前回のつづき
◆劉備の徐州入りに反対する
劉備は陶謙の上表により豫州刺史として小沛(=沛国沛県のこと)に駐屯していたが
ほどなく陶謙が死去すると(194年後半)、その後任として徐州に入る。
このとき豫州別駕の陳羣は「徐州に入れば呂布と袁術に挟撃され、成功しませんぞ」と諫言した。
果たして劉備は徐州に入り、のちに袁術に敗北したときに(196年後半?)、この陳羣の言葉を思い出した。
この逸話については三国志集解においても疑義を示されている。
この頃の呂布は曹操と対峙中であり、当時の情勢を反映していないからである。
私の最大の疑問は「では豫州に残っていたら成功したか?」という点である。
さて、前回の記事の最後まですっかり失念していたのは
劉備が徐州入りして以降、陳羣が徐州に避難するまでの陳羣伝の記述である。
記事の順番としては
・劉備が徐州入りする(194年後半)
・劉備が袁術に敗北し、陳羣の助言を思い出す(196年後半?)
・陳羣が茂才に推挙される
・陳羣が柘令(陳国)に任命されるが着任せず。
・陳羣は父の陳紀に従って徐州に避難する
以上となる。
しかしこの記事は時系列が正確ではないだろう。
劉備の敗北は陳羣の助言から連続で記述されただけであろう。
私なりに時系列を整理すると下記となる。
・そもそも陶謙の時代に陳紀、陳羣は徐州に寄留していた
・劉備が豫州刺史となり、陳羣はその別駕となる(194年前半?)
・劉備が徐州刺史となる(194年後半)
・陳羣が茂才に推挙される(推挙した豫州刺史不明)
・曹操が献帝を許県に迎える(196年9月)
・劉備が袁術に敗北する(196年後半?)
・朝廷が陳羣を柘令(陳国)に任命する(196年末?)
・陳羣は父のいる徐州に避難する
推測の根拠のひとつひとつを述べていくと夜が明けてしまうのでここでは措く。
また、195年頃の豫州刺史についての考察にも今はまだ踏み込まない。
◆呂布に仕える
なぜ陳紀、陳羣親子は徐州に留まったか。
その理由のひとつは呂布が決して残虐非道な君主ではないからである。
身ひとつで逃亡できる状況ならいいが、おそらく一族ごと徐州にいたであろうから
無理に逃げ出そうとして敵愾心を増す方が危険だったのかも知れない。
そしてもし陳紀親子が曹操の徐州侵攻を目にしていたら
曹操が献帝を奉戴した直後では、まだそちらに合流する決心もできなかったかも知れない。
一方、同じく徐州に寄留していた鄭玄は、このタイミングで故郷(北海郡高密県)に帰還している。
さて、鴻臚陳君碑によれば呂布と袁術の「成婚」を阻止したのは陳紀で
これでは陳珪の手柄の横取りとなるが、あるいは両者の合作だったのかも知れない。
陳紀親子、陳珪親子、袁渙といった「名士グループ」が上手く呂布を操縦していたのかも知れない。
◆曹操に仕える
呂布の敗北と共に「降伏」した陳羣を、曹操はなぜ司空西曹掾屬に抜擢したか。
同じ豫州潁川人の荀彧、鍾繇らの推薦もあったろうし、名声ある陳紀を取り込もうとした配慮もあるだろう。
あるいは、陳羣と親交のあった孔融の進言もあったのかも知れない。
だが、陳羣はほどなくして県令に異動となる。
これは劉備の変に対応したものとされるが、「左遷」のように思わざるを得ない。
あるいは陳紀の死によりいったん官を去り、その後に県令からやり直した、ということなのか。
◆陳羣の推挙した人物
司空西曹掾屬時代に陳羣が推挙したのは、陳矯(廣陵東陽人)と戴乾(丹陽人)である。
同郷人の名がないのは、すでに荀彧らによって登用済みであったからであろう。
とだけ思っていた。
しかしこうしてブログを書いてきてハタと思ったが
おそらく彼らは陳羣が徐州にいた頃にその才能を認めた人物だったのではないか。
陳矯は廣陵太守の陳登に仕えたが(197年頃から?)、呂布に仕えた陳羣とは交流があっただろう。
また、丹陽人の戴乾とは、これは陶謙(同じく丹陽人)の故吏なのではないか。
陶謙は劉備が援軍としてやってきたおり、丹陽兵4000を与えている。
おそらく丹陽人がかなり陶謙陣営にいたと思われる。
劉備配下には他にも中郎將の許耽なる人物がいたが、彼も丹陽人である。
つまり戴乾は陶謙、劉備、呂布、曹操に仕えた。
また、青州樂安郡の王模、徐州下邳国の周逵を推薦する者がいたが
陳羣は彼らの起用に反対したという。
もしかしたら彼らも同じく、陶謙~呂布に仕えた同僚なのかも知れない。
さて、戴乾は「後に吳人が叛くと,忠義を守って危難に殉じた」という。
呉人が叛くとはどの時期だろうか。
赤壁の戦いの頃か、222年に魏呉の同盟関係が破綻したときのことか。
赤壁の戦いの同時期、孫権と戦った揚州刺史(劉馥の後任)は氏名不詳である。
もしかしたら戴乾がその揚州刺史なのではないかと考えたこともある。
蔣濟伝にはこの時の状況や「刺史」という文言も出てくるが
そもそも刺史が死亡したかどうかも不明である。
あるいは淮南郡の某県の県令であったり、太守であったりしたのか。
一方、222年~223年の戦いについては一貫して魏が攻勢で
「忠義死難」という表現に沿うような状況がありえたかは不明である。
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やっと書き終わった。長かった。
次回は陳羣ではない別の誰かのお話。