱俊を暗殺。
袁術軍は陳国を平定し、陳相に袁嗣を置いた。
・このあと、袁術は徐州侵攻を本格的に考え始める。
・195年秋、呂布が敗北し、徐州に逃走。
・195年冬、曹操が雍丘を破り、兗州平定。
・195年冬、曹操が陳国へ侵攻する。
・196年1月、曹操が陳相の袁嗣を降し、陳国平定。
・196年2月、曹操は潁川、汝南黄巾討伐へ向かう。

※197年まで続けると、陳国以外のところでボロが出そうなのでやめておく。