正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

涼州反乱の整理(220年-223年)

曹操は河西回廊を支配していなかったのかも知れない、
という記事を前回書いた。
あるいは晩年になってその支配を進めつつあったが
そこに火種を抱えたまま曹操は世を去った。
そして曹丕の代になると同時に
河西は燃え上がった。
それも一度でなく、二度、三度と。

 

帝紀がその時系列を丁寧に追っているとは言い難い。
それもあってか、私の頭の中では整理がついていなかった。
今回書きたいのは
各反乱の一覧化、時系列の整理、
そして蘇則がいつ中央に召還されたか、である。

 

さて、長々と行ったり来たりの考察を載せる前に、
記事を書き上げたあとに作った地図を置いておこう。
各郡の反乱者一覧であるが、反乱年は推定のものを含む。
なお、今回とは関係ない鄭甘、安定盧水胡もなんとなく載せてみた。

 

涼州の反乱者一覧



まず文帝紀の関連部分を見る。
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・220年1月、曹丕が魏王に即位する。
・5月、馮翊山賊の鄭甘らが帰伏してくる(※鄭甘は後に反乱)
・(5月の記事に続けて)酒泉、張掖の反乱が記され、
金城太守の蘇則がこれを平定したとする。
(このあと、6月の記事に続く)

 

帝紀の注の王沈「魏書」
・221年11月、曹真は配下の将軍らと州郡に命じて
叛胡の治元多、盧水、封賞らを斬った。河西はついに平定された。

 

・222年2月、(西域の)鄯善国らから使者が到着した。
このあと西域との道が通じたので、(西域)戊己校尉を置いた。
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大きく分けて2つの時期に戦闘があったと分かるが
それぞれの始まりと終わりがハッキリしていない。
これが(私にとっての)混乱の原因となっている。

 

また、「治元多、盧水、封賞」の盧水が人名を指すのか、
あるいは盧水胡を指すのか。
またそれが涼州盧水胡のことか、安定盧水胡のことか。
これは別の機会に考えたい。
封賞についても「褒美/爵位を与える」という用語として頻出しており
人名なのか疑問に思う。
あるいは「盧水封賞=盧水胡の封賞」という意味なのか。
いったん無視し、他伝にも出てくる「治元多」のみに集中する。


次に蘇則伝。
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曹操が死去すると西平の麴演が反乱。蘇則が討伐に向かうと麴演は降伏した。
曹丕は蘇則に護羌校尉を加官し、関内侯を賜った。

 

・後に麴演は再び反乱し、張掖の張進、酒泉の黃華がこれに呼応した。
武威でも三種胡が乱をなし、太守の毌丘興が救援を求めた。
蘇則は金城駐屯の将軍・郝昭や、羌族のリーダーらに対して積極策を提案し、
武威を救い、三種胡が降伏すると、張掖に進撃した。
麴演はこれを知り、援軍のふりをして蘇則に合流し、変事を起こそうとしたが
蘇則は会見の場でこれを斬った。
そのまま張掖を破り、張進を斬った。
黃華は降伏し、河西は平定された。
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この功績から蘇則は都亭侯に昇進するのだが、このあと侍中に召還される。
それが221年の治元多らの反乱の前なのか、後なのかはハッキリしない。

 

※文帝紀の注では、とくに出典を記さす
「黃華は後に兗州刺史となる。王淩伝に見える。」と書く。
これは裴松之の意見だろうか。
確かに王淩伝に兗州刺史の黃華なる人物が出てくる。
時代は30年ほど違う。
黃華の最初の蜂起はさらに10年ほど遡るが、
それでも年代的矛盾があるとは断言できない。
だが、そちらの黃華も特に酒泉人であるとか、
河西反乱の黃華と同一人物である根拠は特にない。
私は同姓同名の別人だと思っている。


次に張既伝。
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曹丕が魏王となると、初めて涼州を設置し、鄒岐を刺史とした。
・張掖の張進が反乱し、黃華、麴演が呼応した。
・張既は軍を進めて蘇則への後ろ盾をなし、そのため蘇則は功を為せた。

 

涼州盧水胡の伊健妓妾、治元多らが反乱。河西が混乱に陥った。
曹丕は鄒岐を更迭し、雍州刺史の張既を涼州刺史とした。
曹丕は夏侯儒、費曜らを援軍に送った。
・張既は積極策を取り、武威まで進撃して胡を大破した。
・その功績から二百戸を増封された

 

・酒泉の蘇衡が反乱し、羌豪の鄰戴、丁令胡と隣県を侵略した。
・張既と夏侯儒がこれを破り、蘇衡、鄰戴らは降伏した。
・上奏して夏侯儒と左城を基地化し、胡族の乱に備えた。

 

・西羌が降伏してきた。
・西平の麴光らが太守を殺して反乱した。
・張既が羌族らに檄文を飛ばし、麴光の協力者も許すとした。
・麴光は味方により殺され、麴光以外はみな赦された。

 

・張既は223年に死去した。
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ここまで見ても、河西は平定された、などと言いながら
何度も乱を繰り返しているのが分かる。

 

①220年、曹操死去に伴う麴演の乱(西平)
②220年、麴演、三種胡、張進、黃華の乱(西平、武威、張掖、酒泉)
③221年、涼州盧水胡の治元多らの乱(武威)
④蘇衡の乱(酒泉)
⑤麴光の乱(西平)

 

④と⑤は時期不明だが、張既の死ぬ223年以前である。
治元多らの根城は不明だが、戦場になったのは武威である。

 

いや、「治元多ら」と誤魔化して書く前に
伊健妓妾のことにも触れねばならない。
この人物は他伝には出てこない。
治元多は文帝紀に出てくる。

 

帝紀
>鎮西將軍曹真命眾將及州郡兵討破叛胡治元多、盧水、封賞等,斬首五萬餘級

 

張既伝:
涼州盧水胡伊健妓妾、治元多等反,河西大擾。

 

これは本当に涼州盧水胡の「伊健妓妾」、「治元多」ら、と読んで良いのか。
涼州盧水胡の「伊健妓妾治元多」ら、つまり一人の人物でないと言えるのか。
あるいは、涼州盧水胡の「伊健」、「妓妾」、「治元多」ら、という可能性もあろう。
妓妾を一般用語と見なし、愛人、側室、妓女のような意味とするならば、
涼州盧水胡の「伊健」の妓女の「治元多」が反乱のリーダーだった、
そういう解釈も出来るだろうか。

 

時代は下り、郭淮伝には「涼州名胡治無戴」なる者が出てくる。
これは「治元多」の同族ではないのか。
つまり、「治」は姓ではないのかとも思うが、
郭淮伝に3回ほど「治無戴」と書かれ、
1回だけ「無戴」と略されている。
陳寿が「治」を姓と見なしたかどうかは曖昧だ。

 

まぁ結論から言えば、「伊健妓妾」はもうよく分からない。
「治元多」のことだけ考えていこう。

 

さて、先に張既死後のことを簡単に見ておこう。
後任は溫恢なのだが、溫恢は赴任の道中で死去。
その後任は孟建、荊州時代の諸葛亮の友人である。
227年には西平の麴英が反乱し、将軍の郝昭がこれを斬ったが
おそらくその時の涼州刺史は孟建であろう。
その後任は徐邈。
着任は諸葛亮が祁山に侵攻した頃だというから228年だろうか。
その徐邈が中央に戻るのは240年、
涼州刺史として長期政権となったが、
その間、羌族の柯吾を討伐した記録はあるものの
統治は実に安定している印象である。
徐邈時代以降の河西方面は今回は触れない。

 

ここまでで分かったことは、223年までに反乱が5回ほど起きたこと。
それで完全に消火されずに、227年にも反乱が起きたこと。
それ以後はしばらく平穏になったこと、である。

 

張既伝に戻り、気になる箇所を考えていく。まずは「左城」。
ここまでの記事では省いたが、
②と③では黄河の渡河について、曹魏軍の迷いが書かれている。
そして③の最後に「左城」を防衛基地化したようなことが書いてある。

 

>遂上疏請與儒治左城,築鄣塞,置烽候、邸閣以備胡。

 

ちくま訳に沿って解釈すれば
左城を修理し、砦、のろし台、食料備蓄庫を築き、胡族対策とした、
とのことである。

 

金城県は黄河南岸の都市のようだが
三国志集解は、左城を黄河北岸の「左南城」と匂わせている。
水經注図を見るに、左南城は黄河を隔てるも
金城県にかなり近い。
黄河上流のこのあたりは現代では川幅は200mほどのようで
北岸南岸でどれほどの違いがあるのかよく分からない。
だが、よくよく水經注図を見てみると
左南城は湟水の合流地点より西方にある。
それを考慮して現在の地図を見ると
金城と左南城とは東西の距離は50キロほどありそうである。
このように見ていくと、水經注図は方位や縮尺などに関しては
怪しい部分もけっこうあり、鵜呑みにしてはいけないという感想も持つ。

 

そして現在の地図を見るに
左南城は甘粛省臨夏回族自治州の
永靖県の広山寺のあたりにあったろう。
こうなると左城=左南城という説が疑問に思えてくる。

 

というのは、②と③の際、渡河に迷いがあった。
それであれば、黄河北岸に基地を設けておく。
それは分かる。
しかし左南城は黄河北岸とはいえ、湟水の南岸でもある。
そして金城からは遠い。
左南城は北を湟水、南を黄河に挟まれ
防衛拠点としては最適と思われるが、
そもそも河西の反乱では金城は攻撃を受けていない。
必要だったのは金城より前線に近い基地だったのではないか。
左南城は西平には近い。
そして西平も反乱頻発地帯だが、
河西反乱での一番の脅威は武威周辺の胡族であったろう。
本当に左城=左南城だと見なして良いのか。
よく分からないが、この疑問をメモとして残しておく。

 

なんだか随分と脇道に逸れている。
だが「本題」に入る前に、周辺の情報の整理をすすめる。

 

盧水胡については別の機会に考える。

 

河西平定に参加した将軍としては
郝昭、費曜、夏侯儒の名は覚えておいて良いだろうか。
郝昭は諸葛亮の北伐で出てくる有名人である。
費曜も同様だが、後将軍にまで昇進する点は特筆すべきか。
いずれ後将軍についても書かねばならない。
その時にまた名前が出てくるだろう。
夏侯儒は夏侯尚の従弟である。
夏侯尚は文帝時代の荊州方面の司令官だが
明帝の時代になってそれを引き継いだのが夏侯儒と考えればよい。
あまりにも影が薄いが、役割的には極めて大きい。
なぜ、影が薄いのか、そのあたりもいずれ整理したい。

 

この将軍らを統括していたと思われるのが
鎮西將軍,假節、都督雍涼州諸軍事の曹真である。
長安には安西将軍の夏侯楙がいたはずだ。
曹真がいたのは扶風の郿県だろうか。

 

漢中という防衛拠点を失った曹魏にとっては
秦嶺山脈が天然の要害として対劉備の盾となったが
そこを突破された場合、守るべき都市が東西に散らばっていた。
それが長安、郿、陳倉、冀城などであった。
陳倉には張郃がいた(漢中放棄の直後)。
やはり曹真がいたのは郿県あたりではないか。
では雍州刺史の張既はどこにいたのだろうか。
蘇則へのバックアップをしたときは少なくとも冀城にはいたはずだが
本来の在所はもっと東方だったと思われる。
張既の後任は郭淮である。
つまり、ある意味で冀城以西というのは孤立気味であって
諸葛亮が北伐でここを狙ったのも筋が通る。

 

※私は何年も北伐あたりのところを読み返していないので
迂闊なことは言えない。いずれ復習したい。

 

さて、本題。

①220年、曹操死去に伴う麴演の乱(西平)
②220年、麴演、三種胡、張進、黃華の乱(西平、武威、張掖、酒泉)
③221年、涼州盧水胡の治元多らの乱(武威)
④蘇衡の乱(酒泉)
⑤麴光の乱(西平)

 

蘇則伝には①②は載っている。③以降はない。
では、②の直後に蘇則は中央に召還されたのか、というのがハッキリしなかった。
武威太守の毌丘興も②には出てくるが、③には出てこない。
たとえば、両者とも③のときにも在任中だったが
あまり活躍できなかったとか、失敗があったとかで
本伝に書かれなかった、というような可能性はゼロではない。

 

が、色々と整理してきて、
やはり両者とも②の直後に召還されたのだと思うに至った。
(蘇則は侍中に、毌丘興は將作大匠となる)
そして結果論として、それは失敗だったということだ。
曹丕涼州の乱がひと段落したと判断し、
功績のあった両者を呼び寄せた。
とりわけ、蘇則は全く知らなかった人物であった。
それをいきなり侍中に抜擢した。
この頃の曹丕政権の中心は尚書令の桓階である。
彼の推薦であろうか。
また、張魯討伐に従軍したメンバーは蘇則と会っている。
そのメンバーであり、すでに侍中になっていた、
劉曄、辛毗あたりの推薦であろうか。

 

いずれにしても、蘇則と毌丘興を召還し、
もしかしたらそれが引き金になって治元多らの反乱になったのかも知れぬ。
時の涼州刺史は鄒岐。もと安定太守である。
安定郡は異民族の多い地であるから、
その時に業績を上げ、手腕を買われたのだろうか。
鄒岐以下の新体制で十分と判断したのかも知れないが
鎮火したばかりの火種は結果的に再び燃え上がることとなり、
張既を送り込まざるを得なくなった。

 

この治元多の鎮圧は221年11月。
では反乱の始まりはいつ頃か。
もし半年ほどの反乱であったなら、
蘇則らの召還はその前、221年の春頃だろうか。

 

以前の蘇則の記事で
曹真の中央召還が222年なのだから
蘇則の召還も同じ頃かも知れないと追記したが
やはり221年の召還なのだろうと考える。

 

曹真の召還は涼州情勢以上に
対呉戦線の火ぶたが切られることが理由であろう。
開戦が9月、10月頃なので、その数か月前の召還か。

 

222年2月には西域から使者が届いている。
その時期は平穏であったろうから、
④酒泉の蘇衡の反乱は222年の後半か。
そして⑤麴光の乱が223年前半で、
張既の死去が223年の後半だろうか。

 

ちょっと気になるのは敦煌のことである。
敦煌は太守不在で、敦煌人の張恭が郡をまとめていた。

 

220年の酒泉、張掖反乱の際には
酒泉に圧力を加え、これが蘇則の成功をもたらしたとされる。
また、乱の最中には、鉄騎200を派遣し、
酒泉北塞を経て張掖北方の黄河に出て、太守の尹奉を迎えたという。

 

>別遣鐵騎二百,迎吏官屬,東緣酒泉北塞,徑出張掖北河,逢迎太守尹奉。

 

しかし敦煌黄河とは広大な砂漠で寸断されており、
具体的にどのようなルートを辿ったのかあまりピンと来ない。
「河」というのは黄河のことを指すはずなのだが、
張掖北河というのが本当に黄河のことなのかが謎の原因だ。
一応、メモとして残しておく。

 

さて、乱の平定後の221年、関内侯を与えられ、西域戊己校尉を拝命した。
これだけ読むと、それを受けて西域との使者の往来が起こったように思うが
帝紀では222年の2月の使者到着より後になってから
戊己校尉を設置したかのように書いてある。
では、その222年某月まで、張恭の官職が何であったか不明である。
もしかしたら221年前半に蘇則らと共に中央に召還されて
駙馬都尉のような「名誉職っぽい職」に一時的に就いていたとか?
であれば、221年11月に治元多の乱が終わり、
222年2月に西域からの使者が到来し、
その時に張恭が西域対策についても意見具申したかも知れない。
それを受けて西域戊己校尉を設置し、
張恭をそれに任命した可能性もあるだろうか。
もっともこれは飛躍した想像である。
中央に召還されず、敦煌に残り太守の尹奉を支えていたのだろうか。
敦煌郡の功曹の職に戻っていたのだろうか。
いずれにしても戊己校尉への任命の時期は
酒泉の蘇衡の反乱(222年の後半?)とは重なっていないだろう。


あと、今回書いていて気になることも出てきたので触れておく。

 

その①

曹操が死去すると西平の麴演が反乱。
>蘇則が討伐に向かうと麴演は降伏した。
曹丕は蘇則に護羌校尉を加官し、関内侯を賜った。

 

この少し前、蘇則は朧西の反乱も鎮圧している。

 

>李越以隴西反,則率羌胡圍越,越即請服。

 

まず、蘇則は郡境を越えて鎮圧に向かっている。
誰かの命令を受けたか、独自の判断かも不明。
討伐に当たっては、羌族・胡族を従えている。
が、この時、蘇則は護羌校尉ではない。
討伐後、賜爵を受けてはいない。

 

もしかしたら曹操時代の晩年のため、賜爵が間に合わなかったのかも知れない。
あるいは反乱が小規模だったのかとも思ったが
郡境を越えての討伐である以上、そうとも言い切れない。

 

この蘇則について、三国志集解は最大限の賛辞を送っている。
誰の言葉か書かれていないが、集解の作者の盧弼の意見ということか。

 

>則為金城太守、出境圍隴西、服李越、
>救武威、撃張掖、誘麴演、斬張進、降黃華、平河西。
>以一郡守而出境討賊、立功是如、
>不第為邊郡之賢太守、且為智勇兼全之名将也。

 

最後の行が難しいが
エリートコースに乗れずに辺境に行って優秀な太守となったが
ついには智勇どちらも兼ね備えた名将となった、という意味か。
同感である。
張既は曹魏の一級の人物だが、それに決して劣らぬ。

 

ただ気になるとしたら、
武都太守時代の事績である。
曹操張魯討伐の際に武都を通り、蘇則と会って「悦んだ」。
だが武都の氐人は多くは曹操に敵対した。
蘇則の武都統治はどのようなものだったか。
いつか考えてみたい。

 

その②

曹操の死去の際の麴演の最初の反乱。
これを瞬時に降伏させた蘇則は爵位を賜るが
この時、蘇則がそれに値する人物か、
文帝は張既に問い、その内容が三国志注に残っている。

 

>文帝令問雍州刺史張既曰:「試守金城太守蘇則,既有綏民平夷之功,
>聞又出軍西定湟中,為河西作聲勢,吾甚嘉之。(後略)

 

(意訳)
金城太守の蘇則はすでに民を安んじ、夷狄を平らげる功があったが
聞くところによるとまた軍を出し、西に向かい湟中を平定し、
河西のために聲勢を為したとか。吾れの甚だ喜ぶところである。

 

聲勢とか聲援という言葉が史書によく出てくるが、
要は遠くにあって軍事的プレゼンスを大いに示すということである。
それによって敵方の威勢を挫く。
つまり、ここだけ読むと、曹操死去に応じて麴演が反乱した際、
河西はすでに不安定な状態だったことになる。
蘇則伝を読むに、麴演は一度目は単独で蜂起、
二度目は酒泉、張掖を巻き込んで蜂起したように見えるが、
一度目の蜂起前、あるいは同時期に
すでに酒泉、張掖に反乱が生じていたことを匂わせる。
これは、曹操時代の末期に敦煌張恭が送った使者が
酒泉で捕虜にされたということと符合する。
つまり蘇則伝の本文の下記の箇所だけがミスリーディングというか、
不正確な表記なのかも知れぬ。

 

>後演復結旁郡為亂,張掖張進執太守杜通,酒泉黃華不受太守辛機,
>進、華皆自稱太守以應之。

 

そもそも、麴演は蘇則に助勢すると見せかけて近づき、
逆に蘇則に斬られている。
上記の反乱当初の記事を誤りと見なしてスルーし、
残りの時系列だけ書くと以下のようになる。

 

・酒泉は豪族の黃華が実効支配している。
敦煌からの使者を黃華が拘束する。
曹操が死去する。麴演が反乱するが、蘇則に降伏する。
曹丕涼州を置く。
・酒泉、張掖が(新任の?)太守を追い出す。涼州刺史も拒む。
・麴演が西平太守を追い出す。
・武威の三種胡が反乱する。毌丘興が蘇則に救援を求める。
・蘇則が黄河を渡り、武威へ進む。三種胡が降伏。
・蘇則、毌丘興が張掖へ進む
・麴演が蘇則に合流して、助勢するふりをする。
・蘇則はこれを見破り、麴演を斬る。
・麴演の首を晒すと、その一味は散走した。
・蘇則らは張掖を包囲し、これを破る。
・張進とその支党を斬り、残りの衆は降伏した。
・酒泉の黃華は麴演敗北を懼れ、降伏した。

 

なるほど。張既伝を考えたあとだと見えてくるものがある。
武威の三種胡は降伏した。
つまり首謀者はおそらく生き残った。
これが221年の反乱に繋がる。
麴演の一味も散走した(生き延びた)。
これも後の西平の反乱頻発に繋がる。
酒泉は降伏した。
これも222年?の酒泉の再反乱に繋がる。
一方で張掖については火種を消すところまで貫徹できた。
そういうことだろうか。

そして220年の反乱は麴演がその首謀者ではなかった。
であればこそ、蘇則はまず武威、
ついで張掖の鎮定を試みた。


最後に、資治通鑑も確認したが、
特に三国志の考察に加えて書くべき事柄は載っていなかった。
侍中としての蘇則の発言が
220年の事項の最後に載っているくらいか。
だが特にそれを220年の事とする根拠が見当たらないので
個人的にはそれは鵜呑みには出来ない。


今回はいつもにもまして取っ散らかった記事となったが
最後に簡単なまとめを残しておく。

 

[まとめ]
・220年~223年の涼州反乱は下記の5件。
①220年、曹操死去に伴う麴演の乱(西平)
②220年、麴演、三種胡、張進、黃華の乱(西平、武威、張掖、酒泉)
③221年、涼州盧水胡の治元多らの乱(武威)
④222年頃(?)、蘇衡の乱(酒泉)
⑤223年頃(?)、麴光の乱(西平)

 

・②の乱は麴演が主導し、酒泉、張掖が呼応したものとは断定できない。
・②の平定後に蘇則と毌丘興を中央に召還。
・それがあだとなり、涼州が再び乱れた。
・それの対応として、張既を送り込んだ。
・張既は⑤平定後、223年に死去
・その後の涼州は比較的安定する