正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

鍾離斐②(鍾離牧、黎斐)

前回の続き。

黎斐とは丁奉伝、孫綝伝の2か所に出てくる人物である。
どちらも257年の諸葛誕救援についての記事に登場する。

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丁奉伝】
>太平二年,魏大將軍諸葛誕據壽春來降,魏人圍之。
>遣朱異、唐咨等往救,復使奉與黎斐解圍。
>奉為先登,屯於黎漿,力戰有功,拜左將軍。

(訳)
257年、諸葛誕が寿春にて降伏してきたが、魏軍に包囲された。
そこで朱異、唐咨らを救援に向かわせ、丁奉、黎斐に包囲を解かせたようとした。
丁奉は先陣となって黎漿に駐屯し、功績を立てたので左將軍に任命された。

 

【孫綝伝】
>魏大將軍諸葛誕舉壽春叛,保城請降。吳遣文欽、唐咨、全端、全懌等帥三萬人救之。
>魏鎮南將軍王基圍誕,欽等突圍入城。魏悉中外軍二十餘萬增誕之圍。
>朱異帥三萬人屯安豐城,為文欽勢。
>魏兗州刺史州泰拒異於陽淵,異敗退,為泰所追,死傷二千人。
>綝於是大發卒出屯鑊里,復遣異率將軍丁奉、黎斐等五萬人攻魏,留輜重於都陸。
>異屯黎漿,遣將軍任度、張震等募勇敢六千人,於屯西六里為浮橋夜渡,築偃月壘。
>為魏監軍石苞及州泰所破,軍卻退就高。異復作車箱圍趣五木城。
>苞、泰攻異,異敗歸,而魏太山太守胡烈以奇兵五千詭道襲都陸,盡焚異資糧。
>綝授兵三萬人使異死戰,異不從,綝斬之於鑊里,而遣弟恩救,會誕敗引還。
>綝既不能拔出誕,而喪敗士眾,自戮名將,莫不怨之。

 

こちらは随分と長いので簡略化する。

(訳)
諸葛誕が寿春にて降伏してきたが、魏軍に包囲された。
文欽らは包囲を突き破って寿春城に入った。
朱異は安豐城に駐屯したが魏の州泰に敗れた。
そのため孫綝は鑊里に進軍し、再び朱異を派遣した。
朱異は丁奉、黎斐らを率いて魏を攻撃した。
朱異は黎漿に駐屯した。(後略)

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丁奉と黎斐が仲良く並んで出てくる。
弁亡論で丁奉と鍾離斐が並んで出てくるので
確かに黎斐=鍾離斐と考えたくもなる。
しかし考えるべきは2点。


1つ目は、この戦いは孫亮の時代の末(257年)である。
弁亡論で鍾離斐は孫皓の時代(264年~)の初期の名臣として挙がる。
つまり、黎斐はこのあとも数年以上生きたうえ、
名臣として丁奉に匹敵するほどの活躍がなければおかしい。
だが、ここ以外では一切情報がない人物である。
これであれば留平を載せた方がいい。

 

2つ目は、実はこの戦いは負け戦だということである。
もしかしたら「黎漿の戦い」は人々が語り継ぐ
「激戦」だったのかも知れないが
「黎漿の戦い」自体も上手くいかず、
その直後に司令官の朱異は処刑される。
もちろん、諸葛誕救援作戦自体、失敗に終わる。
呉としては寿春を奪う大チャンスであったが、苦い結果となった。
この戦いで活躍したとて、名臣として名前が挙がるだろうか。

 

次に、黎斐=鍾離斐=鍾離牧としたとき、矛盾は生じないか。

 

孫亮伝を振り返ると、下記となる。


257年5月、諸葛誕が降伏を申し出る。
6月、文欽らを救援に送る。
同月、朱異は謀反の疑念があった夏口督の孫壹を攻撃。孫壹は魏に亡命。
7月、孫綝は鑊里に進軍。朱異が合流し、魏の包囲網と交戦。
8月、會稽南部ほか各地で(山越の)反乱発生。鍾離牧らが討伐へ。
9月、朱異が処刑される。孫綝は建業に帰還。
(略)
258年3月、寿春が陥落。

 

おそらく7月に黎斐と丁奉が黎漿で戦闘している。
8月に反乱がおきて鍾離牧が討伐に向かうのでは、少しギリギリか。
もっともここには叙述のトリックがあり、
反乱が起きたのは8月でも、鍾離牧が派遣されたのが同月とまでは確定できない。
討伐軍を編成し、派遣したのは9月、10月の可能性もあろう。

 

そしてふと気づいたのだが
寿春を救えなかったのは朱異処刑のような内紛だけでなく
8月の反乱の影響も大きかったのかも知れない。
黎斐=鍾離牧が、寿春を離れて南方に赴いたと解釈できるなら、尚更だ。

 

以上から、黎斐(鍾離斐)≠鍾離牧であるならば
弁亡論に記載されるには違和感があること、
また、黎斐=鍾離牧と見なすことに矛盾は生じないとは言えるだろう。

 

さて、鍾離斐と鍾離牧の書き分けについては
あまりよく分からない。
鍾離牧が別名を持っていたとすれば、もうどうしようもない。

 

考察の余地がある方から手を付ける。
なぜ黎斐、鍾離斐の2つの表記が起きたかを考える。
三国志集解によれば、文選に載る弁亡論においては
「鍾離斐」ではなく、「離斐」と記載されているとのことである。
そして、黎斐と「離斐」は音が近いという。
また、「黎」と「離」とは「古字通」、
つまり古代においては互換可能な字同士であったという。

 

音が近い??
とは長年思っていたが、改めて調べてみると
「黎」は「レイ」だけでなく、「リ」とも読むらしい。
もっとも「リ」の場合の熟語など見つからないのだが。
そしてもちろんこれは日本語の発音である。
が、黎斐=リヒならば、ますます鍾離斐に近づく。

 

上記のことは10年以上前に一度は考えたことだった。
ここから先、数年前に気づいたことを書いていく。

 

黎と離が入れ違った、それ自体も奇妙だし
鍾の字が抜け落ちるのも変である。
しかも一か所ではなく、二か所ともそうなっている。

 

ではこれは誤字ではなく、
そのとき鍾離牧が黎斐と名乗っていたのではないのか。
まず疑うべきは、「避諱」である。

 

こう考えると、簡単に想像が膨らんでいく。
つまり、「鍾」や「離」の字が使えなかったのではないか。
もう答えは出た。
孫堅の父親の名は「孫鍾」なのである。

 

建康実録に孫堅の父親の名前が出てくる、というのは
10年以上前にどこぞの掲示板で目にした。
いまだに建康実録は所持していないが
宋書にも名が出てくるようだ。

 

つまり、「鍾」は使えなかった。
三国志ファンならば賀斉のことを思い出すだろう。
賀氏はもとは慶氏といい、
賀斉の伯父の慶純は安帝に仕えた。
安帝の父が劉慶という名だったため、慶純は改姓した。

 

孫鍾は孫権にとっては祖父であって
三国志には名前も記されない人物だ。
だが、呉にとっては武烈皇帝・孫堅の父親で
避諱の対象でなかったなど信じられない。
ただ、改姓をするまでのものだったのか、
文書に記載する際や、呼びかけの際に配慮するだけだったのか、
そのあたりのことは不明だ。

 

たとえば、魏側の王昶伝には
250年の戦闘で斬った呉の武将として「鍾離茂」が出てくる。
賀氏の改姓ほどの徹底したものではなかったのかも知れない。

 

魏側の史料では「鍾」はタブーでなく、
呉側の史料では「鍾」でだけタブーだった。
おそらく(韋昭の)呉書では
鍾離牧は「離牧」や「黎牧」と記載されていたのかも知れない。
陳寿三国志を編纂する際、
(韋昭の)呉書をダイジェスト化する作業をしながら
同時に「避諱」のため加工された文字を修復していった。
だが、「黎斐」が実は鍾離氏とは見抜けなかったということか。


では弁亡論はどう考えるべきか。
「鍾離斐」と出てくるが、こちらも晋代の書物であり、
呉の時代の避諱からは解放されているはずだ。
だが、弁亡論は孫堅以降、
呉の歴代君主の名前は徹底して書かない。
つまり、孫鍾は別扱いということなのだろうか。
あるいは、三国志注ではなく、
文選に載る弁亡論こそ陸機の書いたオリジナルなのかも知れない。
そちらは「鍾離斐」ではなく、「離斐」と書かれるのだから。

 

※私は孫策のことが好きなのであるが、
陸氏は彼とは恩讐のある関係である。
だが、弁亡論を読んでみて
陸機の孫策への賛辞の嵐を見て、ちょっとグッと来た。

 

次回にちょっとだけ続く。