正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

陶謙の出身県、一族①

ある意味で前回の続き。
陶謙の出身県を考える。

 

三国志では「陶謙字恭祖,丹楊人。」と書かれる。
「丹楊」とあるが、これは「丹陽」である。
これが「丹陽郡、県は不詳」なのか、
「丹陽郡丹陽県」を指すのかは不明。
というのが前回のお話。

 

三国志集解を見ると
李賢の説として「丹陽郡丹陽縣人」という注釈が書かれる。
李賢(655-684)は唐代の人で後漢書に注釈をつけた。

 

後漢書を見ると、こうある。
陶謙字恭祖,丹陽人也。
[一]丹陽郡丹陽縣人也。吳書曰:「陶謙父,故餘姚長。~」

 

さて、李賢は何を根拠に「丹陽郡丹陽縣人」と言うのか。
何か別の書物にそう書いてあったのなら
それをちゃんと引くはずだ。
韋昭の呉書にそう書いてあったのなら
後続の「呉書曰~」と分けて書かないはずだ。

 

つまり、私の推測ではあるが、
「丹陽郡丹陽縣人」というのは李賢の推測ではないだろうか。
もっともその「推測」の精度が問題だ。

 

たんに「丹陽郡には丹陽県があるから、
丹陽人と書けばそれは丹陽郡丹陽縣人を意味する」
というのであれば、あまりに単純な発想だ。

 

韋昭の呉書は唐代には残っていたようだから
それを参照していった結果、
丹陽県出身と絞り込むような傍証を見つけたのかも知れない。

 

※前にも書いたが、韋昭の呉書は隋の時代には一部散逸し
五十五卷のうち二十五卷しか残っていなかったようである。
唐書では五十五卷とだけ書かれるので
残りが見つかっていたのだろうか。

 

しかし結局のところ、
李賢の判断の根拠は分からない。

 

では既存の史料の中で、出身県を特定できるものはあるだろうか。
韋昭の呉書は時代が近く、
陶謙についても詳細な記述を残している。
また呉は丹陽郡を支配していたのだから
出身県を調べ切れなかったということはないのではないか。
であれば、陶謙は「丹陽郡丹陽縣人」であり、
それを略して「丹陽人」と書いたのが正解かも知れない。

 

もうひとつ、その論を補強できそうな記述を挙げておく。

 

陶謙伝注の呉書:
年十四,猶綴帛為幡,乘竹馬而戲,邑中兒童皆隨之。
故蒼梧太守同縣甘公出遇之塗,見其容貌,異而呼之,
住車與語,甚悅,因許妻以女。

(抄訳)もとの蒼梧太守の同県人の甘公が
たまたま陶謙と道で出くわし・・・。

 

わざわざ同県人と書いているのだから
韋昭は陶謙、甘公の出身県を分かったうえで
書いていたのではないか。
つまり、県が不詳であるから「丹陽人」とだけした、
という可能性を否定できるかも知れない。

 

※呉書の韋昭を含む複数人の著作だが
便宜上、韋昭ひとりの著作のように書いている。

 

では、丹陽縣人ということで決定して良いのか。

 

ちょっと話が逸れるが
「A郡人と書いていて、A郡A県でないことが
別の史料から判明する」ケースを見つけたので
それを挙げておく。

 

益州人の王商のことである。

 

許靖伝注の益州耆舊傳:
「商字文表,廣漢人,以才學稱,聲問著於州里。」

 

これだけ見れば、王商は廣漢郡廣漢県人にも思える。
なぜと言えば益州耆舊傳はまさに益州人士に詳しく
書き手が王商の出身県を知らなかったはずがないからだ。

 

だが、華陽國志の後賢志、王化伝が
その推測を打ち砕く。
王化は「廣漢郪人」であり、祖父は王商であると言う。
また、後漢書には王堂伝がある。
王堂は「廣漢郪人」であり、その曾孫は王商であると言う。

 

このように見ていくと
陶謙が「丹陽郡丹陽縣人」である可能性は高いものの、
別県出身である可能性も少し残るのでは、と思う。

 

というか、そう思いたい。
それは何故か。
呉の末期から東晋にかけて
丹陽郡秣陵県出身の陶氏が活躍し、
それが陶謙の同族ではないかと推測するからだ。

 

晋が呉を征服する「平呉の役」を追った人であれば
呉の末期に陶濬なる大将が出てくるも
陶璜なる人物が交州牧になっていることも
知っているだろう。

 

晋書には陶璜伝があり、
その父の陶基も呉の交州刺史となっていることが分かる。
陶璜の弟が陶濬であり、
呉の最終期に鎮南大將軍、荊州牧となっているのが分かるが
晋に降伏して散騎常侍となったようだ。

隋書にこうある。
「晉散騎常侍薛瑩集三卷梁又有散騎常侍陶濬集二卷,錄一卷,亡。」

 

陶璜の子孫も交州の長官を歴任し、
陶基から四世代にわたり、交州長官を五人輩出した。
陶濬の二子は名声があり、東晋に仕えた。
そして陶濬の弟の陶抗の子の陶回だが
彼も晋書に立伝されている人物である。

 

彼らの子孫がその後の南朝で栄えたのかどうか。
史書の巻名を検索する限りでは
陶氏は次第に衰退していったように思われる。

 

※なお、東晋の名将の陶侃や、
その子孫の陶淵明は丹陽郡の人ではない。

 

呉の滅亡時(280年)に高官であったので
陶璜・陶濬はある程度の年齢であったろう。
230年生まれくらいだろうか。

 

であればその父の陶基は200年生まれくらいで
交州刺史となったのは240年代以降とかだろうか。
いずれにせよ、呉書の編纂が始まる頃には
陶氏の繁栄は始まっていたのではないか。

 

であれば、家に伝わる陶謙の詳細な逸話を
韋昭らに伝えることも出来たろうし
呉書が陶謙を善人かつ有能な人物として描くのも分かる。

 

そう、一番大事なことに触れずにいたが、
(まぁ常識なので)
三国志本文は陶謙のことを辛辣に描き、
注に引く韋昭の呉書がその反対であるというのが
陶謙の一番の面白さである。

 

陳寿陶謙のことを「昏亂而憂死」と書くが
私には陶謙は大人物に思えてならない。
「昏亂」しているのは貴方だろ、と陳寿に言ったら
それは言い過ぎだろうか。

 

陶璜らが陶謙の直系の子孫であれば
それに触れられないのはおかしいが
もしかしたら傍系の親戚なのではないか。

 

そう長らく思っていたのである。
つまり、陶謙は「丹陽郡秣陵県出身」なのではないかと。

 

しかし今回調べ直していくうちに思ったのは
あれだけ陶謙のことを詳細に書き、また称賛しているのだから
呉書は陶謙の出身県も知っていたはずであろうし
秣陵県出身であればそう書いたろうし、
陶璜らの親戚であれば、それもどこかに残ったであろうということだ。

 

結論は出ないが、
私の持論は分が悪い、とは気づく結果となった。

 

ただし、陶謙が丹陽県出身だとしても
それは呉の支配領域である。
彼の子孫たちは呉に仕え、
韋昭の呉書での陶謙の描かれ方に
良い影響を与えたかも知れない。

 

次回は、陶謙の実子についてのちょっとした整理。