正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

東郡太守の謎(夏侯惇、臧洪)

山東諸侯が挙兵した時、兗州の東郡太守は橋瑁であった。
その橋瑁は不仲であった兗州刺史の劉岱に殺害される。
191年、董卓長安に撤兵することにより
団結するための脅威を失った山東諸侯は
豫州刺史の孔伷の後任をめぐって内紛を始める。
おそらく橋瑁が殺害されたのも同時期だろう。
後任は王肱なる人物で、劉岱の配下であろうか。

同年の冬であろうか、黒山賊が魏郡、東郡を荒らすと、
袁紹曹操を東郡太守に任命し、東武陽を治めさせた。
このあと曹操は192年の春にかけて黒山賊を平定するのだが、
最初に根拠地とした東武陽とは黄河北岸の県である。

 

私のように三国志のゲームなどに触れた者は誤解しそうなことだが、
後漢における東郡は、黄河をはさんで南北の領域を版図とする。
黄河は時代によって大きく流路を変える河川であり、
前漢の頃は黄河の流路に沿って東郡の北境が定められたようだ。
それが西暦11年に流路を変え、
東郡のど真ん中を突っ切るようになった、ということのようだ。

 

その郡境・州境が黄河に沿って再編されるのは212年のことか。
213年、曹操は魏公に任命されるが、
その前年に魏郡の版図を大幅に拡大する措置が取られている。
この時、黄河北岸にあった東郡の諸県(衛國、 頓丘、東武陽、發干)が
魏郡に編入されている。

 

さて、192年春、曹操は東郡を平定した。
そして時を置かずして黄巾賊が兗州に侵入して劉岱が戦死すると、
陳宮兗州の別駕従事、治中従事を説得して、曹操を後任として担ぐのだ。
おそらく、夏侯惇はこの時に「折衝校尉,領東郡太守」となった。

 

曹操は192年冬に黄巾賊を平定。
193年春には袁術の侵入を撃退。
193年秋以降は徐州への侵攻を開始する。
徐州侵攻は2度あり、
一度目は193年の秋から194年の春まで。
二度目は194年の夏だが、この時に兗州で大反乱が起こり、
曹操は帰還を余儀なくされる。
この徐州侵攻の時(どちらの侵攻時か不明だが)、
夏侯惇黄河南岸の東郡の濮陽県を守っていたという。

張邈、陳宮呂布に主導された兗州の「反乱」は長きにわたり、
この三名を兗州から追い出したのは195年の中頃である。
ただし、張邈の弟の張超だけが陳留郡の雍丘県に立てこもり、
その包囲戦が終結したのは195年の12月であった。

 

ここで注目したいのが「東郡太守」の臧洪である。
この頃、臧洪は東郡太守として黄河北岸の東武陽にいた。
臧洪にとって張超は旧主であり、
張超の方も包囲戦の最中、臧洪が援軍として駆けつけてくれることを期待した。
だが、臧洪の「現主」は袁紹である。
臧洪は袁紹に張超救援を要請するが、袁紹は拒絶。
臧洪は東武陽県に籠城して袁紹と戦い、敗北後に処刑された。

 

臧洪の経歴を振り返る。

張超は廣陵太守だが、董卓打倒のために挙兵すると、
陳留郡の酸棗に駐屯した。
そこには廣陵郡功曹の臧洪も帯同していた。
その臧洪は幽州牧の劉虞のもとへ使者として赴くことになったが
おりしも冀州では袁紹公孫瓚の戦いが勃発しており、
臧洪は袁紹に引き留められることとなった。

 

それと同時期なのか、青州刺史の焦和が死亡し、
袁紹は臧洪をその後任とした。
臧洪は州にいること2年、群盜は逃げ去った。
袁紹は臧洪を東郡太守とし、東武陽に政庁を置かせた。

 

ここでいう「2年」というのがクセモノである。
三国志や晋書を読んでいる感覚からすると
これは24か月かその前後の期間、を必ずしも意味しない。
2年に跨っていれば半年でも「2年」と書かれるケースがあると考える。
また、「2年で群盜を鎮圧した」というだけで、
刺史の在任期間は2年以上だったという解釈もあり得るかどうか。

 

臧洪についてもう少し細かく考えていく。
劉虞への使者となったのは、
もちろん劉虞を皇帝として奉戴する件についてだ。
そしてその件を相談するのであれば、
袁紹公孫瓚の抗争が激化する前のはずだ。
界橋の戦いは192年春なので、使者となったのはそれ以前だろう。

 

では焦和が死亡したのはいつか。
これは難しい問題なので、臧洪の方から考える。
臧洪が刺史であったのは
①「191年と192年」なのか、
②「192年と193年」なのか。

 

さて、ここで兗州方面の時系列を振り返る。

191年冬頃:袁紹曹操を東郡太守とした
192年秋頃:曹操兗州刺史となり、夏侯惇が東郡太守となった。
193年秋頃:徐州侵攻その1。夏侯惇黄河南岸の濮陽にいた?
194年夏頃:徐州侵攻その2。夏侯惇黄河南岸の濮陽にいた?
194年秋頃:兗州反乱を受け、曹操が帰還。
195年秋頃:呂布らを追放。張超のみ残る。
195年冬頃:雍丘包囲戦。同時に東武陽包囲戦。

 

①「191年と192年」だと妙なことになる。
臧洪、夏侯惇がともに192年に東郡太守に就任ということになる。
この頃、袁紹曹操は密接な協力関係にあった。
互いに太守を立てて争う、ということは起きなかったはずだ。

 

では②の「192年と193年」ならばどうか。
193年、曹操が徐州侵攻するに際して
夏侯惇は東郡太守ではなくなった。
そして臧洪が東郡太守となった、のだろうか。
この頃、夏侯惇は東郡の黄河南岸領域の濮陽にいた。
同じ領域の范県令は靳允、東阿県令は棗祗であり、
兗州反乱の際に曹操に背かなかったのは
濟陰郡の鄄城と、東郡の范、東阿の三県である。
この領域が兗州の中でも曹操の本拠地であったと言える。
であれば、黄河南岸領域は臧洪の介入を許さなかったはずだ。

 

今から10年以上前、このことについて最初に考えた時、
袁紹曹操とで2つの東郡を設けたのではないかと推測した。
その可能性もあるかも知れないが、
南岸領域について別の郡を立てたと考える方が自然だろう。
思い出すべきは、後に李典が「離狐太守」なる
耳慣れない郡の太守になっていることだ。
離狐県は濟陰郡の北境にあり、東郡のすぐ傍にある。
もしかしたら夏侯惇はこの時、「離狐太守」となったのではないのか。

(※記事末尾の追記参照)
その「離狐太守」は濟陰北部の離狐や鄄城、
さらに東郡の黄河南岸の濮陽、范、東阿などを版図としたのでは?

 

離狐太守については推測の部分が大きい。
ここで言える確かなことをまとめて終わりとする。

 

・臧洪が東郡太守となった193年頃である。
・この時、夏侯惇は東郡太守ではなくなったはずである。
・東郡の黄河南岸の一帯は、臧洪の介入を受けずにずっと曹操が支配したはずである。

 

★※追記

荀彧を見たら、兗州反乱の際に荀彧は東郡太守の夏侯惇を召した、とある。

ふと記憶が蘇ったが、10数年前にこの事を考えていた時は

それにも気づいており、だからこそ「2つの東郡があったのでは?」

そう思ったのだった。

あるいは、194年の兗州反乱の際に夏侯惇は東郡太守でなくなり、

臧洪が東郡太守となったのか。

であれば、臧洪が青州刺史だったのは「193年と194年」なのだろうか。

前任の焦和が193年まで存命とは思えないのだが。

このあたりのことは別の機会にまた検討したい。