正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

田豫、牽招、解儁のナゾ

三国志の田豫伝にこうある。

>文帝初,北狄彊盛,侵擾邊塞,乃使豫持節護烏丸校尉,牽招、解儁并護鮮卑

 

ちくま訳ではこう書かれる。
>~そこで田豫を持節護烏丸校尉とし、牽招、解儁とともに鮮卑族を監督させた。

 

解儁なる人物はこの田豫伝のこの箇所にしか出てこない、詳細不明の人物である。
三国志集解にも注釈は無い。だが三国志にはこのようなことはよくある。

 

さて、これと類似した記述が三国志鮮卑伝にある。

>文帝踐阼,田豫爲烏丸校尉,持節并護鮮卑,屯昌平。

 

ちくま訳の転記は割愛するが、

「田豫は烏丸校尉,持節となり、護鮮卑校尉を兼任して,昌平に駐屯した」となる。

 

では次に、牽招伝を見てみよう。(原文は割愛し、概要だけ)
・牽招は文帝が踐阼すると「持節護鮮卑校尉,屯昌平」となり、その後、中央に召還されて右中郎將、次に雁門太守へと異動となった。

※牽招については考察の余地が多く、とりわけ平虜校尉を担った際の意味合いや、
昇進(=爵位の)の遅さが個人的な関心事だが、ここでは措く。

 

つまり鮮卑伝、牽招伝をもとに大筋を見ていくと
・文帝が踐阼すると、牽招は持節護鮮卑校尉、田豫は持節護烏丸校尉となった。
・牽招が召還されると、田豫が護鮮卑校尉も兼任した。
・牽招は雁門太守へと異動となり、北方対策は雁門、昌平が二大拠点となった。

 

三国志集解では昌平の所在を廣陽郡(=燕國)ないし代郡とする説を載せている。
私は以前は代郡説に傾いていたが、いまは廣陽郡説を支持する。

 

以上の解釈を踏まえて田豫伝を読み返す。
>乃使豫持節護烏丸校尉,牽招、解儁并護鮮卑

ここで言いたいことは、牽招が召還後に田豫が護鮮卑校尉を兼任したことである。
それならば標点に位置を変え、「乃使豫持節護烏丸校尉,牽招解儁,并護鮮卑。」とするのが自然であろう。
解儁の意味が分からないが、あるいはこれは誤字で、ただしくは「解職」かも知れない。

「乃使豫持節護烏丸校尉,牽招解職,并護鮮卑。」
(拙訳)田豫を持節護烏丸校尉としたが、牽招の職が解かれると、護鮮卑校尉も兼任した。

以上のことから、解儁なる人物は存在しなかったろうと私は考えている。