正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

陶謙配下の曹宏と曹豹(後漢末の避諱のつづき)

前回、後漢末の避諱について言及した。
そちらに簡単に追記もしたのだが、
補足事項がある。


前回のあと、色々なトピックについて考えつつも形にならず、
小ネタでも書こうかと、應劭(応劭)のことなど調べようとして
避諱関連の見落としに気づいた。


張昭伝の注には避諱に関する應劭と張昭の意見が載っている。
読み直して内容自体はすぐに思い出したが
本当なら、前回のときに触れておくべきだったろう。


内容を簡単にメモしておくなら、
應劭の「風俗通」は避諱の対象を拡大・維持すべきという主張のようで、
避諱の対象自体、56名いるというのである。
それに対して様々な意見があったとし(多くは異論であっただろうか)、
張昭もまた、どちらかと言えば「否」の立場で意見を述べている。
主君について尊重するのは当然としても、
「旧君」については序列があり、必ずしも一律の対応とならないこと、
古代においても同様であったことに触れている。


ここから分かるのは、避諱が完全にルール化されてはいなかったという点で、
たとえば後漢の7代皇帝の少帝(劉懿)が避諱の対象とならなかった原因は
少帝が夭逝し、「正式な皇帝扱いされなかったため」とは言えないかも知れない。
桓帝(劉志)の少しあとの時代に「戲志才」「閻志」がいても
それほど問題ではなかったのかも知れない。


では、霊帝(劉宏)の同時代に
曹宏を名乗ることは有り得たのだろうか。


三国志魏書の本文は陶謙に手厳しいのは既知のことだが
その主張のひとつとして、「曹宏のような讒慝小人を親任し」し、
一方で徐方名士の趙昱がうとまれた、というのがある。
が、前にも書いたと思うが、
陶謙は趙昱を徐州の別駕従事に、王朗を治中従事に起用している。
別駕は州の副官で、治中は事務方トップ、のような要職である。
そして陶謙長安政権に遣使して勤王の意を表すと、
趙昱は広陵太守、王朗は会稽太守に栄転した。
これを「遠ざけた」と解釈する見方には同意できない。


さて、曹宏はここにしか出てこない人物である。
曹宏が同時代の主君たる霊帝の諱を犯しているとなると
陶謙伝における陶謙の評価への信憑性だけでなく、
曹宏という人物の存在すら疑われてくる。


霊帝は在位168年~189年であり、
死後も皇統はその子に引き継がれた。
霊帝の末年に徐州が黄巾に荒らされ、
その対策にあたった陶謙は194年に死去する。
たとえば、霊帝の同時代に「曹宏」を名乗ることも、
霊帝の死後まもなく「曹宏」を名乗り始めることも違和感があるが、
應劭や張昭の論説から分かるとおり、避諱がルール化されていないのなら
この違和感自体が無用なものなのだろうか。


私には結論は出せないので
この違和感が正しいものとして話を進める。
つまり、この時代に「曹宏」が有り得ないのであれば
この陶謙伝の一文は陶謙を貶めるために
後代にゼロから作成されたものなのか。
あるいは、「曹宏」に該当する人物自体はおり、
転写するうちに「曹宏」に書き換えられてしまったのか。


もし「曹宏」に該当する人物がいるなら
それは曹豹だったりはしないのか。


曹豹は陶謙、ついで劉備に仕えた人物で
正史での記述はわずかだが
まぁ三国志ファンにとっては「有名人」である。


正史に限定して話を続けていくと、
陶謙時代には将軍として名が出てきており、
曹操の徐州侵攻に対する防衛を行っている(が、敗北する)。
その後、劉備に仕えたようだが、
呂布による徐州乗っ取り時の主要人物となる。
呂布伝注の英雄記によれば、
当時、曹豹は下邳相であり、張飛により殺害された。


先主伝では曹豹は「下邳守將」と書かれ、
先主伝注の英雄記では「陶謙故將曹豹在下邳」とあり、
下邳相とは書かれていない。
また、張飛に殺されたとも書かれない。


まず、曹豹が下邳相であったなら、劉備に重用されたということだ。
「下邳守將」であった場合は、そこは微妙なところだ。
ただし私は劉備に全幅の信頼を置いているので
劉備が重用したのであれば曹豹は小人ではあるまい、と判断する。


また、正史での曹豹は軍人のイメージが強く、
陶謙が黄巾平定のために連れてきた、
丹陽兵を統率する丹陽人という推測は容易にできる。
だが、もし「下邳相」というのが正しく、
または曹豹=曹宏であり、趙昱と比較される立場であったのならば
徐州の要人であった可能性も俄然高まってくる。


妄想をもうひとつ。
後漢書には曹褒伝がある。
曹仁の祖父が曹褒だが、それとは別人である。


曹褒は後漢中期の儒者で、没年は102年。
出身は魯国薛県である。
以前の記事でも触れたが、
東海王国は魯国も有し、東海王の治所は魯国にあった。
その関係性から、陶謙は魯国を勢力圏に置いていたと推測するが、
であれば、陶謙に仕えた曹氏は、魯国薛県の人なのかも知れない。


以上は書くまでもない妄想まじりの論であるが
書かずにいても居心地が悪いので
このような小ネタも解放していきたい。
次回も小ネタで、応劭の予定。

 

(※★追記。下邳の反乱においては、曹豹が殺害されたあと、丹陽人の許耽が呂布軍を迎え入れるという流れがある。許耽が劉備張飛)を裏切ったのは、曹豹の死に反発したからで、両者ともに丹陽人である、という可能性もふと思ったので追記しておく。)