正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

昌豨② なぜ反乱出来たのか(205年/206年の曹操包囲網)

昌豨が曹操の何を不満に思ったのかは分からない。
しかし、ただ一郡/一国の主に過ぎない昌豨がなぜ反乱できたか。
しかも2度の反乱はいずれも曹操を手こずらせている。

 

※後出師の表では「曹操五攻昌霸不下」とあるが、これは語呂合わせだろう。

 

一度目の反乱は、劉備に同調したものであるため分かりやすい。
曹操劉備平定に自ら赴くと、劉備は戦わずして袁紹のもとに逃亡する。
それは予想外の展開ではあったろうが、
曹操はそのあと袁紹の侵攻を受け、官渡の地まで引き下がっての持久戦となる。
この戦いで活躍した張遼がその後に昌豨平定に乗り出すわけで、
平定は200年の末頃だろうか。
さて、劉備の反旗の時期を特定しようとすると面倒くさいことになるので
今回はスキップするが、おろらく199年の秋/冬頃だろう。
つまり1年ほどの長期戦である。


私の疑問は、「東方」を任された他の泰山諸将は何をやっていたのか、ということである。もしかしたら袁紹青州方面軍の侵攻があるなどして、そちらの対応に追われていたのか。
それとも諸将のお膝元でも県レベルの反乱などがあったのか。
少なくとも近隣の魯国はそうだったようである。
あるいは、泰山諸将は官渡の持久戦を横目に見て、洞ヶ峠を決め込んでいたのか。

 

書いてみて思ったが、意外と「洞ヶ峠」の可能性もあるのかも知れない。

 

もう一点気になることを書いておく。
前回の記事で東海王のことを書いた。
200年に死去する東海王の劉祗の子の劉琬は193年に平原相となっている。
劉琬が200年時点でも平原相であったかは不明だが、もしそうであるならば
劉琬を通じて袁紹ともパイプがあったのかも知れない。

 

(◆※追記。別の記事を書いていて気付いたが、東海国王は東海国、魯国を領有し、魯に都を置いていた。昌豨の反乱の影響は少なかったと思われる。)

 

次に二度目の反乱である。


于禁が昌豨を斬った時、曹操は淳于にいたという。
であれば、206年8月の出来事であろう。

 

これ以前、曹操は200年に官渡の戦いに勝利。
202年5月に袁紹は病死。
203年3月に曹操は黎陽を陥し、4月には最初の鄴攻撃。
撤兵すると袁氏兄弟の内輪もめが置き、
203年10月から再び北征を開始。
204年8月に鄴を平定。并州の高幹が降伏してきた。
205年1月には袁譚を斬り、その配下は降伏。
同月、幽州にいた袁尚は部下に反乱され、烏丸のもとへ逃走。

 

時間は掛かっているが、着実に河北を手中に収めている。
このタイミングで、なぜ反乱したのかと疑問に思うところだ。
だが、どうやら理由はありそうだ。

 

というのも205年4月に幽州で反乱が起き、
曹操側の幽州刺史(氏名不詳)が死亡している。
さらに鮮于輔が幽州北境で烏丸に包囲される。
曹操が自らこの対応に赴き、それを平定するのが205年8月。
そしてそのタイミングで并州刺史の高幹が反乱しているからである。

 

この反乱には奥行きがある。
荀彧伝によれば、この頃に兄の荀衍が監軍校尉として鄴の守将となっている。
そして曹操袁尚討伐に向かうと高幹が鄴襲撃の謀略を企てた。
だが、荀衍がそれを暴いて、事なきを得たというのだ。
「太祖之征袁尚也,高幹密遣兵謀襲鄴,衍逆覺,盡誅之,以功封列侯。」

 

他の記事と合わせて考えると、ここでいう「太祖之征袁尚也」とは、幽州の反乱鎮圧のことではないのか。
逆に言うと、幽州反乱も、曹操をそこにおびき出すための前哨戦なのではないか。

 

考えるべきは、205年1月の袁譚の死である。
これにより、再び袁氏の勢力は一枚岩となる素地ができた。
そして幽州では反乱が起き、袁尚の意向を受けたはずの烏丸が鮮于輔を攻撃。
さらに高幹も反逆すると同時に、鄴襲撃を計画。

それだけではない、河東郡では衛固、范先が、弘農郡では張琰、張晟(張白騎)が挙兵し、南は劉表に通じていた。
昌豨の二度目の挙兵もこの同時期だったと推測する。

 

205年4月、幽州で反乱が起きる。
205年8月、曹操が平定に赴き、鎮圧する。
同じ頃、高幹が挙兵。鄴襲撃も失敗。
同じ頃、河東郡、弘農郡で反乱勃発。劉表と連携。
同じ頃、東海国で昌豨が挙兵。

205年10月、曹操が鄴に帰還。
206年1月、曹操が高幹討伐に向かう。
206年3月、曹操が壺關を平定。
206年10月、曹操が海賊管承を討伐。淳于に至る。
同じ頃、于禁が昌豨を斬る。

 

挙兵時期に関するこの推測が正しければ、二度目の反乱も1年に及ぶ戦いだったのかも知れない。なお、この「曹操包囲網」に関しては劉表もそうだが、公孫康の動向も考察する必要がある。とりわけ、公孫氏は青州東端にも侵出していたので、昌豨と連携していた可能性はある。この時期の劉表、公孫氏の事績は整理しておきたい。