正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

蘇則の気持ち

曹操から曹丕に代替わりし、
その曹丕が魏王に即位してから、
皇帝となるまでおよそ10か月。
その頃から涼州では反乱が頻発し
その平定に功績があったのが金城太守の蘇則である。
蘇則はその結果、侍中となって曹丕に側仕えする栄誉を得た。
蘇則は演義には出てこないので
三国志ファンにどのように思われているかは分からない。

 

今回の記事では蘇則の事績の細部を検証するのではなく
彼の独特の立ち位置を考えてみたい。

 

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<蘇則の略歴>
蘇則は右扶風(≒扶風郡)の武功県の人で、名家の出であった。
若くして学問をもって名を知られ、孝廉・茂才に推挙され、
公府に召されたが応じなかった。
興平中(194-195)、飢饉のために北地郡へ疎開した。
ついで安定郡へ移り、また、扶風の太白山に隠棲した。

 

その後、無官の身から起用されて酒泉太守となり、
安定太守、武都太守を歴任した。
曹操張魯を討伐した時(215年)、蘇則の郡を通ったが(武都であろう)
蘇則に軍の道案内をさせた。
その後、金城太守となり、韓遂の乱で荒廃した郡を復興させた。
李越が隴西で反乱するとこれを鎮圧した。

 

曹操が崩じると、西平の麴演が反乱した。
蘇則が討伐に向かうと麴演は降伏した。
曹丕は蘇則に護羌校尉を加官し、関内侯に封じた。
後に麴演が再び離反し、張掖郡、酒泉郡、武威郡の反乱と通じたが、
蘇則はこの鎮圧に功績あり、都亭侯に昇進した。
漢魏禅譲の際、金城にいた蘇則は献帝崩御したと思い、喪に服した。

(※曹操崩御、麴演の反乱、漢魏禅譲の時系列については
他伝とで不一致な箇所もあり、整理が必要。)

 

中央に召還され侍中となった。
この間に直言の臣としての言葉、逸話が多く残っている。
しかしその直言を煙たがられて、東平相に左遷され、
赴任の道中に病没した。
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蘇則伝から考えるべきことが大まかに3つある。
①蘇則の前半生のこと
②蘇則の金城太守時代の活躍。涼州反乱の詳細
③蘇則の侍中時代のこと

 

②は今回はスキップする。張既伝などと合わせ、別の整理する必要がある。

 

①を考える。
蘇則はいつ酒泉太守となったか。
興平年間(194-195)、蘇則は出仕していなかった。
196年、献帝曹操の庇護下に入る。
198年、朝廷から討伐軍が派遣され、李傕が滅亡する。

 

おそらく曹操政権が西方の太守の任命を行えたのは
李傕の滅亡後であろう。
さらに言えば、その頃、馬騰韓遂の対立を曹操が収めており、
それ以降に西方の人事を行ったはずだ。
そして馬騰韓遂の和解は、官渡の戦い(200年)の前夜だろうか。

 

その頃、蘇則は酒泉太守となったと仮定する。
ではいつ安定太守に転任となったか。

 

前回、邯鄲商の死を考えたが、それは209年ないし、206年である。
そしてその時、邯鄲商のために復讐しようとした烈士として龐淯がおり、
酒泉太守の徐揖はそれをもって龐淯を主簿に任命した。
蘇則は邯鄲商の死の騒動に巻き込まれる前に転任していたのだろう。

 

ついで安定太守となるが、この郡は曹操馬超征討の際に戦場となっている。
曹操は211年秋に西征を始め、冬に安定まで至り、楊秋を降伏させた。
ここで東方に反乱が起きたため(田銀の乱)、
馬超征討の完遂をあきらめて曹操は帰還する。
この時、蘇則が戦闘に巻き込まれた形跡が見えない。
つまり、馬超征討の前に安定太守から異動となっていたか、
馬超征討の後に安定太守に着任していたか、である。
だが、邯鄲商の件を考えれば、後者は考えにくい。

 

蘇則は邯鄲商の死(209年)以前に安定太守となり、
馬超征討(211年)以前に安定太守をやめた、というのが自然だ。

 

最後に武都太守である。
たとえば酒泉太守の任期を200年~205年、
安定太守の任期を205年~209年として、
武都太守の着任は209年頃だろうか。

 

さて、曹操が東方に引き上げると、馬超は漢陽郡を攻撃して
涼州刺史の韋康を殺害する(212年)。
この後、漢陽人が蜂起し、馬超と戦闘を始めるのがおそらく213年末。
夏侯淵馬超、ついで韓遂をやぶるのは214年初頭。

 

この間、隣郡の蘇則の動向は不明である。
だが、この間に武都太守の入れ替えを行うことも不自然なので
着任はやはり211年以前ではないか。

 

なお、馬超への反攻作戦には武都人も参加している。
その点からの蘇則の関与は推測できる余地もありそうである。

 

だがそれ以上に、武都は漢中郡の隣郡でもある。
おそらく張魯曹操政権に対しては中立を守っていて
武都との間に小競り合いなどは起きなかったのだろうが
このあたりも考察の余地がありそうだ。

 

武都太守としての任期だが、
曹操張魯征討の215年まで続いているのは確実だ。
この征討の際、曹操は武都を経由して漢中に侵攻しており、
その記述は各伝にいろいろと記載されていて
それに比べて蘇則の果たした役割などが不明なのだが
(たとえば武都氐は曹操の進軍を妨害したようだが、
それは蘇則が氐人を懐柔できていなかったからなのか?など)
これは別途、張魯征討時の状況を整理する際に確認したい。

 

曹操は武都に入って蘇則を見ると「悦び」、軍の道案内をさせた。

張魯征討と同じ頃、西平に逃げていた韓遂が内紛により死亡。
これにより曹操は「河西経営」に乗り出すことになり、
蘇則を金城太守に任命。武都太守の後任は楊阜である。
張魯征討から帰還後、楊阜を金城太守としたが、
赴任前に取りやめて武都太守とした、という。
金城は韓遂の根城のような場所だったので
韓遂死亡後、誰に金城太守を任せるか迷ったのだろう
期待を込めて蘇則を抜擢したはずだ。
そしてその「賭け」は当たった。
そもそも蘇則を見て曹操が「悦んだ」というのは、
会ってみて蘇則の能力、人物を評価したということだったのだろう。

 

以上から、各太守の任期については
酒泉太守:200年~205年
安定太守:205年~209年
武都太守:209年~215年
金城太守:215年~

 

これぐらいのものと考える。
もちろん、徐揖の後任として酒泉太守となり(210年?)、
楊秋降伏後に安定太守となり(212年?)、
張魯征討の直前に武都太守となった(214年?)、
みたいな可能性もゼロではないが、先に書いた任期の方が自然であろう。

 

さて、金城太守となった蘇則は郡の復興に努めた。
魏書(北魏書)の辛雄伝に出てくる上奏文には杜畿と蘇則を称える箇所がある。
「昔杜畿寬惠,河東無警;蘇則分糧,金城克復」

 

このあと涼州では反乱が頻発し、そこで功績をあげたことで
蘇則の名が歴史に残ってくる。
それは別の機会に整理するが、この頃、漢魏の禅譲があった。
蘇則は献帝崩御したと思い込んで、喪に服したという。

 

このあと蘇則は侍中となって曹丕に仕えるが
ある時、曹丕が「禅譲の際に哭いた者がいるらしい」とこぼした。
これは弟の曹植の事なのだが、蘇則は自分のことかと思い、
進み出て意見を申し上げようとした。
それを侍中の傅巽が「卿のことを言っているのではないぞ」と止めた。
ありがとう、傅巽。

 

しかし、この件については東晋の孫盛が指弾しており、
大意としては「非難するなら仕えるな、仕えるなら非難するな」
みたいなことを言っている。(乱暴な要約だが)
裴松之はこれに自身の意見を足していないが、孫盛と同意見なのだろうか。

 

これに対しては三国志集解では唐庚なる人物(11-12世紀の人か)の
「違うよ」という意見が載っていてホッとした。
献帝崩御と思い込んで喪に服したのは軽率ながらも、
旧君を悼みつつ、別の君主に仕えるのは「二心」とは言えないという見方である。
もちろん、そうだと思う。

 

だが、蘇則伝をこうして細かく分解していくと、別のことにも気づいた。
それは蘇則の、曹操一族との縁の薄さ、である。
曹操はだいたい、有意な人物は一度は自分の幕僚とし、
そのあと外に出す、ということを多くしている。
蘇則はそれがない。


そもそも最初に酒泉太守となったのはどういう経緯なのだろうか。
蘇則は代々の著姓(=名家)であったというが、その祖先は後漢書にも見えない。
ただ、それは嘘ではないのだろう。学問での評判もあった。
孝廉・茂才に推挙されていたのだから、太平の世ならすぐにでも仕官しただろう。
おそらく董卓の専横の時期と重なっていたため、辟召に応じなかった。


李傕滅亡後、曹操が西方経営に乗り出した際、
その相談相手となったのは荀彧と鍾繇であろうか。
あるいは扶風出身の有力者があり、そこからの推薦があったのかも知れない。
それが馬騰だったら?という想像をしても面白いかも知れない。
その後、安定、武都と転任となるが、これもどういういきさつがあったのか。
曹操とは一度も会ったことがないままだったかも知れない。
そして215年に初めて両者は会い、曹操は「悦んだ」。
だがそれは両者を本当の君臣関係にするには十分でなかったろう。
そう考えてみると、蘇則にとって漢魏禅譲というのは
それは寝耳に水のことではなかったにしろ、
かといって待ち望んだことでもなかったはずだ。

 

蘇則がもともと前漢の諫臣・汲黯に憧れた剛直の人という側面もあるにせよ、
曹操一族との接点があまりにも少なかったことは
彼の振る舞いにも影響があったのだと思う。

 

さて、漢魏禅譲は220年の10月頃。
この頃の侍中は劉曄、辛毗、劉廙、鮑勛の4名と思われる。
鮑勛はすぐに左遷され、後任と思われる溫恢も魏郡太守に異動。
劉廙も221年に死亡しており、彼らの後任が蘇則と董昭であろうか。
221年中ごろの就任か。
このあたりの人事については曹丕考察の際に改めてまたやりたいが、
蘇則は意外と「長持ち」して、左遷されるのは223年である。

 

(◆※追記。曹真が例の涼州討伐の責任者と見られるが、その曹真が都に帰還したのは222年とされる。であれば、蘇則が侍中となったのも同じ時期かも知れない。この涼州討伐を整理する機会にまた確認することとする。)


東平相に異動というのは明らかに左遷っぽいのだが
集解によれば、太平御覧の記述から、河東相の方が正しいとする。
この頃、曹霖が河東王となっており、東平国はまだ存在しないので
それを根拠としている。
しかし、国相、郡太守の書き間違いは多量にあるため、
東平太守と書くべきところを東平相と書いただけの可能性は否定できない。

 

もっともこれは大した問題でもない。
曹操の時代には河東郡はきわめて重要で
曹丕政権の序盤にもやはり侍中の趙儼が
外に出されて河東太守となった例があるものの、
その後は河東郡は存在感を消していく。
蘇則がなったのが河東相だとしても
それを左遷を見なすことには差支えはないだろう。
しかし東平相からイメージする左遷ぷりとは少し違うにしても。

 

侍中就任に戻る。
曹操とも縁のなかった蘇則。
曹丕ももちろん蘇則のことを良く知らず、
涼州の反乱鎮圧の際に、張既に連絡して
封爵に値する人物か、その功績を問いただしている。
そのような人物をいきなり腹心中の腹心である侍中に抜擢したのが興味深い。
しかしこの涼州鎮圧というのは曹丕の代になってからの
初めての危機であり、そして勝利であった。
曹丕の「悦び」も大きかったのかも知れない。

 

侍中のなってからの逸話では
先ほどの「禅譲時の哭礼者」のほかに3つほど載っている。
1つは同僚の董昭が蘇則の膝を枕にした際に
「私の膝は佞臣の枕ではないぞ」と押しやった件。
まぁツッコミどころが色々あると言うべきで
笑い話にしてもいいのだが(佞臣じゃなくても膝枕なんぞ嫌だわい、とか)、
これをもって董昭=佞臣か否か、という議論も出来ようか。
(私は董昭を佞臣とは呼びたくない)
宋書においては鄭鮮之がこの逸話を正義の行いとして挙げている。
※鄭鮮之は鄭渾の子孫

 

次の逸話は西域から宝物が届いた際の逸話で
曹丕は西域との交易を要請して利益をあげるべきか問うと
蘇則はこれに反対し、徳をもって国を治めれば
求めなくてもおのずと貢物が到着すると言った。

 

唐の太宗の時代にも西域から馬を求めようとした話があり
その際に蘇則のこの逸話が引かれて取りやめとなっている。

 

最後は狩猟の話で、曹丕は狩猟を好み、それ絡みの
良くない話がいくつも残っている。
ある時、狩猟の際にお付きの者たちが粗相をし、
曹丕はこれを斬ろうとしたが、蘇則が死を覚悟して諫止した。
おそらくこれが決定打となり、左遷されることになる。

 

その蘇則は新天地に赴任の最中に病死する。
これが「自殺」だとは思わないが
蘇則は蘇則はなりに信念を通し、それにより歴史に名を残した。
そしてその役目を終えるとともに、歴史から去った。
彼が曹叡の時代まで長生きしてたらどうだったのだろうか。
きっと「復活」のチャンスがあったことだろうと思う。

 

漢魏禅譲の時代にあって、その禅譲に立ち会った者は
程度の差こそあれ、いわば皆が佞臣だとも言える。
清廉な者たちはすべてその偽りの儀式の前に世を去っていた。
そこに取り残されていた一人が蘇則なのかも知れない。

 

※あと一人思い出すのは楊阜である。

 

今日のまとめ
・蘇則が酒泉太守となったのは200年頃か
・蘇則が安定太守となったのは205年頃か
・蘇則が武都太守となったのは209年頃か
・蘇則は曹操の幕僚となったことが一度もなかった
・蘇則は曹操一族に対する忠誠心の源泉を持たなかった
・蘇則の功績、諫言は後世に伝わり、称賛されている