正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

陶謙の出身県、一族②(劉備は徐州を乗っ取ったのか?)

三国志本文は陶謙が病死したと記し、終わる。
そこに注がつき、韋昭の呉書を引いて
陶謙の二子のことを書いている。

 

「謙二子:商、應,皆不仕。」

 

昨今の三国志ファンの間で
どのような意見がトレンドなのか
よく分かっていないのだが
15年前くらいにネットで見たもののひとつに
「正史の劉備はうさんくさい奴」のようなものがあった。
また、それに対する反論も見かけたし、
私も反対する立場である。

 

不毛な考察かも知れないが、
その説の陶謙に関する部分について
反論というか、状況の整理をしておきたい。

 

そもそも陶謙劉備に「徐州を譲った」逸話は
ちょっと美談に過ぎるというか
違和感がないこともない。
であるから、「陶謙が徐州を譲った」のではなく、
劉備が徐州を乗っ取ったのでは?」と
一度くらい考えることはあってもいいだろう。

 

そして劉備が徐州を乗っ取ったからこそ
陶謙の二子は劉備に仕えなかったのだと、
そういう意見も見たことがあった。

 

そこでまず最初に考えたいのは
二子はどこにいたのか、ということだ。

 

孫堅が(反董卓のために)挙兵したとき
孫策とその母は盧江郡舒県に移住した。
孫策はその頃、16歳くらいである。

 

劉焉についても見ておこう。
劉焉が益州に割拠したとき、
そこに従った子は劉瑁だけである。
他の三子は皆、長安にて官職を得ていた。
後に劉璋が使者となって劉焉に合流したが、
残りの二子は李傕政権に殺された。

 

陶謙は享年63で、その二子も成人していたであろうか。
であるのに「不仕」とあり、
彼らの最終の官名も記載がない。
つまり劉備どうこう以前にまず
いかなる官職にも就いたことがなかったと考えるべきである。

 

陶謙のもとで官職に就いていたのでもないだろうし
劉焉の三子のように、州の長官の子として
中央政府のもとに役職についていたのでもないだろう。

 

なぜ官職につかなかったのか。
役人向きの能力がなかったのか。
あるいは隠棲指向だったのか。
おそらく後者であろう。
役人になることを良しとせずに
隠棲した士人も多い。

 

とりわけ、わざわざ韋昭の呉書が
二人の名前を残していることに注目する。
つまり、適正がなくて官職に就けなかったのでなく、
自らその道を選んだ者であるため、
敢えて史書に名を残しておいたのではないか。
もしかしたらオリジナルの韋昭の呉書には
もっと詳しく、二人の字(あざな)であるとか、
または隠者としての逸話も載せていたかも知れない。

 

あるいは、その二人の子孫が呉に仕えていたのかも知れない。
たとえば前回見た交州刺史の陶基は
世代的には彼らの子か孫であってもおかしくない。

 

そこまで行くと想像に過ぎるが
「不仕」という書き方からは
故郷の丹陽に残っていた可能性が大きいように思える。

 

そして更に言うなら、
州の長官の位というものは
本来は勝手に世襲するようなものではない。
仮に陶謙の二子が徐州にいたとしても
その二子に位を継がせるのが正当ということではない。


当時は乱世が始まったばかりであり、
世の中がどうなっていくか、誰も見通せなかった。
その中で、役職を血族に継承させる者も出てくるが
それは正当なことではなかったし
そうでない判断をする者がいても、別に不自然とまでは言えまい。


仮に劉備が何らかの策謀を用いて
陶謙に徐州を譲らせた」としても
陶謙の二子にそれを咎める権利はない。


であるのに、なぜ「劉備は徐州を乗っ取ったのでは?」
などと考える人がいたのか。
そのヒントは三国志演義にあるのかも知れない。

 

三国志演義
謙曰:「請玄德公來,不為別事:止因老夫病已危篤,
朝夕難保;萬望明公可憐漢家城池為重,
受取徐州牌印,老夫死亦瞑目矣!」
玄德曰:「君有二子,何不傳之?」
謙曰:「長子商,次子應,其才皆不堪任。
老夫死後,猶望明公教誨,切勿令掌州事。」

 

陶謙が死に際にあって、劉備に徐州を譲ろうとした。
劉備は「なぜ貴方の二子に継がせないか」と辞退。
陶謙は二子はその任に堪えないと言う。

 

つまり、演義からして二子の状況を誤解、
あるいは決めつけており、
「徐州乗っ取った説」こそが
むしろ正史よりも演義の印象に依拠していたのである。

あんまり演義と正史の比較をするのも意味ない気がするが
書き始めてしまったので、これも残しておくことにする。

 

陶謙の考察はキリがないので
そのすべてを一気に取り扱うことはしない。
だが、次回もちょっと陶謙絡みで
「下邳闕宣」を考えてみる予定。