正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

曹操は河西回廊を支配していたか

206年ないし209年、雍州刺史の邯鄲商が殺害された。
209年-210年頃にも、酒泉太守の徐揖と、
張掖太守(氏名不詳)が殺された。
酒泉郡を乱したのは豪族の黃昂だが、
酒泉人の楊豊は武威太守の張猛の後ろ盾を得て、郡を鎮定する。
しかし「東方」にいた同族の黃華が帰還すると楊豊は敦煌に逃亡する。
210年、韓遂が武威太守の張猛を倒す。
もしかしたら、この韓遂の張猛討伐と、黃華の酒泉支配は連動していたかも知れない。

 

211年、韓遂が帰還すると、馬超曹操に対して反乱しており、韓遂も合流する。
秋から冬にかけ曹操馬超鎮圧に乗り出すが、
東方に反乱が起こり(田銀の乱)、中途で帰還していまう。
212年、馬超涼州の冀城を陥し、刺史の韋康を殺害。
213年、全国14州を9州へと再編。涼州を雍州に併合。
雍州刺史に徐奕を任命するが、任地は長安であったろうか。
この頃、曹操は呉方面で戦闘しており、西方の軍事担当は夏侯淵である。

 

214年春、漢陽人の楊阜らが蜂起。
夏侯淵も西進し、馬超は漢中へと逃亡した。
また、漢陽郡北部にいた韓遂も敗北し、西平へ逃亡。
夏侯淵は隴西に進撃し、枹罕にいた独立勢力の宋建を倒す。
別軍の張郃は河関を平定し、小湟中まで進んで河西諸羌を下した。

 

ここがポイントである。
張郃黄河を渡って羌族と戦ったが、西平郡の外の地である。
曹操はまだ河西諸郡に手を出していない。

 

韓遂の逃亡先は「湟中」。これは湟水両岸の地、つまり西平郡である。
小湟中はそれとは別の場所で、大月氏から分かれた小月氏の居住地であったらしい。

 

そして、215年、曹操がやっと西征に乗り出す。
ただし、それは韓遂や河西諸郡平定のためでなく、張魯討伐が目的である。
前年、劉備劉璋から益州を奪っている。
曹操はそれを気にしていたに違いない。

 

215年3月に曹操は陳倉に到着し、武都郡へ入って漢中へと進む。
張魯を下して帰還するのは215年12月。翌年2月に鄴に到着する。

 

この張魯討伐の最中に、韓遂の首が届く。
武帝紀によれば、西平、金城諸将の麴演らが韓遂の首を斬って寄越した。
魏略の郭憲伝によれば、韓遂は病死し、その首を田樂、陽逵らが斬ったという。
こちらは麴演の名前が出てこない。しかし両説に明確な矛盾点はない。
麴演、田樂、陽逵らは同一グループと考えてよいのかも知れない。

 

ここからが本題である。
張既伝では張魯討伐についての記事のあとに、以下の記述がある。

 

是時,武威顏俊、張掖和鸞、酒泉黃華、西平麴演等並舉郡反,自號將軍,更相攻擊。俊遣使送母及子詣太祖為質,求助。太祖問既,既曰:「俊等外假國威,內生傲悖,計定勢足,後即反耳。今方事定蜀,且宜兩存而鬭之,猶卞莊子之刺虎,坐收其斃也。」太祖曰:「善。」歲餘,鸞遂殺俊,武威王祕又殺鸞。

 

つまり、河西では軍閥が蠢いていた。
武威には顏俊、張掖には和鸞、酒泉には黃華、西平には麴演がおり、
それぞれ勝手に将軍を名乗り、互いに攻撃し合っていたという。
顏俊は曹操に救援を求めたが、張既の進言を容れ、
彼らを争わせるがままにし、自滅するのをまつことにした。
1年あまりして、(張掖の)和鸞が(武威の)顏俊を殺し、(武威の)王祕が和鸞を殺した。

 

張既が雍州刺史となったのは214-215年頃であろう。
張既は張魯征伐にも従軍しているが
侵攻ルート上にある武都郡は雍州の管轄であったためだ。

 

顏俊からの救援要請が来たのはいつか。
張魯討伐中から、鄴への帰還(216年2月)までのいずれかのタイミングだろう。
張既は河西は放置せよと進言したが、それは益州平定が直面する課題だからと言う。
曹操張魯を降伏させるが、そのまま劉備を攻撃するのは断念して帰還する。
その帰還決定までの間に連絡が来たのかも知れない。

 

韓遂は西平に逃走後、部下の閻行の反乱もあり、その勢力は衰退していた。
しかし顏俊らが曹操に救援を求めたのは、韓遂の死が決定打だったかも知れない。
河西地方に安定をもたらすだけのリーダーシップが完全に失われたということか。

 

もし顏俊の連絡がもっと早ければ、
曹操は顏俊に「韓遂の首」を要求していた可能性もある。
であるから、連絡のタイミングは韓遂死後だと推測できそうだ。

 

曹操張魯征伐から帰還する際、楊阜を金城太守としたが、
土壇場で変更し、蘇則を金城太守、楊阜を武都太守とした。
215年の末~216年初頭の人事であろう。
つまり209年以降、曹操が河西方面に送った最初の人物が蘇則ではないか。
金城郡は黄河南岸に郡治があり、おそらく有力な軍閥も存在していなかった。
だからこそ蘇則を送り込めた。
そして蘇則は軍閥を気にすることなく、荒廃した金城郡の再生に努めた。


さて、「放置策」から1年ほどで、張掖と武威の軍閥頭目が死亡。

おそらくそのタイミングで、曹操は太守を派遣した。(217年頃か)
220年に河西動乱時の太守の名前から逆算するに
曹操が派遣したのは張掖太守の杜通と、武威太守の毌丘興か。
西平太守も送り込むタイミングだったはずだ。だが氏名は不詳。

 

毌丘興は覚えておいて損はない。毌丘儉の父である。
毌丘儉が立伝されたため(毌丘興は立伝されず)、影が薄いが、
なかなかの人物である。
毌丘興は220年の涼州反乱鎮定で活躍するが、
「領太守毌丘興到官,內撫吏民,外懷羌、胡,卒使柔附,為官效用。」と書かれ、
統治者としての手腕も称えられている。

 

さて、今回は220年頃までの河西地方の動向の考察である。
220年の反乱の整理は次回やりたいが、今回も少しは触れざるを得ない。

220年頃の河西回廊(赤字は武装勢力


蘇則伝を見ていく。

>太祖崩,西平麴演 叛,稱護羌校尉。則勒兵討之。演恐,乞降。

 

曹操が死去すると、西平の麴演が反乱する。
蘇則が討伐に向かうと麴演はすぐに降伏した。

 

>後演復結旁郡為亂,張掖張進執太守杜通,酒泉黃華不受太守辛機,
>進、華皆自稱太守以應之。又武威三種胡並寇鈔,道路斷絕。
>武威太守毌丘興告急於則。

 

しばらくすると麴演はまた反乱するが、この時は他郡と連携する。
張掖郡の張進は太守の杜通を捕らえ、酒泉郡の黃華は太守の辛機を受け入れず、
張進、黃華はそれぞれ太守を自称した。
また、武威では「三種胡」が反乱し、太守毌丘興が蘇則に急を告げた。

 

この「酒泉黃華不受太守辛機」とは何なのか。
新たに着任してきた辛機を郡境で拒絶したということか。
あるいは単に武装蜂起の言い換えなのか。

 

張既伝では別の表現で書かれる。

>文帝即王位,初置涼州,以安定太守鄒岐為刺史。
>張掖張進執郡守舉兵拒岐,黃華、 麴演各逐故太守,舉兵以應之。

 

張進が郡守をとらえた、というのは同じ表現だが、
黃華、 麴演について「もとの太守を追い出した」と書かれる。
「現太守」ではなく、「故太守(もとの太守)」というのがよく分からない。
また、これは「酒泉黃華不受太守辛機」と整合性があるのか。
矛盾することを言っているのか。

 

※なお、このとき西海太守は張睦なる人物で、
毌丘興は張掖太守の杜通、西海太守の張睦を救い出したという。
西海郡も黃華ないし張進の攻撃を受けたと言うことか。


氏名不詳の西平太守については無視する。
考えるべきは酒泉太守の辛機である。

 

可能性①
酒泉は太守の交代時期であった。
黃華は郡にまだ滞在していた前太守を追い出したうえ、
新太守の辛機の酒泉入りを拒絶した。

 

可能性②
酒泉は特に太守の交代時期ではなかった。
黃華は太守の辛機を捕らえず、追放しただけだった。
そのため、張掖の例とは異なる書かれ方をしただけ。
(酒泉黃華不受太守辛機)

 

可能性③
酒泉には曹操は太守を送り込めていなかった。
(黃華が太守を代行していた?)
曹丕の代になり、太守(=辛機)を送り込んだが、黃華は受け入れなかった。

 

私は③だと思って記事を書き始めたのだが、
ここに来て分からなくなった。
というのも、そもそも河西は回廊状になっている。
酒泉に辿り着くには張掖を通らねばならない。
曹丕涼州を設置した際、
刺史と酒泉太守を同時に送り込んだと考えるなら、
酒泉太守は張掖の張進のところでどうせ止まるはずである。
だとすれば、「不受太守辛機」というのは
新任太守を受け入れずという意味ではなく、
着任済みの太守追放を意味しているのだろうか。


行き詰ったので、敦煌郡に視点を移す。
馬超に抵抗して死んだ烈士の閻溫。
その閻溫伝のあとに敦煌の人、張恭のまとまった記述がある。
これは注ではなく、三国志の本文であるので
巻題に張恭の名は無いものの、張恭伝と呼んで差し支えあるまい。

 

閻溫は212年の冀城包囲戦の際に死亡した人物である。
その記述に続けて張恭の話が書かれるのだが、
その始まり方はこうである。

 

>先是,河右擾亂,隔絕不通,燉煌太守馬艾卒官,府又無丞。
>功曹張恭素有學行,郡人推行長史事,恩信甚著,乃遣子就東詣太祖,請太守。

 

これを素直に読めば、
「これ以前(冀城陥落以前)、河右(=河西)は騒乱状態だった」となる。
つまり、209年以降の刺史、太守の相次ぐ横死を指しているように思える。
そのために敦煌は孤立して、中央との連絡が途絶えていた。
敦煌太守の馬艾が在任中に死去した際、郡には丞(=郡の副官)も居なかった。
郡の功曹の張恭は学問があり、行いも立派な人だったので、
郡人に推戴されて「行長史事」となった。

 

功曹は郡の実務官僚トップの職であろう。そして郡の出身者が就く職、だったはず。
一方で、確か郡丞は朝廷による任命で、郡外の人が就任する職のはずだ。
ただし、辺境の郡については丞の代わりに長史が置かれた。
「行長史事」というのは太守の臨時代行、程度に理解してしまって良いだろう。

 

※長史でなく「長吏」というと、これは県令・県長のことを指す。

 

続きを読む。
張恭の政治は恩愛・信義が著しかったが、
子の張就を曹操のもとに派遣し、正式な太守の着任を要請した。」

 

この部分も突っ込みどころがあるのだが、次が問題である。

 

>時酒泉黃華、張掖張進各據其郡,欲與恭并勢。
>就至酒泉,為華所拘執,劫以白刃。

 

「この頃、酒泉の黃華、張掖の張進がそれぞれ郡に割拠しており、
張恭を味方に引き入れたいと思っていた。
張就が酒泉まで来たところで、黃華はこれを拘束した。」

 

これって220年の反乱の話ではないのか。

 

整理しよう。
曹操は220年1月に死去している。
その時、西平の麴演が反乱を試みるが、蘇則の対応が早く、麴演は降伏する。
これは明確に「曹操が死去したこと」が契機と書かれており、
麴演を降伏させた蘇則に封爵したのが曹丕であることも書かれている。
麴演はこのあと再び反乱して、黃華、張進と連帯する。

 

黃華が張就を捕らえたのも同時期であるならば
張恭が「曹操に正式な太守を要請した」という表記に整合性があるのかどうか。
曹丕ではないのか。
あるいは曹操の死の直前に使者を派遣し、捕らえられたのは死後ということか。

 

しかしまずは少し前に戻って、別の問題を考える。
張恭の政治は恩愛・信義が著しかったが」という点。
つまり、ある程度の期間、郡を治めていたということだ。

 

いつ馬艾が死去したのか、
その考察を1~2時間してみたのだが
答えは倉慈伝に書いてあった。(忘れていた)

 

倉慈は太和年間(227-233年)に敦煌太守となった人物で、
「前太守の尹奉らは旧習を踏襲するだけだった、
(が、倉慈は改革した)」と書かれる。
尹奉は220年の反乱鎮圧時の敦煌太守として着任する。

 

>太和中,遷燉煌太守。
>郡在西陲,以喪亂隔絕,曠無太守二十歲,大姓雄張,遂以為俗。
>前太守尹奉等,循故而已,無所匡革。

 

ここでは、太守の空白期間が20年あったと書かれている。
それに依拠するならば、馬艾の死は200年頃となろう。
果たしてこれを信じていいものか。
というのも、私の推測では、
蘇則が酒泉太守となったのは200年頃である。
河西は中央との連絡が途絶えてはいなかった。
実際、その頃は雍州刺史の邯鄲商が存命である。
太守が不在となったら、許都政権(=曹操)はともかくとして
邯鄲商が何らかのアクションを起こしそうだ。
そして野心家の武威太守の張猛も控えている。
敦煌を放っておくことがあろうか。

 

では、この20年という期間が間違いだとして、
本当は何年間なのか。
「二」というのが誤って混入した文字(衍字)の可能性はある。
それならば空白期間は10年だ。
あるいは、文字の順番が入れ替わっていて
正しくは「曠無太守十二歲」、
つまり12年間の空白なのかも知れない。

 

12年説ならば、208年頃に馬艾は死去したのだろうか。

 

酒泉太守の徐揖が豪族の黃昂に包囲された際、
龐淯は張掖、敦煌二郡に救援を求めた。
これは209年-210年の頃のことだと私は推測した。
であれば、この頃、馬艾はすでに死亡しており、
龐淯は張恭に救援を求めたということなのか。
張恭伝にはそのようなことは書かれないが。

 

もちろん救援を求める側には
相手が正式な太守であろうが、そうでなかろうが関係ないだろう。
だが、この頃は馬艾が存命であり、
空白期間は10年、
つまり210年~219年という解釈が正しいかも知れない。
209年から210年頃にかけて
刺史が死亡し、酒泉太守、張掖太守、武威太守も横死した。
敦煌太守はおそらく病死だと思われるが
まさに「河右擾亂」と呼ぶにふさわしい状況であろう。

 

さて、馬艾の死亡年の推測は終わる。
混乱の最中に太守を失ったのであれば
自分たちでリーダーを決めねばならなかったのは分かる。
だから敦煌人は張恭を推戴した。

 

だが、韓遂の死亡した後、
216年頃から曹操は河西に手を伸ばす。
金城太守を派遣し、次には武威太守も派遣しただろう。

 

では何故、敦煌太守は派遣されなかったのか。
220年頃に張恭の方から派遣要請するはめになったのか。

 

可能性①としては、
太守の派遣は極めて段階的に行なわれていたことを想像する。
216年に金城郡、217年に武威郡、218年に張掖郡、
そういった具合に慎重に太守の派遣範囲を広げていたのかも知れない。
そのため、西辺の敦煌が後回しになっていたのかも知れない。

 

可能性②としては、酒泉郡の存在である。
もし酒泉郡が半独立状態で、曹操が太守派遣を躊躇する状態だったのなら
酒泉を飛び越えて敦煌に太守を送る事は、考えなかったのかも知れない。
ただしこの場合も、酒泉が明確に反曹操だったとは言えない。
そうであれば、張恭も使者を酒泉越しに送るのを躊躇するはずだからである。

 

視点を張恭の側に移す。

張恭が太守派遣を要請しようと思ったのはいつか」
張恭が太守派遣を要請しようと思ったのはなぜか」ということである。

 

曹操が河西経営に乗り出した216年とか217年に
張恭は太守を要請しなかったのだろうか。
あるいは使者を送ったのは実はその頃で、
黃華に捕らえられ、220年まで軟禁されていたという可能性はあるのか。

 

しかし使者の張就は拘束後、死を覚悟しつつ
密書を父の張恭に送り、挙兵を促す。
そこでは官軍の救援が来るはずだと言っており、
実際に蘇則がやってきて河西を鎮定する。
これは220年の事である。
拘束について長期間であったと示唆する記述は何もない。
使者の派遣はやはり219年末ないし220年初頭であったろう。

 

では、馬艾の死亡以降、臨時に郡を統治しておきながら、
なぜ、219年/220年頃になって太守を要請したのか。
逆にいえば、なぜそれまで、正式な太守を要請しなかったのか、である。

 

先ほどの可能性①を張恭視点で考えてみると、
曹操が段階的に太守を送り込む範囲を広げているのであれば、
なにも気にせず、敦煌の番が回ってくるのを待つだけでもいいだろう。

 

では可能性②はどうか。
つまり酒泉が半独立状態であり、しかし反曹操とまでは言えない状態だった。
その際に張恭が太守を要請する理由はあるか。
もしかしたら張恭敦煌を酒泉の一味と思われたくなかったのかも知れない。
曹操に帰順を申し出るような意味での太守要請だったのではないか。

 

拘束された張就が父の張恭に送った密書の書き出しはこうである。

 

>大人率厲燉煌,忠義顯然,豈以就在困危之中而替之哉?

 

「父上は敦煌の士民を統率し激励し、国家への忠義の心ははっきりとしています。
私の命のために、心変わりしてはいけません」

 

これを信じるのであれば、である。
河西は209年以降、混乱に満ち、その中では敦煌は安定しているように見えるが、
太守を失い、張恭が代理を務める中で、なかなか苦労していたのではないか。
つまり、敦煌にとっては中央との繋がりは待ち望んだことだった。
のかも知れない。

 

であれば、さっさと使者を送れば良かったのかも知れない。
ただ、敦煌は黃華と対立した楊豊を匿っている。
その後、黃華が張恭を味方に引き入れようとしているのだから
決定的な対立には至っていないのだろうし、
そして黃華もまた反曹操を鮮明にしてはいないのだろうが
酒泉越しに使者を送る、というのが躊躇われる状況だったのかも知れない。

 

とは言え、最終的には使者を送り、その使者が捕らわれたのだから
もう少し上手くやれなかったのかと言いたいところだが
そこはギリギリの判断、ギリギリの決断があったのだろうか。

 

などと書き連ねても、堂々巡りの内容にしかならなさそうだ。
明日書けば今日とは別の考察内容になるだろう。

 

最後にまとめを書いて終わりとしよう。

 

今日のまとめ
・209年頃から、河西地帯は騒乱に陥っていた
曹操も対応が遅れ、215年の西征の際も張魯討伐を優先した。
・その頃、韓遂が死亡した
・その頃、河西の軍閥から救援の要請が来た
・が、曹操軍閥同士を争うがままにしようとし、要請に応えなかった
・一方で、金城太守として蘇則を送り込んだ
・1年あまりして、軍閥のうちの2つは消失した
・おそらくそれに応じて武威太守として毌丘興を派遣した
・他の郡についてはハッキリしない
・とりわけ酒泉郡について、曹操時代に太守を送っているかも不明
敦煌太守は20年間不在だったと書かれるが、10年ほどだと推測する
・空白の期間に郡を統治したのは敦煌人の張恭
張恭曹操から曹丕への代替わりの頃に正式な太守の派遣を要請
・しかし涼州の反乱(220年)に巻き込まれた
敦煌太守不在の理由は、曹操が河西支配を段階的に進めたことが原因か
・あるいは酒泉が半独立状態で、敦煌に太守を送り込めなかったか

 

もう河西考察には飽き飽きしてきたが
次回、220年-223年頃のこの地域の反乱を簡単に整理して一区切りとしよう。