正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

陳羣の前半生について②(陳紀と段煨)

前回の記事で陳羣の前半生を見た。
陳羣伝を中心にその略歴を記述すると次の通り。


劉備に召されて豫州別駕となる(194年頃)
陶謙が死に劉備が徐州に入る(194年頃。おそらく陳羣随行
呂布が徐州を奪う(196年頃。おそらく陳羣呂布に降伏)
曹操呂布を破る(198年末。陳羣曹操に帰服)
・司空西曹掾屬となり、陳矯、戴乾を推挙(199年頃)
劉備曹操に反逆する(199年頃)
劉備の反乱鎮圧後の対応として蕭県令(沛國)となる。(200年頃)
・酇県令(沛國)となる
・長平県令(陳國)となる
・父(陳紀)が亡くなり官を去る
・司徒掾となる(趙溫が司徒を免ぜられたのは208年なので、それ以前)
・治書侍御史となる
・參丞相軍事となる(曹操が丞相となったのは208年なので、それ以降)

 

◆追記。陳羣呂布に合流した件については別の考察が必要。◆

 

しかし三国志集解によると、陳紀は199年6月に死去している。
典拠となる邯鄲淳の鴻臚陳君碑を検索すると、「寢疾年七十有一建安四年六月卒」とある。

もしこの死亡年が正しいのであれば
陳羣曹操への帰服(198年末/199年初)から199年6月までの間に
司空西曹掾や三県の県令を務めたことになり、さすがに無理を感じる。

では曹操への帰服がもっと早かったのか。
呂布の敗北とともに曹操に帰服したというのは袁渙伝注の「袁氏世紀」の記事である。
これが袁氏を持ち上げ、陳羣親子を貶めるための誤謬であった可能性を考えてみる。
その場合は異動を繰り返す期間的な余裕は増えるが
そもそも蕭県令となったのは劉備の変以後(200年頃)なので(何夔伝注の魏書=王沈の魏書?による)
県令を歴任した後(200年以降)に父が死去する(199年6月)という矛盾は解消できない。

そこで私は鴻臚陳君碑が間違っているのではないかと考えた。
死亡年は建安四年ではなく、建安十四年(209年)なのではないか。
この場合、父の死後、服喪を終えた陳羣が司徒掾となったという記述と矛盾が生じる。
この頃の司徒は趙溫だったが、彼が208年に罷免されたあとはずっと空位となるからだ。
では「十の字が欠落した」という分かりやすい間違いではないものの、別の年と間違えた可能性はないのか。
たとえば建安十二年(207年)あたりが死亡年であれば、陳羣伝との矛盾は生じない。

だがその場合は別の問題も生じる。
陳紀は曹操に帰服すると(199年)、大鴻臚になっている。
だが同時期には段煨がやはり大鴻臚になっている。
華陰(弘農郡)に割拠していた「群雄」の段煨は198年に謁者僕射の裴茂の指揮のもとに李傕を滅ぼし
その後に入朝して大鴻臚、光祿大夫となり、209年に死去する。
この間、郭援の河東侵攻(202年)や、高幹と連動した張琰の乱(205年頃、弘農郡)があるが
その際に段煨が立ち回ったという記述はない。
であるから官渡の戦い以前に段煨は入朝したと思い込んでいた。
段煨のような「群雄」が要所に留まっているというのは曹操も危険視したのではないかと。
199年6月に陳紀が死去し、段煨が後任として大鴻臚となるというのは自然に思える。

しかしもしかしたらこの時期の曹操はもっと余裕がなく、
段煨を弘農郡の抑えとして頼りとしたのかも知れない。
王邑が河東太守として10年ほど君臨していたのと同様である。
この時期の弘農太守は不明で、おそらく高幹滅亡(206年)後に太守となったのが嚴幹である。
段煨はそれまで弘農太守を領しており、206~207年あたりに入朝して大鴻臚となったのかも知れない。

 

<◆※追記

杜畿伝によれば、張琰の乱の際には弘農太守(氏名不詳)が捕らわれたとある。
その生死には言及はないが、段煨は弘農太守ではなかったかも知れない。
段煨が弘農に留まっていたとすれば、その駐屯地は以前のように弘農西端の華陰県で、
太守は兼任していなかったのかも知れない。>

 

 

そしてそれまで陳紀が生きていたのかも知れない。
であれば、

劉備の反乱鎮圧後の対応として蕭県令(沛國)となる。(200年頃)
・酇県令(沛國)となる(202年頃)
・長平県令(陳國)となる(204年頃)
・父(陳紀)が亡くなり官を去る(206年頃)
・司徒掾となる(207年頃)
・趙溫が免ぜられて司徒が空位となり、陳羣は治書侍御史となる(208年)

このような経歴となるのかも知れない。

もちろん、鴻臚陳君碑の死亡年が正しく、陳羣伝が間違っている可能性はある。
伝の中で記事が前後していることはたまにあるからである(満寵伝など)。
司空西曹掾屬となるも父の死(199年6月)によって官を去り、
そのあとに県令を歴任するキャリアに進んだ、ということも考えられるのである。
ただしその場合、県令歴任後に改めて司徒掾となるというのはちょっと不思議な経歴である。

もうひとつ、陳紀の死亡年を変えた際の別の影響も見てみよう。
以下はかなり想像を交えた考察となる。

陳紀の享年が71というのは後漢書にも記載されている。
数え年で享年71だというなら、199年に死去したのであれば生年は129年である。
陳紀の父の陳寔は104年生まれであり、ここに矛盾は感じない。
陳紀は党錮の禁(166年)に遭うと発憤して著作に励んだというが、それ以前の仕官状況は不明。
129年生まれならば166年には38歳であり、私には若干の違和感がある。
また、許靖伝によれば、許靖は陳紀に兄事したという。
許靖は70歳を越え、222年に死去した。
また許靖は従弟の許劭(150年-195年)と共に若くして有名となったが、仲は悪かった。
おそらく年も近かったのではないか。
仮に許靖も149年生まれだとすると、129年生まれの陳紀とは20歳の差がある。
その場合にも「兄事」という表現になるだろうか。
たとえば陳紀が136年生まれで、許靖は148年生まれ、
党錮の禁(166年)の際に陳紀は31歳、そして206年に71歳で没した。

このようであれば、色々な違和感が霧消するのである。

※中文Wikiを見たら許靖を147年生まれとしていたが、典拠不明である。

 

私は後漢書はつまみ食い程度にしか読んでいないので
あまりこのあたりの人物に踏み込むとボロが出てくるでそろそろ筆を置こう。
だが陳羣の前半生にはまだまだ考察の余地がある。
以下をメモとして残し、次回以降の課題としたい。

劉備豫州に来る前、陳紀・陳羣親子はどこにいたか
豫州東部しか抑えていないであろう劉備になぜ仕えたか
呂布に仕えた時代
・鴻臚陳君碑によれば呂布袁術の「成婚」を阻止したのは陳紀
曹操はなぜ陳羣を司空西曹掾屬に抜擢したか(豫州人脈を考える)
陳羣が推挙した人物について

 

◆※追記

世説新語の政事篇を読むと、陳紀が11歳のときに、その父の陳寔が太丘県長時代のことを質問された逸話が載っている。陳寔は司空の黄瓊により聞喜県長に任命され、太丘県長となったのはその後となる。黄瓊が司空であったのは151年~152年なので、計算してみると陳紀の生年は141年以降、没年は210年以降となる。もちろん世説新語のことは無暗に信用はできないが、念のため書き残しておく。