陳羣の前半生の謎を記事にしようと考察していたところ、
いままで気にしていなかった事柄が壁となって表れた。
それは陳羣の父である陳紀の死亡時期である。
さて、陳羣伝をもとにした彼の前半生は下記である。
(袁渙伝注、何夔伝注も参照)
・劉備に召されて豫州別駕となる(194年頃)
・陶謙が死に劉備が徐州に入る(194年頃。おそらく陳羣も随行)
・呂布が徐州を奪う(196年頃。おそらく陳羣は呂布に降伏)
・曹操が呂布を破る(198年末。陳羣は曹操に帰服)
・司空西曹掾屬となり、陳矯、戴乾を推挙(199年頃)
・劉備が曹操に反逆する(199年頃)
・劉備の反乱鎮圧後の対応として蕭県令(沛國)となる。(200年頃)
・酇県令(沛國)となる
・長平県令(陳國)となる
・父(陳紀)が亡くなり官を去る
・司徒掾となる(趙溫が司徒を免ぜられたのは208年なので、おそらくそれ以前)
・治書侍御史となる
・參丞相軍事となる(曹操が丞相となったのは208年なので、それ以降)
・魏公国(または王国)の御史中丞となる(213年以降)
・侍中,領丞相東西曹掾となる(217年頃と推測。侍中としては王粲/和洽の後任か)
一度は司空西曹掾屬として曹操の幕僚のメインメンバーにまでなった陳羣が県令に異動したというは他の人物には見られないキャリアで、そこが私の最初の関心であった。
劉備反乱以降の「東南多變」に対して諸県にみな名士を起用したというが(陳羣は酇令、何夔は城父令)、同時期に袁渙が沛南部都尉、溫恢が彭城相となっているのと比べるとかなり軽い職責を与えられた感じだ。そしてこの時期の沛國相(まさに劉備の本拠地であった)が誰か不明なのも課題として覚えておきたい。
その後、10年ほどして陳羣は再び曹操に近い職に就く(參丞相軍事)。だがこの時期の事績は不明。次いで御史中丞を経て、曹操時代の末期になって侍中となり、政権幹部に返り咲くのだった。つまり、陳羣というビッグネームに比較して、彼はそれほどエリート街道を歩んでいない。「東南多變」のために県令に起用したというが、実際には曹操からの評価が当初は高くなかったのではないか。
曹操の長年のお気に入りと言えば崔琰、毛玠、王粲。彼らが216年、217年に失脚/死去したことが陳羣の「返り咲き」にも影響したのかも知れない。
などと考えを巡らしていたところ、三国志集解に「陳紀は199年6月に死去」という注釈を見つける。その典拠は「邯鄲淳の鴻臚陳君碑」なるもので、ネットで探してざっと見てみた。この死亡時期が正しいならば陳羣伝には間違いが記載されているかも知れない。曹操に帰服してから、父の死で官を去るまでが半年ほどしかないからである。
陳紀の死亡時期についての考察は次回行う予定。