正史三国志を読む

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涼茂③

涼茂は遼東半島から戻り、魏郡太守となる。
207年末頃ではないかと推測する。
このあと甘陵相に異動となった。
このあたりの細かい事績は記載されないが、
魏郡太守、甘陵相として業績をあげたという。
その後、曹丕が五官將となるとその長史となった。
おそらく初代の長史であろうから、
211年1月の就任であろう。


つまり、
207年末に魏郡太守就任
209年末に甘陵国相に就任
くらいのイメージで良いだろうか。

 

こうして書いてみると立て続けの異動となるため
魏郡就任をもっと前倒しにしたくなるが
いずれにしても推測にしかならないため考察は割愛する。

 

では、甘陵国相への異動について考えてみる。
甘陵国は清河郡という呼び方のほうが私には馴染みがある。
清河は148年に甘陵へと名称を変え、
劉理が初代の甘陵王となった。
劉理の祖父は河間王の劉開であり、
後漢の11代皇帝の桓帝とは「いとこ」にあたる。
また、12代皇帝の霊帝の父=劉萇の「いとこ」でもある。
霊帝、そして献帝とは極めて近しい血筋だった。
なお、第3代の甘陵王の劉忠は
中平年間の最初の黄巾の乱の時に捕虜になったことが有名だ。
その劉忠は189年に死亡し、後継ぎはなかったが、
国が正式に廃されたのは206年になったからだった。
もし献帝に男子が多ければ、
甘陵王を嗣がせるという判断もあり得ただろうが。

 

名称が清河に戻るのがいつかは分からない。
また、国でなくなったのなら
甘陵相ではなく甘陵太守と書くべきだが
このような取り違えは多いため
特に気にする必要はないだろう。

 

などと長々と書いてみたものの
甘陵への異動は良く分からない。
前後に太守となっている者も不明で
また反乱などの情報もない。
だが、魏郡太守ほど重要視されないのは当然。
では左遷されたのかと考えたくなる。

 

だが211年1月、曹丕が五官將となると
その長史となった。
曹操が自分の長子を預ける相手として選んだということだ。
そして涼茂が左軍師に移ると
後任の長史は邴原である。
名士の中でも一番の大物と言っていい。
こうして考えてみると、
甘陵太守となったのも左遷ではなく
何らかの特別な理由があったのかも知れない。

 

さて、左軍師である。
曹操が212年頃に選抜した五軍師(四軍師)。
これについては別に記事を書きたいと思うので
さらっとだけ触れよう。
このメンバーは、荀攸鍾繇、毛玠、そして涼茂である。
軍師という名称からの印象とは異なり、
決して軍事のスペシャリスト4名ではなく、
曹操陣営の最高幹部4名という布陣である。
ここに涼茂が入ることに違和感がないとは言えない。
だが、ここに涼茂がいることから
涼茂がどういう存在だったかということが類推できる。
前の3名と異なり、
涼茂は太守を歴任したに過ぎず、
曹操の側近であった期間も極めて短期であった。
おそらく涼茂には何か秘密の功績が多かったに違いないのである。

 

そしてこの五軍師(四軍師)の制度は瞬く間に姿を消す。
213年5月、魏公国の設立によってどうやら廃止されたようだ。
すると荀攸は魏の尚書令、
毛玠、涼茂は魏の尚書僕射となる。
魏公国の政権トップである。
鍾繇だけ尚書チームには入らずに廷尉となるが、
それは彼が法律のスペシャリストであったからだろう。

 

さて、もし涼茂がこのあと、
荀攸のあとを継いで尚書令にでもなったなら、話は分かりやすい。
だがそうはならなかった。
以下、推測を絡めて時系列を追う。

 

214年に荀攸が死亡した時の後任は、劉先であろうか。
216年に中尉の崔琰が失脚すると涼茂がその後任となる。
同年、九卿の1つとして奉常が新設されており、
その初代は王朗かと思うが、
鍾繇が相国となると、王朗が廷尉となり、
涼茂が2代目の奉常となる。

 

ここまで、216年の出来事と推測するが、やや慌しい。
216年はおそらく丁儀が曹操の側近として権力を振るった時代であり、
それもこの異動の乱発に関係しているのだろうか。
涼茂は曹丕と近しく、丁儀は曹植派であった。
なにか曹操に吹き込んだりしたのか。
曹操の中で涼茂への評価はどうなっていたのか。
よく分からない。

 

だが次の異動は明らかに曹操の真意をくみ取れるものだ。
217年10月、曹丕が魏の王太子となると
涼茂が太子太傅となるのだ。
その後、太子太傅のまま死去する。
正確な没年は不明である。

 

涼茂がおよそ4年ほどの間、
左軍師、そして尚書僕射を歴任したのは
曹操が彼を政策ブレーンとしても実務家としても評価していたのだと思う。
崔琰失脚後の中尉も同様である。

 

では奉常就任はどうなのか。
奉常は祭祀、儀礼を司り、博士の試験も行う。
これは涼茂の知識人としての能力を買ったものと言えるだろうか。
涼茂伝のはじまりに
「若くして学問を好み、論議する際には常に経典に依拠した」
そう簡単に書かれているが
涼茂の学識能力は、決して侮れるものではなかったということだろうか。
政策決定の中枢からは外れることとなったが
必ずしも左遷とは言い切れないかも知れぬ。

 

そして太子太傅である。
これとて政策決定には預かれないものだが
名誉としては最大のものであり、
曹操が息子を涼茂に預けるのは二度目であり
これほど信頼を示していることはあるまい。
もし涼茂が長く生きていれば、
曹丕政権において特別に扱われていただろう。

 

さて涼茂は曹丕からとても尊敬されており、
曹丕の「八友」としても名を残している。
もっとも具体的な逸話はなく、
あまり推測できることもない。

 

最後に、涼茂の年齢を考えてみよう。
涼茂は若い頃の事績はほとんど書かれず、
始めて仕官したのも曹操が司空になった196年以降である。
しかしそこで成績優秀者としての推挙を受ける。
もしそのような極めて優秀な人物であれば
もっと早く、180年代に公府に召されても良いように思うが
それがなかったのは、すごく若かったからではないのか。
たとえば170年生まれくらいかも知れない。

曹操は自分たちより一世代若い郭嘉が死去したとき
その早世を嘆いたが、郭嘉が170年生まれである。

五軍師を振り返って見ると、
荀攸鍾繇曹操の同世代であり、
毛玠、涼茂は不明である。
毛玠はそれなりの年齢の気はするが。
もしかしたら涼茂は彼らより少し若かったかも知れない。

 

今日のまとめ
・涼茂は曹操陣営の最高幹部の一人だった
・政策ブレーンとしても、実務家としても評価されていたのではないか
・その後、政策決定の中枢からは外される
・それはもしかしたら丁儀の影響もあるのかも知れぬ
・涼茂は学者としてのスペックも高そうである
・太子太傅となり、曹操から最大限の信頼を受けていたことは変わらなかった