正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

陳王・劉寵の死亡年を疑う

後漢末の豫州情勢は何かと不明点が多いが、
気になるのは陳国王の劉寵のことである。


陳国の始祖は後漢の第二代皇帝の明帝の子の劉羨である。
劉寵は第11代の桓帝(132-168)と同じ世代にあたる。
曾祖父同士が兄弟である。
第12代の霊帝(156-189)からは親の世代にあたる。


劉寵の即位年は不明だが、173年に謀反の疑いを掛けられている。
それ以前の即位ということになる。
劉寵は弓の名手として有名で、強弩数千張を有しており、
黄巾の乱の際も陳国人は敢えて反乱しようとしなかった。
董卓が専横し、義兵が起こると、
劉寵は陽夏県に駐屯し、輔漢大將軍を自称した。
国相の駱俊の政治は威恩があり、鄰郡の人々も多くこれに帰伏した。
後に袁術が軍糧を陳国に求め、駱俊がこれを拒絶すると
袁術は刺客を送って駱俊と陳王・劉寵を殺害した。


後漢書の陳王伝は死亡年を記さないが、
後漢書献帝紀によれば197年のこととしている。
資治通鑑も同様である。


後漢書より成立の古い三国志を見てみると、
どうやら陳王・劉寵の記載はない(ちくま8巻の人名索引に拠る)。
三国志注の「謝承の後漢書」には駱俊の記事があり、
内容は上記と同じだが、陳王・劉寵の名も、
駱俊と共に殺されたとも書かれない。
謝承は孫呉の時代の人で、姉は孫権に嫁いだ。
陳寿よりも、1~2世代前の人である。


さて、三国志許靖伝によれば、
同時期の陳国相に許瑒がおり、これは許靖の従弟だという。
許靖董卓の専横のころ、尚書郎であり、
吏部尚書の周毖と共に人事の中心であった。
しかし任命された諸侯がことごとく義兵をあげ、
さらにその一人の孔伷に、陳国相の許瑒が協力していたため、
許靖は処罰を懼れて孔伷のもとへ出奔した。
陳国相が孔伷に強力していたのなら
陳王も山東諸侯側についていたということになろう。
このあと、何らかのタイミングで陳国相の交代があり、
許瑒の後任が駱俊ということだろうか。


そのあと、197年までに何があったのか。


193年春、南陽にいた袁術が陳留郡に侵入し、封丘に駐屯する。
曹操に敗れると、袁術は襄邑、寧陵と逃走し、
最終的に揚州に逃げ込む。
偶然かどうか、陳国を避けるように進軍、また逃走している。


193年秋から曹操の徐州侵攻が始まる。
そして194年夏、兗州呂布を引き入れて反乱する。
翌195年秋頃、呂布は徐州へと敗走。
張超が雍丘に籠城し、これが陥落するのが同年12月。


ここからが本題である。


三国志:魏書:武帝紀:
>十二月,雍丘潰,超自殺。夷邈三族。
>邈詣袁術請救,為其眾所殺,兗州平,遂東略陳地。
>建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降。


兗州をやっと平定した曹操は、東進し、陳国へと侵攻した。
そして武平県に迫り、袁術の置いた陳国相の袁嗣は降伏した。


さて、この辺りで地図を載せておく。

 

豫州・陳国の関連情報図





東進、というのは、雍丘から陳国へ向かったということだろう。
両者の位置関係ならば、南進の方が良さそうな気もするが、
東進と言えないこともない。まぁこれは瑣末なことだ。


問題は、この時に
陳王の劉寵、陳国相の駱俊は何をしていたのか、である。
私の意見では、この時、両者は共に死亡した後であった。


これは後漢書献帝紀による死亡年(197年)と矛盾する。
だが、そもそもその死亡年が何を根拠にしているか分からない。
確かに袁術は197年にも陳国に侵攻しているが、
いま見たように、195年末~196年初にもその形跡があるのである。
(これを"袁術による195年の陳国侵攻"、と呼ぶようにする。)
後漢書の作者の范曄(398-445)は何を根拠に197年のこととしたのか。
先行史料、たとえば「謝承の後漢書」にそう書いてあったのか。
その可能性もないではないが、
197年の陳国侵攻を根拠にして死亡年を「推測」したのではないか。


しかし197年説だと、いろいろと不都合がある。
まず、上で見てきたように、195年の陳国侵攻である。
この時、陳王が存命であれば、いったい何をしていたのか。
袁術の侵攻、そして曹操による撃退を傍観していたのか。
そもそも曹操はこの時、兗州牧でしかない。
陳王が健在であれば豫州に介入する正当性はない。
もちろん曹操袁術とは仇敵関係にあるからこれを攻撃するのは自然だが
大義名分として、陳王からの救援要請があったとか何とか書かれるはずだろう。


あるいは陳王が袁術と組んでたことはあり得るのか。
たとえば、袁術が送り込んだ陳相の袁嗣は
陳王も受け入れていたのか。
曹操は陳王が袁術軍を引き入れたことを許さず、
陳国に侵攻し、勝手に袁嗣を追い出したのか。
この場合、袁嗣の後任が駱俊という解釈になるだろうか。
いや、これは不自然なところが多すぎる。


しかしこうした疑問をいったん無視し、
陳王が197年まで存命だったと考えよう。
この時に何が起こったのか。


197年春、袁術は皇帝を自称する。
この正確な時期を確かめようとしたこともあるが、今のところ答えは出ていない。
いったん、各書が記す197年春という時期が正しいものとして進める。


では陳王が殺害されるのはいつか。
後漢書袁術伝によれば、袁術の行動は皇帝自称後に活性化する。
なかなか自分に靡かない呂布へ討伐軍を差し向け、敗北。
一方で、陳国方面へも侵攻する。
それを受けた曹操が反撃に出るのが197年の9月である。


もしこの時系列が正しいのであれば、強烈な違和感が湧き出でる。
皇帝を自称した袁術が、漢の宗室の陳王に軍糧を要求し、
拒まれたから刺客を送って殺害する。
そんなことがあるのか。


もちろん軍糧要求というのはただのポーズで
最初から暗殺を狙っていた可能性はある。
が、要求を拒絶された袁術は「怒り」、暗殺した、とハッキリ書かれる。


三国志:駱統伝注「謝承後漢書」:
>後術軍眾饑困,就俊求糧。俊疾惡術,初不應答。術怒,密使人殺俊。


後漢書:陳王伝:
>後袁術求糧於陳而俊拒絕之,術忿恚,遣客詐殺俊及寵,陳由是破敗。


袁術が怒るのは勝手だが、
漢の宗室たる陳国が、偽帝・袁術の要求を拒絶するのは当然に思える。
それに史書が触れないのは不自然に思う。


では、陳王死亡は197年として、袁術の皇帝僭称より前の可能性はあるのか。
後漢書袁術伝では、皇帝僭称、陳王殺害の順に書かれる。
一方、献帝紀は197年春に袁術の皇帝僭称を記載したうえで、
197年の記事の末尾に、「是歳(このとし)」の出来事として、
「飢饉がおきたこと」、「袁術が陳王を殺したこと」、
孫策が朝廷に遣使してきたこと」を併記する。
つまり後漢書も陳王の死亡月についてはよく分かって書いていない。


では、197年2月に陳王が死亡し、
197年3月に袁術が皇帝を僭称した、そういう可能性はあるのか。


それを考えるには197年の情勢を確認せねばならない。
196年に司空となった曹操だが、197年は厳しいスタートとなる。
1月、張繡を降伏させたと思ったら騙し討ちをくらい、
実子まで戦死したのである。
その後、荊州方面の対応として曹洪を残すが、
曹操自体の動向はしばらく不明である。
この頃は呂布との関係修復という外交課題をこなしていたが、
それもこれも、張繡、劉表との対決のためであったろう。
そして9月に陳国に侵攻する袁術に対して
曹操自ら迎撃に向かう。


後漢書袁術伝からもこの動きを見ておこう。


袁術は陳国を攻撃し、陳王と駱俊を「誘殺」した。
曹操はこれの討伐に向かうと、袁術は恐れて逃亡し、
張勳、橋蕤を留めて「蘄陽」で防衛させた。
曹操は橋蕤を斬り、張勳は敗走した。


さて、「蘄陽」については通鑑に胡三省注があり、
沛国の蘄県と結びつけている。
確かに「蘄陽県」は存在しないため、場所の確認は必要だ。
沛国の蘄県には蘄水が流れる。
が、これが「蘄陽」と言っていいのか。


三国志の何夔伝を見る。
何夔は陳郡陽夏人である。


袁術と橋蕤とが蘄陽を包囲すると、蘄陽は曹操のために固守した。
何夔は蘄陽の同郡人のため、袁術は何夔に説得させようとした。
何夔はこれを拒んで灊山へと逃げた。


※こう書くと、蘄陽が人名のようにも思えてくるが、
何夔伝での記載状況(たとえば蘄陽を陽と略す箇所なし)、
他伝での記載内容(蘄陽之役と書かれる)など考慮すると
まず人名ではないだろう。


上記の内容を見れば、蘄陽が陳国にあったのは間違いあるまい。
樂進伝、于禁伝によれば、曹操軍は橋蕤を苦県で包囲して破った。
つまり、袁術が残した部隊は陳国で戦った。


袁術軍が沛国の蘄県まで後退して防衛したという見方は魅力的ではある。
197年の袁術軍がそれほど強力には思えないため
陳国のラインで曹操と争うことにどうしても違和感を覚えるからだ。
このあたりは、私の袁術考察が十分でないことにも原因があろう。


さて、陳王の死亡時期の話に戻る。
皇帝僭称後の袁術が陳国に軍糧を要求するのは道理に合わない。
では、皇帝僭称前なのでは、という可能性の話である。
たとえば、陳王死亡が2月か3月だったらどうなのか。


これはこれで別の大きな違和感が生じると言えよう。
当時の曹操の根拠地は許都である。
たしかに1月に張繡に敗北を喫し、体勢の立て直しも必要であったろうが、
許都の目と鼻の先の陳国を蹂躙されて、
それから9月まで7~8か月の間、息をひそめていたとでもいうのか。


また、蘄陽は曹操のために固守したと書かれている。

>術與橋蕤俱攻圍蘄陽,蘄陽為太祖固守。


仮に「蘄陽県」と呼ぶことにするが
その県民たちは曹操に片思いしていたわけではあるまい。
袁術の攻撃を受ける前、曹操の陣営に属していたはずだ。
陳王への恩義から、陳王を殺した袁術に抵抗した可能性だってあるが、
少なくとも史書はそうは記述していない。
曹操のために固守した、と書くだけである。


そしてその蘄陽県の抵抗を
曹操が数か月黙殺するなら、それは不自然である。


以上のように考えていくと、やはり陳王が死亡したのは
袁術の195年の陳国侵攻の頃なのではないかと思う。


なお、駱俊の子の駱統は193年生である。
195年が駱俊の死亡年であっても、そこに矛盾は生じない。


ではなぜ後漢書は、通鑑は、
陳王の死亡を195年とすることが出来なかったのか。


それは195年の陳国侵攻自体を無視しているからである。
三国志武帝紀にハッキリ書かれるこの出来事を
後漢書や通鑑は記載していない。
おそらく三国志の他伝にもこの事件への言及はなく、
またこの時期の豫州情勢は不透明なため、
ばっさりとカットしてしまったのだと思われる。


※あるいは、袁嗣の肩書きが陳相であることを考慮したのか。
陳相と書かれ、陳郡太守でない、つまり陳国は健在という解釈。
しかし、国相と郡太守の記載の混在はよくあり、
これをもって国が健在であったとは言えないと私は考える。


では武帝紀のこの記事は
バッサリ削除するのが妥当なほど、不明瞭な記事なのだろうか。
無視せざると得ないほど、理解しづらい出来事なのだろうか。


つまり、袁術が195年に陳国に攻め入ることが有り得たかどうか、考える。


193年春、南陽を捨てた袁術兗州に攻め入るが、
曹操に敗北して揚州に逃げ込む。
この頃、長安政権の働きかけにより、
山東諸侯の間で和平が結ばれていく。
袁術は揚州を「不法占拠」したものの、
長安政権の任じた揚州刺史の劉繇を迎え入れた。
これは袁術董卓死後の長安=李傕政権を認めたということだ。


しかし193年秋から情勢が変化する。
父の死を理由に、曹操が徐州侵攻を始めたからだ。
時を前後して、袁術も徐州侵攻を考える。
そして廬江太守の陸康に軍糧を要求する。
まるでどこかで聞いた手口だ。
陸康は拒絶し、袁術軍(=孫策)の攻撃を受けて敗北するが
これは194年の出来事だと推測している。
では袁術が徐州侵攻を考えたのは具体的にいつか。
曹操が侵攻を始めた頃なのか、
あるいは劉備陶謙を継いだ頃(194年後半?)か。


私の推測では、孫策は194年の後半には
江南平定へ参加している。
であれば、陸康攻撃は194年の前半か。
その場合、袁術が徐州攻撃を考えたのは、
それより前、つまり陶謙死亡前ということになる。
これはいつかの袁術考察の時のために覚えておくことにする。
そして孫策が劉繇を破って曲阿に入ったのが195年前半。
このタイミングで、江南平定軍の主力である、
孫賁と呉景が寿春に帰還しただろう。

(★※追記。孫策の曲阿入りを195年前半と推測したが、根拠がよく分からなくなってしまった。自分が以前にまとめたメモに準拠しただけなのだが、そのメモが何をもってそう推測したのかが分からない。孫策伝注の江表傳によれば、195年12月に孫策は曲阿にて行殄寇將軍に任命される。これが劉繇平定の少し後と考えるなら、曲阿入りは195年前半とは言えない。が、記事の全面修正はやめておく)


袁術が徐州侵攻に乗り出したのは196年だが、
それも後半に差し掛かった頃と推測している。
195年前半の江南平定から、だいぶ時間が経っている。
袁術は以前から徐州侵攻を考えていたはずだが
なぜそんなに時間が掛かったのか。
そもそもの徐州侵攻案がアイデアどまりであった可能性もあるが
他の仕事に取り掛かっていた可能性もある。
そしてそれが、「豫州侵攻」だったのではないか。


揚州から陳国へは、2つの河川が走っている。
濄水と潁水である。
濄水は譙を通り、武平、陽夏へと続く。
195年に袁術の置いた陳相の袁嗣は武平あたりにいた。
袁術はこの濄水ルートは制圧していたようだ。
譙は後漢時代の豫州刺史の駐屯地である。
194年夏、兗州反乱の時に豫州刺史には郭貢がいたが
その時、郭貢は豫州兗州の州境あたりにいたのでは、
という推測は以前にした。
その後、郭貢は譙県に入ることが出来たか。
しかし、195年の豫州侵攻により、敗北したのかも知れない。


一方、潁水ルート上の項県にも公路城なるものが残っていたようで
袁術(字は公路)が築いたとされる(水經注)。
これは195年のものか、197年のものか判別できない。


気になるのは、195年にしても、197年にしても
驚くほど簡単に袁術が敗北していることである。
それは豫州という平地続きの地形が、
攻めやすく、守りにくいという特性を持つためかも知れない。


以上を踏まえると、
195年に袁術が陳国へ侵攻した可能性はあり得る。
曹操兗州平定に掛かりきりだったことを思えば、
むしろ195年に豫州へ侵攻しなくてどうするか、というタイミングである。
195年に陳国へ侵攻していたのなら、
やはりその時に陳王は死亡したと考えるのが自然であろう。


最後に、195年の陳国侵攻に至る状況について
私の考える時系列を下記にまとめておく。
もちろん、推測が混じっている。

・190年春、陳王の劉寵は、反董卓諸侯と連帯していた。
・その時、陳国相は許瑒(許靖の従弟)だった。
・後に陳国相は交代し、後任は駱俊となった。
・駱俊の政治は威恩あり、隣郡の人々も陳国を頼った。
・193年春、袁術南陽から兗州に侵攻、敗北して揚州へ逃げた。
・その逃走ルートは陳国を避けるようだった。(陳国は安定していた)
・193年夏頃、山東諸侯が和解した。
・193年秋頃、曹操が徐州に侵攻した。
袁術も徐州侵攻を考えるようになった。
・194年(?)、袁術が廬江太守の陸康に軍糧を要求。
・陸康がこれを拒絶すると、袁術は陸康を攻撃した。
・194年(?)、袁術の劉繇攻撃に孫策も加わった。
・194年夏、曹操が二度目の徐州侵攻を開始した。
・しかし兗州が反乱し、曹操は撤兵した。
・このあと195年冬まで、曹操兗州平定に専念する。
曹操撤退後、陶謙劉備豫州刺史とし、小沛に置いた。
・一方で、同時期の豫州刺史には郭貢がいた。
・郭貢は長安政権から任命された刺史と思われる。
・が、郭貢が豫州刺史の治所である譙県にいたかは不明。
・194年冬、陶謙が死亡し、劉備が徐州を継いだ。
劉備は後任の豫州刺史を任命しなかった??
・195年春頃、孫策が劉繇を破り、呉郡曲阿に入った。
(★※追記したように、曲阿入りは195年後半~終盤の可能性も高い)
孫策軍の孫賁、呉景が寿春に帰還した。
・この頃、袁術豫州侵攻を開始したか。
・譙人の許褚は譙県を脱し、砦を作ってそこで自衛。
袁術軍は濄水、潁水沿いに豫州を北上。
・譙県を破り、刺史の郭貢を滅ぼした(推測)。
袁術軍は項県に城を築いた。
・陳国に軍糧を要求したが、陳国は拒絶した。
袁術は陳王の劉寵と、陳相の駱俊を暗殺。
袁術軍は陳国を平定し、陳相に袁嗣を置いた。
・このあと、袁術は徐州侵攻を本格的に考え始める。
・195年秋、呂布が敗北し、徐州に逃走。
・195年冬、曹操が雍丘を破り、兗州平定。
・195年冬、曹操が陳国へ侵攻する。
・196年1月、曹操が陳相の袁嗣を降し、陳国平定。
・196年2月、曹操は潁川、汝南黄巾討伐へ向かう。

※197年まで続けると、陳国以外のところでボロが出そうなのでやめておく。