正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

徐璆のナゾ(陶謙、劉備)

徐璆は荊州刺史として黃巾賊を破った(184年)人物だが、司隷校尉の張忠に讒言により免官となった。のちに汝南太守となり、192年、董卓死後に陶謙朱儁を推戴しようとした際のメンバーにも名がある。
その後、東海相となるが、許県にいた献帝から召還された際、徐璆は道中、袁術に捕らわれてしまう。袁術死後、「袁術の盗んだ國璽」と汝南太守、東海相印綬を朝廷に返還すると称賛された。曹操が丞相に任命された際(208年)、曹操は丞相の位を徐璆に譲ろうとした。その後、死去した。

 

以上は後漢書の徐璆伝の概要で、三国志武帝紀注の先賢行狀では他に任城相にもなっている。それについてはいったん無視する。(汝南太守以前に任城相になっていたら、特に問題はない)

 

さて、192年に朱儁を推戴しようとしたメンバーは下記である。

陶謙(徐州刺史)
・周乾(前楊州刺史)
・陰德(琅邪相)
・劉馗(東海相
・汲廉(彭城相)
孔融(北海相
・袁忠(沛相)
・應劭(泰山太守)
・徐璆(汝南太守)
・服虔(前九江太守)
・鄭玄(博士)

 

ここから考察できることは色々ある。
徐州にありながらここに記載のないのは、廣陵太守と下邳相である。
おそらく廣陵太守は張超なのだろうが、反董卓連合で陳留に出兵したまま帰還していないのかも知れない。そして必ずしも陶謙に同調する立場でもなかっただろう。
だが下邳は陶謙のお膝元であって、下邳相は必ずや陶謙側の人物だったはずだ。
それでもここに名前がないのは、朝廷が正式に任命した者ではなかったのだろう。
おそらく正式な下邳相は青徐黃巾との戦闘で死亡し、後任は陶謙が臨時に任命していた。陶謙が丹楊から連れてきたと思われる笮融がそれであろう。

 

気になるのは、泰山と沛に挟まれた魯国の動向である。
しかしこれは大テーマとなるのでここでは措く。

 

さて、このあと(193年)陶謙長安政府に遣使し、
徐州別駕の趙昱が廣陵太守に、徐州治中の王朗が会稽太守に任命された。
おそらくこのタイミングで笮融が正式に下邳相となり、薛禮が彭城相となった。
のちに丹楊に逃亡した笮融、薛禮が下邳相、彭城相を名乗り続けるのは
朝廷から与えられた印綬を持っていたからではないか。

※なお、趙昱の後任の別駕は麋竺と思われる。

 

では徐璆が東海相となったのはいつなのか。汝南太守の印綬を返還しないまま東海相に異動となったので、おそらく政情の安定した時期(193年の趙昱が廣陵太守に任命された同時期)のものではない。

 

ここから大雑把に推測する。
193年後半に曹操が徐州に侵攻すると東海相の劉馗が戦死、あるいは官を去った。
この時、汝南太守の徐璆は陶謙救援のために徐州に到来した。
その間、汝南では黃巾の活動が活発となり、徐璆はそのまま徐州に留まった。
徐璆は劉馗を引き継ぐ形で、東海相印綬を預かった。

 

では、徐璆の最大の謎、「袁術に捕らえられた」とは何なのか。


献帝が許県に移った196年以降なら、東海から許への移動でなぜ袁術に捕らえらえることがあるのか。曹操が抑える兗州という安全なルートがあるのに、徐璆がよほど不用心に袁術の勢力圏に近づいたのか。


そうではあるまい。
これまで見てきたように、徐璆がもし陶謙の協力勢力として汝南から東海に移ったのであれば、そのあとは劉備に協力したに違いない。
そして献帝に許に入ったのと同じ頃、まさに劉備袁術との交戦が始まった。
おそらく徐璆は劉備と共に南征していた。
これを支援するために曹操劉備を鎮東將軍,宜城亭侯に任命する。
そして劉備麾下で名声ある徐璆については廷尉に任命して朝廷に召還しようとするが
呂布が徐州を襲うことで前線の劉備軍は大混乱となり、徐璆は袁術に捕らえられた。
こう考えると辻褄が合うのである。

 

最後にもうひとつ付け加えておきたい。
徐璆は黃巾賊の平定に大功あり、混乱期にあって群雄として台頭する資質は絶対にあった。そして陶謙の死に際にあっては、そのすぐ近くにいたようだった。
だが陶謙は「劉備でなければ徐州を治めることはできない」と遺言した。

陶謙の慧眼が歴史を変えることになったと言えるだろう。