正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

曹純の生年について

曹操を支えた「親族姻族集団」。
夏侯惇曹洪曹仁夏侯淵
しかしもう一人忘れてはいけないのが曹純である。

 

普段それほどWikiを見たりしないのだが、

記事のたびにWikiに言及している気がする。
まぁ良いだろう、曹純のWikiで気になった事について書く。

 

日本語Wikiでは曹純の生年を174年とし、根拠として英雄記を引いている。
曹純は20歳で曹操に従い襄邑に赴いた、という記述を根拠としているが、
それを193年の袁術攻撃の時の出来事と断定するのはWikiを編集した人の推測である。
なぜ襄邑に赴いたのが193年の一度きりと考えたのか、これは飛躍である。

 

一方の中文Wikiは生年を170年としている。
これは曹純が曹操に従ったのを189年とし、そこからの逆算であろう。

 

そもそも原文ではこうである。
「英雄記曰:純字子和。(中略)年十八,為黃門侍郎。二十,從太祖到襄邑募兵,遂常從征戰。」

襄邑に至ったのは募兵のためであり、袁術討伐のことは触れられていない。
たしかに193年、袁術兗州の陳留郡に侵攻し、その時に襄邑の地名も出てくる。
袁術は匡亭、ついで封丘で敗北すると襄邑に逃走した。
曹操はこれを追って太壽では城を水攻めにした。
袁術は寧陵に逃走し、これを追うと、袁術はまた九江に逃走した。

 

匡亭、封丘、襄邑はいずれも陳留郡にある。
寧陵は梁國にあり、襄邑ともそれほど離れていない。
太壽は特定できないようだが、襄邑と寧陵の間にあろうと三国志集解は推測する。

 

ひとつ思い出しておきたいのは、

曹操は前年の冬に青州黃巾三十餘萬の降伏を受け入れているのである。
もちろんこの数字をそのまま信じたりはしないが
その直後に袁術と交戦し、さらに連戦連勝して逃走する袁術を追撃し続けている。
なぜ襄邑に至った時点で募兵する必要があるだろうか。
また、曹純はなぜ交戦中のタイミングで曹操に合流したのか。
違和感が大きいと言わざるを得ない。

 

そして曹純が曹操に合流する2年前に

黃門侍郎となっていることも思い出す必要がある。
もしそれが191年だとするなら、それは孫堅董卓軍が交戦している年である。
孫堅に恐れをなした董卓長安に逃げ、

逆にこれが功を奏して山東諸侯に内紛が起こるのだが、
そうとは言え、長安政権は関西に孤立している状況である。
なぜ18歳の曹純を黃門侍郎に任じるなどの余裕があろうか。

 

やはり、曹純が合流したのは曹操の挙兵時と考えるのが自然だろう。
曹操は189年に家財を散じて陳留で募兵しており、12月に挙兵する。

 

曹操の募兵と言えば、190年の記述もある。
190年、曹操は徐榮に敗北し、揚州で募兵するもその帰路で兵の反乱が勃発。
それを鎮定し、豫州を進む間にさらに兵を手に入れたようだが、

陳留の名は出てこない。

189年のタイミングで合流したと考えるのが一番自然と思われる。
つまり曹純の生年は170年である。

 

その曹純の記述は決して多くない。

だが曹操の信任を得ていて、精鋭部隊の「虎豹騎」の指揮を任されていた。
功績はあったが、史料に残るものが少なかったというだけであろう。


なぜなら、官位で言えば「議郎、参司空軍事」となっている。
これが曹操の司空就任と同じタイミングであるならば、

兄の曹仁は「議郎、督騎」である。
この「督騎」自体は職務内容で、官名ではないのだろうが
であるならば「議郎、参司空軍事、督騎」が正式な官号であったのかも知れない。
いずれにしても「議郎」という同じ格式を与えられている。
一方、曹洪が与えらえた「諫議大夫」は同じ俸禄六百石だが、

ひとつ格上の印象である。

 

曹仁は議郎となるまで、とりわけ193年の袁術戦から徐州侵攻、
兗州での呂布との攻防についても記述が詳細に渡っている。
曹純も同様の活躍をしていたに違いない。

 

爵位については、曹仁は高幹平定(206年春)の記事に続いて

「於是錄仁前後功,封都亭侯」となる。
一方の曹純は蹹頓討伐(207年秋)の記事に続いて

「以前後功封高陵亭侯,邑三百戶」とある。


武帝紀によれば207年2月に「功臣二十餘人を列侯に封じた」とあり、
私は両者ともこのタイミングで亭侯になったのではないかと考える。


蹹頓討伐はそれより少し遅れるが、

205年に袁譚を破ったのには曹純に大功があり、
曹純だけ後回しにされるとは思わないからである。

 

その曹純は長坂の戦いでも劉備の家族を捕らえる働きをするが、210年に早世する。
方面軍司令官となっていく曹仁に対し、

こちらは精鋭部隊の指揮官という違いはあるが、
紛れもなく曹操軍にあって重視された人材であった。

決して、「夏侯惇曹洪曹仁夏侯淵に次ぐ”5番手”」ではなかったのである。

 

では誰が5番手か、というのを次回書く予定。