正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

諸夏侯曹の四将(夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、そして王圖)

曹操を当初から支えた四人の親族・姻族がいる。
夏侯惇夏侯淵曹仁曹洪である。
※ここでは前回見た曹純はいったん除いておく。

曹操の父の曹嵩は宦官の曹騰の養子となったが、
曹仁曹洪はそれぞれ曹騰の兄弟の孫であり、
曹操とは「はとこ」の関係にある。
祖父が宦官のため、曹操には「いとこ」はいない。
自分の兄弟を除けば、もっとも近い同世代の親族が曹仁曹洪である。

曹操の父、曹嵩の生家は不明である。
「曹瞞傳」「世語」では夏侯氏の子で、曹操夏侯惇は「いとこ」だと言う。
その真偽の議論にはここでは踏み込まない。
確かなのは、曹氏と夏侯氏はどちらも譙県を住まいとし、
代々通婚関係にあった。
そして曹操の娘の清河長公主も、夏侯惇の子の夏侯楙に嫁ぐことになる。

夏侯淵夏侯惇の族弟とされ、血縁関係は遠いようだ。
だが、夏侯淵曹操の「内妹」を娶り、
その子の夏侯衡は曹操の弟の娘を娶る。

※中文Wiki曹操夏侯淵、丁夫人 (曹操)を見ていくと
夏侯淵の妻を丁夫人の妹と推測しているようだ。
しかし晋書の琅邪王伷伝にはこうある
「澹妻郭氏,賈后內妹也。初恃勢,無禮於澹母。」
(拙訳)武陵王の司馬澹の妻の郭氏は、賈皇后の「内妹」である。
賈皇后の母は郭氏の出であるため、おそらくここでいう「内妹」とは母方の「いとこ」であろう。
あるいは夏侯淵の妻は曹操の母(こちらも丁氏)の姪であろう。

曹嵩が夏侯氏の子でないとしても、両氏はきわめて密接な間柄にあった。
そしてこの4人は早くから曹操と行動を共にした。

夏侯惇は「太祖初起」、つまり曹操が初めて挙兵した時(189年)にその副官となった。
そして翌190年には共に揚州で募兵した事績が残る。

夏侯淵は「太祖起兵,以別部司馬、騎都尉從」となる。
やはり曹操の挙兵時に付き従ったようだ。
それからしばらくは詳細な事績がないのが怪しいが
挙兵時に合流したことを否定するような材料もない。

曹仁については少し不明である。
豪傑たちがみな挙兵したころ、曹仁もまた若者を結集して千人余りを得て
淮水、泗水の領域を立ち回り、ついには曹操に合流したという。
189年の挙兵のことを指すだろうか。
それとも190年に揚州に募兵に行き、帰路に反乱を起こされて
苦労しながら豫州を通って引き返してきた頃の話だろうか。
曹仁の事績がはっきりと分かるのは、193年春の袁術との戦いからである。

曹洪曹操の挙兵時から付き従い、
徐栄との戦いにも参加していたのは有名である。

ここからが本題である。
私は正史の前に何度も吉川三国志を読んでいたが
彼ら4人はいわば「やられ役」。
だが、決して憎い敵ではなかった。
その後、正史を読み、それぞれの印象が深まっていく。
そして次に考えるのはこの4人の「序列」である。

例えば、曹操がとりわけ夏侯惇を信任しているのは分かる。
だが、彼は戦では負けが多く、漢中を任せたのは夏侯淵
荊州を任せたのは曹仁である。
曹洪は序盤はけっこう事績が残るが、
一時期を境にガクっと記述が減る。
記述量と実際の活躍が比例しないということはよくあるけれど。

今回はある尺度から4人に焦点をあててみる。
爵位と食邑という尺度である。

夏侯惇はおそらく曹操が司空になった頃(196年)、高安鄉侯となっている。
213年の公令には「高安侯」と載るが、これは間違いである。
この頃に鄉侯以上となったのは、もと群雄が帰服した場合であるとか、限定的だ。
そしてこの時、曹洪曹仁も亭侯である。
それよりさらに前、207年に夏侯惇は1800戶増邑され、2500戶を食邑とした。
曹洪曹仁がいつ鄉侯に進爵したかは書かれないが、曹操の時代の末期であろうか。
夏侯惇との違いがハッキリと分かるのは食邑の方だ。
曹丕の時代の増邑の記事から逆算すると、
曹操時代の末に、曹仁は1500戶、曹洪は1100戶であった。
一方、夏侯淵は216年に増封300戶を得て合計800戶となった。

つまり、
夏侯惇:2500戶
曹仁:1500戶
曹洪:1100戶
夏侯淵:800戶

もちろん、この数字が同年のものと断言することは出来ないが
指針と出来ると思う。

そもそも、「5番手」の曹純が207年頃に亭侯となった時、
その食邑はわずか300戶だった。
だいたい初めて亭侯となる時は、
食邑として得るのは300戶とか500戶であったようだ。
曹仁も同じくらいの時期に亭侯となっており、似たような邑数であったろう。
207年時点で2500戶の夏侯惇に比肩できる者などいないのだ。
曹操から圧倒的な信任を受けたのが夏侯惇なのだ。

では曹仁曹洪はどうなのか。
1500戶と1100戶の差をそのまま受け入れればいいのか。

それは少し違うように思う。
曹操が司空になった時、曹仁は議郎、曹洪は諫議大夫となったようである。
この二つは俸禄こそ同じだが、おそらく諫議大夫の方が格上である。
実際、初期の曹洪曹操の信任は厚かったはずだ。

たとえば197年頃、曹操が豫洲で袁術と戦っていたころ、
曹洪荊州に侵攻して張繡と戦っている。
また、官渡の戦いの末期、曹操が烏巣を急襲した際、
留守を任されたのは曹洪である。
つまり曹操にとって彼は爪牙となる部隊長ではなく、
自分の名代となる大幹部だった。

たしかに曹仁も序盤の呂布戦で「別将」として戦った事績はある。
だがこれはあくまでも同一の軍事作戦の中での別動隊としての活躍であり、
曹洪の役割とは同じではない。

だがその後、曹洪の記述はぐんぐん少なっていく。
彼は漢中争奪戦にも一軍を率いて参加しており、
決して曹操の信頼を失ったわけではないだろうが
起用される優先順位が下がっていったのだろう。

代わりに台頭したのが曹仁である。
おそらく事の理解を難しくしているのは
曹仁の活躍に関する記述の多さなのだろう。
それこそ初期の頃から、夏侯惇曹洪より活躍しているように思える。
しかしそれは部隊長としての功績に過ぎなかった。
司令官として地位を確立するのは後になってからで
その結果、食邑では曹洪を上回ったが、夏侯惇とは比べるべくもなかった。

同じことは夏侯淵にも言える。
216年時点で800戶というのは決定的な証拠なのだが
夏侯淵伝を読む限り、とてもそれを素直に受け取ることは出来ない。
その活躍はふんだんに描かれている。
確かに初期の、たとえば徐州侵攻や呂布との戦いには名を見せないが
挙兵の頃からの古参でもある。

※もっとも、「太祖起兵,以別部司馬、騎都尉從」には謎がある。
ちくま訳では「別部司馬、騎都尉として随行させ」となっているが
騎都尉の俸禄は比二千石である。
196年に曹仁がなった議郎は六百石なので、
誤字の類か、別のものか、此処には何か謎があるはずである。

具体的な事績が書かれ始めるのは
官渡の戦いの頃からだろうか。
後方支援として活躍したようで、
その後も昌豨との戦いや、樂安郡の平定への参加が書かれる。
何より目を引くのは注の魏書が言う、彼が急襲を得意とした事である。
このような描かれ方は他の武将にはなかなか無い。

さらに211年末には関西方面の司令官となり、
馬超を破り、隴右にて王を名乗って独立していた宋建を滅ぼした。
この時の曹操夏侯淵への激賞を初めて読んだ頃は、
彼こそが「4人」の中のトップなのではとも考えた。
だがこの頃、夏侯淵は食邑800戶に過ぎない。
そして亭侯となったのも212年以降、私の推測では213年である。

夏侯惇はおそらく196年頃に鄉侯であった。
曹仁は207年頃にやっと亭侯となった。
曹洪が亭侯になってのは207年よりは前でないかと思う。
荀彧や任峻が亭侯となった203年頃だろうか。
樂進や于禁は190年代に亭侯となっているようなので
彼らを指揮する立場にあったはずの曹洪
夏侯惇が鄉侯になったタイミングで亭侯になっただろうか。

夏侯淵が亭侯になったことの遅さは
やはり前半生の活躍は軍事作戦のサブ的なものに過ぎなかったのだろうか。

さて夏侯淵は211年末に関西に駐屯し、212年1月に関西諸将の梁興を斬る。
このあとの記事で亭侯となったのが触れられるが、
封爵のタイミングは少し後だったのではないか。

213年5月、曹操が魏公に命じられた時、受任を勧進した臣下が記載されている。
そこから気になる数名をピックアップしてみる。

>伏波將軍高安(鄉)侯夏侯惇
(中略)
>中護軍國明亭侯曹洪
>中領軍萬歲亭侯韓浩
>行驍騎將軍安平亭侯曹仁
>領護軍將軍王圖

夏侯淵は関西を担当するにあたって護軍將軍に任命されている。
そしてその時に爵位を持っていない。
もし梁興を斬ってもすぐには封爵されていないのであれば、
この「領護軍將軍王圖」とは夏侯淵ではないのか。

曹純は袁譚を斬って亭侯となった。
梁興袁譚とは比較にならない。
つまり梁興を斬ってもそれはただちに封爵されるほどの功績ではなく、
213年5月の時点でもまだ無爵であった。
そして曹操が魏公を受けるにあたり、その配下についても
「前後の功績をもって」封爵が行われ、夏侯淵も亭侯となった。
であれば、「領護軍將軍王圖」を夏侯淵と見なす障害は
名前がなぜこうも違うのか、だけである。
ひとつの想像として、唐の李淵を避諱するために史料が書き換えられた影響である。
実際、夏侯淵は唐代には書き換えられただろう。
それが後代になって正しい表記に修正される際に上手くいかなかったということか。
夏侯淵を「王圖」と取り違える可能性はあるのか。
このあたり、色々と推測したことを書いても時間を浪費するだけなのでやめるが
この時期に護軍將軍、しかも無爵であれば夏侯淵と考えるのが自然と思う。

私が15年くらい前に三国志のブログ関連を見ていたころ、
この王圖の正体についての考察も見た記憶がある。
たとえば曹操に重用された人物には王必など、事績のあまり残らなかった者もいる。
そうした王姓の誰かである可能性も否定できないが
曹洪、韓浩、曹仁の並びに続くのは夏侯淵であろうと一度考えてみても良さそうだ。

これまで見たように、夏侯淵は最古参ではありながら
その引き立てについては遅まきの人であった。
しかし曹操の時代の後半に差し掛かると大役を負うようになった。
楽進は一時期、荊州関羽の相手をした。
張遼は揚州で孫権を撃退した。
しかし結局のところ、曹操が真に信頼するのは親族集団であった。
217年には夏侯惇が揚州方面の責任者となる。
曹仁荊州に戻る。
そして漢中を任されたのは夏侯淵である。
だが彼は劉備には勝てなかった。
それは夏侯淵が「5番手」だったからだろうか。
そうは思わない。
遅まきとして、しばらく「5番手」だったのは事実だろうが
秦朧平定時の彼の功績は疑うべくもない。
曹操の時代の末期においては紛れもなくエースであったろう。

だが劉備曹操の好敵手なのである。
三国志の時代は真の英雄がいなかったために
統一がなされなかったと言う人もいようが
英雄が複数いたために統一が阻止されたのだと私は思う。

曹操没後、夏侯惇も後を追うようにすぐに亡くなり、
曹仁も数年して亡くなった。
曹洪は実務を離れた。
もし曹純が生きていたら、曹丕の死去時においてもまだ50代である。
夏侯淵の生年はいつだったのだろうか。
曹純くらい若かっただろうか。
もし夏侯淵が生き延びていたら、
曹丕の時代、曹叡の時代にまだまだ活躍したことだろう。