正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

嚴幹について

裴潛伝の末尾の裴注は、魏略の記事を引き、嚴幹、李義、韓宣、黃朗の4人の詳細が語られている。彼らは魏略においては立伝されたが、陳寿三国志ではバッサリとカットされた。

 

このうち嚴幹、李義は馮翊東部の出身で、同県出身なのかは不明だが若い頃に苦楽を共にした仲である。李義は李豊の父親としては有名だろう。
記事の末尾に「誠実で、それ以外に才能はなかったが・・・」といったようなことを書かれているが、それでも李義は魏王国(公国?)の尚書左僕射にまで上り詰めており(これは突出した経歴である)、文帝が即位した後は執金吾、衛尉にもなっており、これはまぁ閑職とも言えるが、それでも九卿である。
三国志に立伝されても違和感のない人物である。

 

一方の嚴幹は「擊劍を好んだ」という記述がまず目を引く。
出仕後の経歴を羅列すると

・蒲阪令
・公車司馬令
・議郎,參州事(=參司隷校尉軍事)
・弘農太守
・漢陽太守
益州刺史(着任できず)
・五官中郎將(黃初中)
・永安太僕(明帝時)

このように、李義ほどの出世はしなかった。
しかし、「參州事」の時代、郭援討伐(202年)と高幹捕獲(206年)に功績があり、武鄉侯に封じられたという。207年に曹操が淳于から鄴に帰還した際に功臣二十餘人を列侯に封じたというから過去の功績を遡って封爵されたのだろう。

 

ただし、このタイミングまでに鄉侯となっているのは夏侯惇くらいで、荀彧も曹洪曹仁も亭侯に過ぎない。嚴幹が封じられたのも武鄉侯ではなく、おそらく武鄉亭侯だと思われる。この経歴は「議郎,參司隷校尉軍事」として郭援討伐、高幹捕獲に功績があり、武始亭侯に封じられた張旣と完全に肩を並べるものである。張旣と言えば、曹魏におけるメジャー中のメジャーと言える功臣である。

 

このあとが岐路となる。

 

張旣は封爵後の官職は不明だが対・関中諸侯として使者となった事績もあり、西方対策チームの中心であったろう。一方の嚴幹は弘農太守に昇進した。この頃は司隷校尉の役所は長安でなく弘農にあったようで、西方の最前線の現場責任者となったとも言える。
そして、彼らの後任と言えるかどうかは不明だが、この頃に「議郎、参司隷軍事」となったのはあの賈逵である。

 

さて、関中諸侯が蜂起すると(211年)、弘農郡は「民人分散」してしまった。
曹操が西征に乗り出し弘農に至ると賈逵に弘農太守を領させた。
曹操の中で嚴幹の評価が下がったに違いない。
嚴幹はこの後に漢陽太守(漢陽郡=天水郡)となるが、
馬超涼州刺史の韋康と氏名不詳の漢陽太守を殺害したのが213年なので
嚴幹が任命を受けたのはこの直後と思われる。
難しい涼州情勢において、嚴幹にチャンスが与えられた。
益州刺史に任じられたのは趙顒(趙昂)の死を受けてのことのはずで
曹操はまだまだ嚴幹に期待していたに違いない。

しかし文帝の時代になると五官中郎將、ついで永安太僕となった。
閑職でもあるし、九卿の李義に比べれば明確に劣る。

それでも一歩間違えば張旣や賈逵のようなキャリアになったはずの嚴幹。
三国志を読み返したこの数か月で、新たに目を引いた人物である。