正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

豫州刺史の郭貢

三国志の一か所にしか登場しない豫州刺史の郭貢。
後漢書にも一か所登場するが、明らかに三国志の記事の流用である。
兗州に反乱が起きた194年夏頃、郭貢は豫州刺史だった。

 

事の経緯はこうである。
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194年夏、曹操は二度目の徐州侵攻に打って出る。
根拠地の鄄城を守るのは荀彧である。
そこへ陳留太守の張邈から使いが来て、
呂布将軍が加勢に来たので軍糧を補給して欲しい」と言う。
荀彧はこれを謀略と気づき、濮陽から夏侯惇を呼び、防備を固めた。
諸郡県はみな呂布になびいた。
荀彧は内通者をあぶりだし、処刑する。
すると豫州刺史の郭貢が数万の兵を率いて鄄城に到着。
人々は郭貢が呂布に通じているかと疑った。

 

この時の荀彧の考えは
・郭貢と張邈は日ごろの立場からして、通謀しているはずは無い
・郭貢がこうも早く来たのは策略が定まっていないからだ
・であれば今のうちに説得すれば、少なくとも中立にはさせられる
・郭貢を疑えば、彼は怒り、策略を成すであろう。

 

荀彧が落ち着き払って郭貢と面会すると
郭貢は鄄城は容易に攻め落とせないと悟り、撤退した。

 

その後、荀彧は范県、東阿県を説得し、
鄄城と合わせたこの3県が謀反に与せずに曹操の帰還を待った。
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郭貢はこのあと、史書には登場しない。
謎の人物である。

さて、彼が「袁紹派の豫州刺史」なのか、
袁術派の豫州刺史」なのか、想像したことのある三国志ファンは多かろう。

 

ここで気にしておきたいのは下記の点である。
・誰に任命された刺史なのか
・いつ任命された刺史なのか
兗州反乱の当初、どこに居たのか
豫州を実効支配していたのか
兗州反乱後の郭貢の行方

 

さて、豫州刺史の郭貢は、豫州にいたのだろうか。
鄄城は現在の山東省菏澤市鄄城縣であろう。
そこから一番近い豫州の郡は梁國であろう。

 

この時期、梁には梁王の劉彌がいた。
彼の後漢末の動向は不明である。
梁國は建国時に陳留郡の郾、寧陵,
濟陰郡の薄、單父、己氏、成武の合計6県を編入している。
西暦93年、成武、單父が削られた。
もしそれがこの時まで継続していた場合、
鄄城に一番近いのは薄県であろう。
これは現在の山東省菏澤市曹縣の少し南にある。

 

もし仮に郭貢が梁國薄県にいたとして、
鄄城との距離はおよそ80キロメートルである。

郭貢は兵数万を率いていた。
通常の進軍であれば、3~4日の距離だろうか。
しかし荀彧は「郭貢が早く来た」と言っているので
最初の異変から2日ほどで来たのかも知れない。

 

数万の兵を率いて、80キロの距離を急いできた。
計画も定まらないままに。

 

ここで1つの答えが出せる。
郭貢は袁術の息がかかった刺史ではないということだ。
曹操袁術は193年春の交戦以降、ずっと仇敵でありつづた。
曹操の挙兵時の軍師であった周喁は豫州刺史となり
袁術孫堅と争った。それを含めれば遺恨は更に遡る。)

 

193年に長安政権の取り計らいにより
関東諸侯間の融和が図られたが
それを受けての小康状態の中にあっても
悠々と敵地の中を80キロも進軍することは考えにくい。

 

つまり郭貢は袁術方ではなかった。
更には、何らかの理由で兗州領内に駐屯していた可能性もある。
その場合は、ますます袁術側の人物ではない証明となろう。

 

では郭貢は袁紹に任命された人物だったのだろうか。
荀彧が「張邈とは通謀するはずがない」と断じたのがヒントだ。
袁紹と張邈は憎み合う関係だった。
そして郭貢が袁紹の意を受けた人物だったなら
たしかに張邈が陰謀を相談する相手にはならないだろう。

 

ただし疑問は残る。
この頃、袁紹曹操は密接な協力関係にあった。
徐州侵攻に際しては袁紹は朱靈を送り出して援軍としている。
もし郭貢が袁紹と関係の深い人物ならば
そもそも勝手な判断で鄄城を攻撃することはあるまい。
そして荀彧も、郭貢個人だけでなく袁紹の意思を考察するはずだ。
だがそれに関する記述は出てこない。
荀彧は「郭貢を中立にできないか」と思い、面会するのだ。
袁紹側の人間ならば、味方につけようとする判断もあるはずだが
それは描かれない。

 

では彼は何者なのか。
第三の可能性として、長安政権の送り込んだ刺史なのだろうか。

 

192年6月以降、李傕が長安政権を牛耳っている。
しかしそれ以降、194年2月の馬騰らとの交戦までは
安定した政権運営が行われていると言ってよい。

 

一方、192年、劉岱が戦死すると
曹操陳宮らに推されて兗州刺史となった。
それを知ってか知らずか、長安政権が送り込んだ刺史が金尚。
すでに曹操兗州を支配したことを知った金尚は
南陽郡の袁術のもとに身を寄せる。
そして袁術はその「正式な兗州刺史=金尚」を担いで
兗州に侵攻する。193年の春である。
だが曹操に撃退され、揚州まで逃走して身を落ち着ける。
この際に揚州での戦闘についての考察はスキップするが
少なくとも次のことは言える。
後に天子を僭称する袁術ではあるが、
この時点では「朝廷に任命された正式な刺史」を担ぐという
大義名分に考慮した振る舞いを取っていた。ということだ。

 

揚州についた袁術孫賁豫州刺史に任命する。
(それ以前から任命していた可能性もあるが、
今回の議論に影響はないのでそれも割愛。)
だが、しばらくして孫賁は丹楊都尉に転じる。
それは何故なのか。そして後任は誰か。
私の推測では、おそらく袁術は後任を任命しなかった。
後任は長安政権が選んだ。
それが郭貢なのかも知れない。

 

というのも、おそらく同じ頃、劉繇が揚州刺史となる。
劉繇は袁術を警戒し、州の政庁(九江郡陰陵県)に行かず、
江南へと渡った。
そのため、孫賁と呉景とが劉繇を呉郡の曲阿県に落ち着かせた。
もちろん袁術の意向を受けてだろう。
袁術長安政権と事を構える段階ではなかった。

 

長安政権についても言及するならば、
袁術が揚州の州都を抑えていたにも関わらず、
刺史を送り込んできたのである。
豫州にも刺史を送り込んでいておかしくない。
まして豫州は四分五裂な状況であるのだから。

 

もし郭貢が長安政権に任命された刺史ならば
融和策の取られた193年半ば頃の着任だろう。
だが、そもそも着任できたのかどうか。
宋書によれば、後漢時代の豫州の政庁は沛國譙県にある。
192年の沛國相は袁忠である。
また西南方には汝南太守の徐璆がいる。
両者とも陶謙と協力しており、
193年の曹操の徐州侵攻に巻き込まれた。
ただし譙県は沛國の西境にあり、
意外と混乱状況にはなかったかも知れない。
だが、問題は距離である。
譙県は安徽省亳州市にあたり、鄄城からは190キロである。
何の計画もなしに荀彧に会いに来る距離ではない。

 

※ふとここで考えたが、もしかしたら譙県にいなかった理由が
別にあるかも知れない。
この頃、譙人の許褚は「若者および宗族數千家」を集め、
砦を作って立てこもり、「汝南葛陂賊萬餘人」と交戦している。
汝南の賊の侵攻があったから、
あるいはそれと対抗するために武装化した譙人集団がいたから、
刺史は譙県に近寄れなかったのかも知れない。

 

では、長安政権の任命した刺史だとして、なぜ鄄城近くにいたのか。
場合によっては兗州領内に駐屯していた可能性もある。

 

それは豫州の州都に近寄れないこともあるが
曹操と何らかの協力関係にあったからなのではないか。
たとえば、193年の徐州侵攻直前、曹操の上奏により
長安政権は陶謙に軍隊の解散命令を出した(陶謙伝注の呉書)。
裴松之はこれをあり得ないこととして一笑に付しているが
もしかしたら曹操長安政権との結びつきを強化していて
豫州の安定化や、郭貢のバックアップも命じられていたのかも知れない。

 

それは想像に過ぎるのかも知れないが、
長安政権の任命した正式な豫州刺史=郭貢と同盟し、
兗州領内に駐屯させた、というようなレベルの推測は成り立つだろう。

 

ただこの場合、荀彧が「郭貢と張邈は通謀し得ない」
とした根拠が不明となる。
もし兗州領内に数万の兵を持つ郭貢がおり、
なおかつ張邈とも仇敵関係にないのであれば、
味方にするか、敵とするか、反乱計画時に当然考慮されたはずだ。
荀彧も張邈の息が掛かっていないか心配せねばならない。

 

だが、もし袁紹派の人物だったというのであれば
荀彧が郭貢を味方に引き込もうとせずに、
なんとか中立でいてもらおうとだけ試みたのは不自然となる。

 

一方、郭貢は何を考えていたのか。
とにかく、彼は袁術派ではない。
袁紹派であるにしろ、長安政権の任命であるにしろ、
曹操とは協力関係にあった。
だが一夜にして兗州に陰謀が渦巻き、
先行きが見通せなくなった。
そこで荀彧の様子を伺いにきた。
豫州攻略に向けて、曹操や荀彧とは面会を重ねていたはずだ。
だが豫州入りはなかなか実現しない。
そして兗州は次に誰を主として戴くか分からない。
自分は数万の兵を擁している。
曹操は無事に徐州から帰還するかも不明である。
もし鄄城の吏民が動揺しているのであれば、
そのまま自分が鄄城を乗っ取り、曹操の家族を保護し、
曹操の帰還を待つにしろ、呂布と手を組むにしろ、
キャスティングボードを握る立場になる。
兗州を号令する立場にだってなれるかも知れない。

 

これもまた想像である。

 

さて、郭貢は撤兵し、その後は不明である。
あるいは兗州の戦いに飲み込まれて戦死したか、
あるいは豫州に進出して横死したか。

 

195年以降の豫州刺史を考える機会があったら、
その時にまた触れてみたい。

 

長くなりすぎたのでそろそろ終わりとするが
最後に劉備についても触れておかねばならない。

 

曹操が徐州に侵攻すると、劉備陶謙に加勢し、
陶謙劉備豫州刺史に任命した。
これが最初の徐州侵攻後なのか、二回目の後なのか。
それは課題である。
だが、刺史並立の状況にあったのは間違いない。
郭貢が長安政権の送った人物ならば
陶謙はそれに対してNoを突き付けたことになる。
そんなことはあり得るだろうか。
いや、曹操と完全に死闘を繰り広げているので
曹操に味方する刺史もすべて敵であろう。
当然、Noを突き付けたはずだ。
そして戦闘終結のあかつきには
朝廷に対して郭貢の罪を列挙したことだろう。

 

書き始めた時は、鄄城と豫州の距離のことだけ書こうと思ったが
書いているうちに意外と多くの発見があったように思う。

 

最後にまとめ
・郭貢は袁術とは関係性がない
・郭貢は曹操と協力関係にあった
・郭貢は兗州領内または豫州最北部にいた
・それは豫州が乱れていたためだった
・郭貢と袁紹との関係は確言しがたい
・郭貢は長安政権に送り込まれた刺史の可能性も考えられる
・その場合であっても、劉備豫州刺史とは矛盾しない