正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

鍾離斐③(鍾離牧、黎斐、孫鍾)

前回の続き。


実のところ、前回を書くまでは
鍾離斐が黎斐と書かれたのは孫鍾の名を避けたために違いない、
そうひそかに盛り上がっていた。

 

だが、王昶伝に鍾離茂を斬った、とあるのは
鍾離茂がなにか名前に関するものを身に着けていたとか、
魏の捕虜となった呉の兵が魏側に鍾離茂の名を伝えたとか
いくつかの理由が考えられるが、
いずれにしても改姓まではしていなかったと思われる。
もちろん改姓していたうえで
三国志編纂の際に陳寿
「離茂」なり「黎茂」なりを鍾離茂に直した可能性はゼロではないが
あまり考えにくい。
となると、孫鍾の名は関係ないのかとも思えてきてしまった。

 

取り合えずは先に進めよう。
三国志呉書において他に「鍾」が使われている箇所を調べるのだ。
三国志呉書は呉の時代に書かれた韋昭の呉書が元ネタだ。

 

三国志呉書と韋昭の呉書の考察は別の機会にやる必要がある
ただし、素人の私がやる仕事でもないし
すでに専門家の誰かがやっていることだろう。

 

結果、およそ9か所ほど見つかった。(数え方にもよる)

 

①吳主伝注の吳歷:「茂本淮南鍾離長」
孫亮伝:「將軍鍾離牧率軍討之」
孫皓伝注の弁亡論:「丁奉、鍾離斐以武毅稱」
④士燮伝:「出入鳴鍾磬」
朱然伝:「自創業功臣疾病,權意之所鍾,呂蒙、淩統最重」
朱桓伝注の文士伝:「南嶽之幹,鍾山之銅」
虞翻伝注の虞翻別傳:「傍聽鍾鼓侃然之樂」
虞翻伝注の會稽典錄:「魯相山陰鍾離意」
⑨鍾離牧伝および評:「鍾離牧/鍾離子幹」

 

このうち①吳歷、③弁亡論、⑥文士伝、⑧會稽典錄は
晋代の成立と思われ、鍾は避諱ではなかったろう。

 

④⑦の「鍾磬」「鍾鼓」はおそらく「鐘」の字が正しい。
鍾と鐘の間違いはよくあるらしい。
ただ、鍾が避諱の場合、鐘はOKとなるのかがよく分からない。
発音的にNGなのではないか。
いずれにしろ、鐘を打ち鳴らしたというのは文脈から分かるので
陳寿が修復出来たであろう。

 

⑤はどうか。
「自創業功臣疾病,權意之所鍾,呂蒙、淩統最重」
(訳)呉の創業以来、功臣が病気となった中で、
孫権が気遣いをしたのは、呂蒙、淩統が最も重かった
(そして朱然はそれに次いだ)

 

「權」と孫権の名を書いているのは
陳寿が書きかえたのか
それとも陳寿自身が書きおこした箇所なのかは不明である。
どちらとも言えない。

 

以上、何とも言えない、というだけの結果となった。

 

さて、気になるのは⑥の文士伝である。
※これが先日、文士伝について調べたきっかけである。

 

文士伝はおそらく東晋時代の成立である。
であれば、「鍾」を使うのは問題ないが
問題はこの頃「鍾山」は「蔣山」に改名されている。

 

私が言っているのは建業近郊の「鍾山」のことである。
もし文士伝に出てくるのが、同名異山であれば問題はない。

 

さて、鍾山は現在は紫金山と呼ばれているようだが。
その鍾山が蔣山に改名されたのは孫権の時代で、
搜神記に出てくる蔣子文が原因だという。

 

蔣子文は後漢末の役人で、鍾山で賊に殺された。
孫権の時代になると化けて出るようになり、
自分の祠を立てよと言う。
しかし聞き入れないでいると「ならば火事を起こしてやる」言い、
本当に火災が頻発した。
そこで孫権は蔣子文を祀り、鍾山を蔣山に改名した。

 

もちろんこんな話は信じることは出来ない。

 

元和郡縣圖志を調べると、改名の理由には蔣子文の名を挙げるが、
宋の時代にまた鍾山に戻されたとも言う。

 

紫金山の中文Wikiを見てみると
蔣山への改名の理由について蔣子文に触れる一方で
「別說孫吳政權同時考慮避諱問題」
(訳)別の説では、孫呉政権は同時に避諱問題を考慮した
とも記されている。
典拠は不明だが、これは孫鍾のことを言っており
つまりこれを考えたのは私だけではないということだ。

それが私のような素人の想像なのか、
学界で主張されていることなのかは不明だが。

 

だが、鍾離斐について書くとき、
孫鍾の避諱の問題があったよね、ということは
今後はもっと言っていっていいのかも知れない。


文士伝の問題に戻るなら、
そこで記述された話は、朱異の子供の頃の逸話である。
文士伝が書かれたのは東晋の時代で、
その頃は蔣山へと改名済みだが
記事には鍾山と出てくる。
では、その逸話の頃は鍾山だったということか。


朱異の正確な生年は不明だが
その父親の朱桓は177年生まれである。
もし朱異が210年生まれだとすると
例の逸話があったのは220年代の前半か。
孫鍾の避諱の問題が生じたのは
孫権が皇帝に即位した229年であろうか。
あるいは呉王となった221年であろうか。
いずれにしても朱異の生年次第でもあり、
特に違和感はない。


問題は、なぜ文士伝が鍾山と書いたか、である。
伝聞をもとに著述したなら、
蔣山と書くのが自然だったのではないか。
あるいは、ネタ元にした別の書物があり、
そこでは鍾山と書かれていたのか。
そしてそれが朱異の時代の書物であるなら
鍾はタブーではなかったのだろうか。

 

ここでハタと閃いた。
裴松之は宋の時代の人である。
おそらく、裴松之が注を付けたときには
蔣山から鍾山への再改名がおきており、
つまり文士伝に蔣山とあったものを
裴松之が鍾山に直したのかも知れない。

 

最後に、鍾離県についても考えておく。
鍾離県は淮水沿岸の都市であって魏の領域にある。
だが、呉にも鍾離県出身者はいるだろうし
作戦上、鍾離県について話すこともあるだろうから
当然、避諱の問題は生じたはずだ。
なにかに言い換えられたか、改名されたはずである。

 

私は、鍾離県は黎県に改名されたのではないかと
長らく考えていた。
さらに言えば、朱異が駐屯した黎漿というのも
鍾離県と関係あるのではと。

 

だが、集解を読めば黎漿水というのは実際にあるようであり
これは寿春近郊、数キロの地点である。
寿春の包囲軍との戦いなので、この位置なのは自然だ。
かたや、鍾離県をちゃんと調べてみたところ、
現在の鳳陽県の東北数キロに位置していたようだ。
寿春からは90キロほどの距離である。

 

私の想像は否定されたが
三国志を考えるうえで、
地名や河川の正確な把握は重要だということだ。
もっとも鍾離県が現在の鳳陽県の近郊というのも
私が片手間に調べたことであって
精査していくと別の可能性が出てくるかも知れない。

 

次回は孫鍾についてちょっと書く。