正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

陳羣の前半生について③(陳紀、焦和、孔融)

陳羣のことを長々と語るつもりはなかったが、次回まで掛かりそうだ。

 

劉備豫州に来る前、陳紀・陳羣親子はどこにいたか

 

董卓が入洛時、陳紀は都にいたようだが、陳羣が同行していなかったケースを考える。
陳羣は潁川郡許県の人だが、潁川は孫堅と周喁の係争の地となる。(191年頃)
このあと、孫堅荊州に転戦すると、李傕らが潁川、陳留に侵攻する。(192年頃)
そのため、潁川人士のうち荀彧、郭圖、郭嘉、辛毗らは袁紹を頼り、
杜襲、趙儼、繁欽らは荊州へ避難した。
司馬徽荊州へ移ったが、この戦乱が原因かは分からない。
棗祗は曹操の旗揚げに参加したというが(詳細不明)、レアなケースである。
陳羣は辛毗、杜襲、趙儼と共に名を知られたがその誰とも行動を共にした形跡がない。
このあと、汝南、潁川の黃巾賊(何儀、劉辟、黃邵、何曼)が台頭する。
となれば、陳羣は陳紀と共に最初から都にいたのではないかと推測する。
これは司馬防、司馬朗と同じケースである。

 

では陳紀の動向はどうだろうか。
後漢書の本伝によれば董卓が政権を牛耳った頃に五官中郎將~侍中となっており
その後に平原相に任命された際に董卓から長安遷都について諮問されている。
そのまま郡に赴くも、追って太僕に任命され、尚書令として召される。
このあと一気に建安初に話は飛び、袁紹が太尉を陳紀に譲ろうとした事績が載り、
大鴻臚を拝命した話へとつながる。

 

劉備呂布の名前が出てこないのはただの「配慮」かも知れないが、太僕のあたりのことがよく分からない。平原への赴任を中止して都に戻ったのか、そして董卓ないし李傕の政権下で尚書令となったのか。この時期の尚書令は不明なはずなので、陳紀が尚書令であっても矛盾は生じないだろう。

 

だが鴻臚陳君碑の内容はけっこう違っている。
※そもそも後漢書の知識が不十分であるからして、このあたりの考察も原文など載せずにざっくりやってしまう。

 

鴻臚陳君碑によれば、五官中郎將~侍中~平原相となったのは何進の時代である。
そして平原相であった頃に董卓の権力奪取があった。
陳紀は平原で良い統治を行ったようだが、刺史が黄巾に敗北し(青州刺史の焦和のことか)、幽冀二州が争うと(袁紹公孫瓚のことか)、官を捨て徐州に避難した(民もそれに付き従った)。

 

鴻臚陳君碑の方は予期しなかった内容で、陳紀がこの時期に平原にいたというのにはワクワクするが、そうだとすると、長安遷都を諫めた逸話がなくなってしまうし、
山東諸侯とどのような協力関係にあったか一切記録に残っていない点に不思議に思う。

 

後漢書が正しいのであれば、董卓から李傕政権への移行のあたりで逃亡したのだろう、くらいの推測しかできない。ただし、潁川に戻ったのではなく、陶謙の治める徐州に避難したというのはあり得ることかも知れない。

 

豫州東部しか抑えていないであろう劉備になぜ仕えたか

 

194年頃の豫州情勢というのは三国志の一大テーマのようなものだからし
今日の記事で一気に片付けるわけにはいかない。
ただし豫州西端の潁川人の陳羣が、豫州東部しか抑えていない劉備になぜ仕えたかについては、そもそも潁川にいなかったのであれば特に不思議ではないということになる。

そして、陳紀、陳羣親子が孔融と深く親交があったことも思い出す必要がある。
孔融はこの少し前に劉備に命を救われているので、孔融が両者を結び付けたと推測も可能だ。そもそも陳紀が徐州に寄留したのも、孔融を頼った流れでのことかも知れない。

 

と、ここまで書いて思い出したが、陳羣伝によれば陳紀、陳羣親子が徐州に避難したのは、劉備が徐州を失ったあとであるかのように読める。呂布が徐州を奪ったことで仕方なく呂布に仕えたのか、それとも自ら進んで呂布を頼ったのか、という問題が出てきてしまった。

 

それはまた次回以降に。