正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

孫叔然は孫堅のいとこなのか?

三国志にちょろっと登場する儒者、孫叔然。
裴松之は注をつけて、孫叔然の名は「炎」だという。
司馬炎と同名のために、孫叔然と書かれたのだと。

 

孫炎は青州樂安郡の人で、鄭玄の門下であり
「東州大儒」と称された。
祕書監に任命されたが就任しなかった。
王肅(195-256)が鄭玄の学説をそしると
孫炎はこれに反駁した。
周易、春秋例,毛詩、禮記、春秋三傳、國語、爾雅の
諸注を作った。

 

先日、「中国古典を読むために」という本を読んでいたら
(といっても斜め読みで、さらに途中までしか進んでいない)
この「マイナーな」孫炎が出てきて意外だった。
漢字の音を表す「反切」というものがあるが
孫炎の爾雅注こそがその最古のものである可能性もあるとか。

 

四書五経など、中国の古典を学ぶ人々にとっては
なじみ深い人物であったりするのか。

 

さて、新唐書に宰相世系という巻があり
唐代の宰相の家系を記しているが
その先祖の部分についてはまぁ眉唾物であるらしい。

 

それを見てみると、唐代に孫偓(844-919)なる人物がおり
当時の宰相たる「同中書門下平章事」となっている。
その17代前くらいの祖先が孫炎らしく、
また、孫炎から孫武へ連なる家系も記される。

 

ここで言うには、漢陽太守の孫躭には二子あり、
一人が孫鍾で、孫権はその子孫である。
もう一人が孫旃で、孫炎の父である。

 

つまり孫炎は鄭玄(127-200)の弟子であり、
孫堅(156-192)のイトコであるという。
そして後に王肅(195-256)と論争になった。
たとえば孫炎が170年頃の生まれで
王肅と230年代に論争したと考えれば
とくに矛盾は感じない。

 

ただ、孫炎の周辺をさぐると、怪しくなっていく。
まず、孫炎の弟が孫歴で、その子は孫旂だという。
孫旂は晋書に伝があり、父が孫歴というのは矛盾はない。
その孫旂は趙王の司馬倫に与して301年に殺害される。

 

一方で孫炎の子孫である。
孫炎の玄孫の孫烈なる人物は
趙王の司馬倫の乱を避けて昌黎に移住する。
そのため、彼の子孫は慕容鮮卑の燕に仕えていく。

 

仮の生年をふって考えてみる。

 

孫炎(170年生?)
その子の孫倰(195年生?)
その子の孫道恭(220年生?)
その子の孫芳(245年生?)
その子の孫烈(270年生?)

そして301年に昌黎に移住する。
こちらは違和感はない。

一方で

孫炎の弟=孫歴(200年生?)
その子の孫旂(240年生?)

 

孫歴は魏晋交代期の幽州刺史である(晋書)。
孫旂は301年に殺害される。

 

孫歴を200年生くらいに仮定しても
孫炎とは30歳差くらいの兄弟となる。
あり得ないことはないだろうが、違和感の方が大きい。
もとより信憑性の疑われる新唐書の宰相世系、
孫炎が孫堅のイトコという説は、
参考程度にとどめておくことにしよう。

 

また、新唐書の宰相世系とは関係ない話だが、
晋書によれば匈奴人の劉宣は孫炎に学んだという。
後に匈奴が独立して漢を建国した時(304年)、
劉宣はその初代丞相となる。
劉宣の没年は308年。
仮に230年頃の生まれとしても、
孫炎に師事するのはかなりギリギリになりそうだ。

 

ただ、匈奴人の漢(=前趙)は
晋人の儒学者をけっこう重用しているので
劉宣が本当に孫炎に学んでいなかったとしても
孫炎に学んだかのようにしたかった、
儒教的素養のある人物にしたかったように見えてちょっと面白い。