正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

孫鍾(孫堅の父?)

鍾離斐についての記事では
孫堅の父」として触れてきたが
祖父という説もある。

 

建康実録には孫権について「祖鍾。父孫堅。」と書く。
その注に引く「祥瑞志」なる書物には
孫鍾の人となり、体験した神秘的な出来事、
その体験により自身の墓所を定めたこと、そして
その墓にはたびたび光が差し、雲氣五色が広がると書く。
また、孫堅の母が孫堅を妊娠した時の瑞祥を記す。

 

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拙い訳だが、孫鍾の部分だけ訳しておく。
※原文はWikisourceより

鍾家於富春,早失父,幼與母居,性至孝。
遭歲荒,儉以種瓜自業。忽有三少年詣鍾乞瓜,鍾厚待之。
三人曰:「此山下善,可葬,當出天子。
君望山下百步許,顧見我等去,即可葬處也。」
鍾去三四十步便返顧,見三人並成白鶴飛去。
鍾記之,後死葬其地。
地在縣城東,塚上常有光怪,雲氣五色,上屬於天。」

「孫鍾の家は富春にあり、早くに父を失い、
幼くして母と(だけ)同居した。性格は至孝であった。
凶作のため、瓜を植えて暮らした。
突如、三少年が現れて瓜を乞うたので
孫鍾はこれをもてなした。
三人が言うに「この山の麓には善き場所がある。
そこを墓所とすれば、天子が出るであろう。」

このあと、よく分からないので省略するが
孫鍾はその善き場所を突き止めたようだ。

「三少年は白鶴に変化して飛び去った。
孫鍾は正確な場所を記しておき、後に自分の墓所とした。」

最後の墓所の神秘現象については
三国志注と同じでなので、ちくま訳を見た方が良い。
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三国志注の韋昭の呉書では
孫鍾の名や事績を記さず
孫鍾の墓は孫氏代々の墓のように描き、
それ以降の孫堅母の話は同じである。

 

宋書符瑞志には
孫堅之祖名鍾,家在吳郡富春」とある。
こちらでは孫堅の祖父とされる。
そして内容は建康実録の祥瑞志とほぼ一緒で
確かに祖父と解釈しても矛盾は生じないように思われる。

 

水經注には
「浙江又東北逕亭山西,山上有孫權父冢」とあるが
集解によればこの孫權は孫堅の間違いであり、
孫鍾の冢のことを言っているという。
冢の規模は分からないが、
水經注に載るくらい大きな墳墓だったのだろうか。

 

宋書は南斉の時代の487年に編纂されたが
志の完成は梁の時代(502年~)だと言う。
※日本語Wikiによる。避諱の状況を理由としており
もっともらしく思えるが、典拠は記載されていない。

 

水經注は515年の成立である。
建康実録は唐の時代(618年~)の撰。

 

水經注が引いた「祥瑞志」が宋書の「符瑞志」のことかは不明。
だが、孫鍾のこと以外はほぼ韋昭の呉書と同じなので
宋書の「符瑞志」の元ネタが韋昭の呉書で、
水經注の「祥瑞志」=宋書の「符瑞志」なのではないかと考える。

 

気になるのは韋昭の呉書がいつまで残っていたかである。
隋書によれば
「吳書二十五卷韋昭撰。本五十五卷,梁有,今殘缺。」とあり
梁の時代には全巻残っていたようである。
旧唐書新唐書には「吳書五十五卷韋昭撰。」とあり、
欠けた30巻も見つかったということなのか。

 

いずれにせよ、梁の時代(502年~)にはあった。
では三国志の裴注が成立した429年にも
呉書は全巻残っていたのではないか。

 

ではなぜ裴松之は、孫鍾の箇所を省いたのか。
あるいは呉書には孫鍾に関する記載はなかったのだろうか。
しかしあらためて三国志注の呉書を見ると
唐突に孫氏の墓所の神秘現象が書かれており
これだけだと何が何やらよく分からない。


もともとは(韋昭の呉書は)孫鍾の逸話がセットだったと
考えるのが自然に思える。
裴松之が勝手に省いたのではないか。

 

あらためて三国志注を確認する。
「吳書曰:堅世仕吳,家於富春」
すると、孫堅(の家)は代々、呉(郡)に仕えた、とある。
これは祥瑞志にはない部分である。
であれば、呉書にはこの部分が書かれており、
つまり裴松之は呉書をそのまま引用しただけなのか。

 

この謎を解くヒントは別にある。
それは、孫氏の出自に関することである。
陳寿三国志は「おそらく孫武の子孫であろう」とだけ書く。
だが、韋昭の呉書は当然ながら、
その出自を分かる限り詳細に書いたはずだ。
(場合によっては推測も交えて。)
おそらく、孫武の子孫がどう呉の地に根を張り、
孫堅へと続いていくか書いたに違いない。
陳寿がそれを無視するのは陳寿の判断である。
だが、裴松之もそれを載せない。
これは意図的と思われても仕方がない。

 

つまり韋昭の呉書には孫鍾のことも、
孫武に連なる血筋の詳細も書かれていた。
だが、裴松之が採用したのは
孫氏の墓所に起こる神秘現象以降だけだった。

 

ではなぜそのようなことが起きるのか。
ちょっと馬鹿げた言い方になるが、
それは「いじわる」のためである。

 

そもそも陳寿の「おそらく孫武の子孫であろう」がおかしい。
せめて「孫武の子孫を称した」くらいに書けないものか。

 

裴松之にしてもそうであって
彼の功績は大きいが
それでも彼が取捨選択の権限を持つ。
華陽国志を見ても、
何から何まで注として採用していないことは分かる。
韋昭の呉書に孫鍾のことが記載されていたと
断言できるわけではないが
裴松之がそれをあえて省いて注に引いた可能性はある。

 

なぜなら、陳寿にしても裴松之にしても
彼らの存命時には韋昭の呉書は現存するのである。
詳しいことを知りたければ、そちらを読めばいいだけなのだ。
つまり孫鍾を載せなかったのは「いじわる」かも知れないが
史書から抹殺しようとしたわけではない。

 

結局のところ、
孫鍾が孫堅の父なのか、祖父なのかはよく分からないが
孫鍾は韋昭の呉書には載っていたというのが私の推測となる。