正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

崔琰の官職変遷を整理する

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崔琰は冀州の清河郡(甘陵国)、東武城県の人である。
若い頃は武事に励み、学問を志したのは遅かった。
29歳になって鄭玄に学んだが、黄巾賊が北海郡を破ると疎開した。
その後、鄭玄と別れて各地を放浪したあと、帰郷した。
大將軍の袁紹に召されて騎都尉となったが
曹操と敵対した際、慎重策を説いたが聞かれなかった。
袁氏兄弟が争うとそのどちらにも着かず、幽閉された。
曹操冀州牧となると、その別駕從事となった。
曹操が丞相となると、東西曹掾属、徵事となった。(※後述)
魏公国が建つと尚書となった。
崔琰の兄の娘は曹植の妻となっていたが、
曹丕曹植の後継者争いでは曹植に肩入れしなかった。
中尉に異動となった。
その後、曹操のことを誹謗したと報告され
投獄されたあとに死を賜った(一説では、自殺した)。
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今日は簡単に、気になるところだけメモしていく。

 

崔琰が袁紹に仕えたのは意外と遅い。
196年末以降、おそらく197年頃だろうか。

 

曹操に仕えると、まず冀州の別駕從事となる。
州の属官の幹部と言えば、別駕從事と治中從事がある。
別駕は刺史とは別の車に乗る、州の副長官であり、
治中は事務方トップのようである。
冀州曹操冀州牧となったので
実際の州長官としての役回りは崔琰が担ったのかも知れない。
いきなりの大抜擢である。

 

このあとが本題である。
原文は「太祖為丞相,琰復為東西曹掾屬徵事。」
ちくま訳では「東曹→西曹→徵事」と異動になったように書かれる。
そのあと、東曹になったときの曹操の任命文を載る。

 

だが、この解釈はおそらく間違いである。
邴原には徵事のことが詳しく書かれている。
まず獻帝起居注によれば、徵事は210年に置かれた。
任命されたのは邴原と王烈だという。
そして崔琰が東曹掾に任命された時、これを辞退して
代わりに徵事の邴原、議郎の張範を推薦したという。

 

また、毛玠伝も注意する必要がある。
曹操が司空・丞相となると,毛玠はその東曹掾となった。
毛玠と崔琰が人事を担当し、
その用いるところはみな清正之士であったという。
のちに東曹、西曹のいずれかを廃止することになると
群臣はみな東曹の廃止を具申した。
これは毛玠の厳格さを嫌ったためである。
曹操はそれを悟り、西曹の方を廃止した。

 

まず徵事の方を考えよう。
当初任命されたのは邴原と王烈だが
王烈は遼東にあって、けっきょく中原に戻ってこれなかった。
つまり実際に任命されたのは邴原と崔琰であろう。

 

そして崔琰が東曹掾に任命された時、
徵事の邴原に譲ろうとした。
つまり、崔琰は徵事になったあと、東曹掾に転じた。

 

次に毛玠を考えよう。
毛玠は右軍師となるまで(212年頃)、
長らく東曹掾であり、他の官には移っていない。
そして崔琰と共に人事を担当した。
崔琰が別駕として冀州人を推挙していたことを指す可能性もあるが
毛玠が東曹、崔琰が西曹を同時期に務めていた可能性は高い。
少なくとも崔琰伝には「為東西曹掾」とあり、
また、この時期に他に西曹となっている有力人物はいなかったと記憶する。

 

以上を踏まえて整理する


・196年、曹操が司空、毛玠が司空東曹掾となる。
・204年、曹操冀州牧を兼任。崔琰が別駕となる。
・208年、曹操が丞相、毛玠が東曹、崔琰が西曹となる。
・210年、邴原と崔琰が徵事となる。西曹は廃止。
・212年頃、五軍師を設置。毛玠が右軍師、涼茂が左軍師となる。
→崔琰が毛玠の後任で東曹、邴原が涼茂の後任で五官將長史となる。
※おそらく徵事はこの時に廃止。
・213年、魏公国が建ち、崔琰は尚書となる。
・214年/215年頃(?)、崔琰は中尉に異動。
・216年頃、崔琰は投獄されたあと、死亡。

 

書き終わってから三国志集解を見てみたが
そこでは崔琰の異動を「西曹→東曹→徵事」の順に解釈しているが
これは通鑑を根拠としている。
だが、邴原や毛玠との整合性を取っていないため
信用に足りない。

 

なお、この時期だと何夔も東曹掾になっているため、
何夔の考察は必要となるだろう。
ただし、今のところの私の考えでは
213年に崔琰が尚書となった際に
何夔が後任として東曹掾になったのではないかと考えてる。

 

※なお、従弟の崔林もまた別駕となっている。
タイミングによっては崔琰の後任が崔林の可能性もあり、
そうであれば名誉なことだが
それは別の記事で検証することにした。