正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

三国志に出てくる涼州盧水胡、安定盧水胡を考える

本当に盧水胡について考えるのであれば
あたるべき先行研究もあるだろうが
素人が素人なりに考えるのが本ブログなので、臆せずやる。


盧水胡と言えば匈奴系のイメージが(私には)あるが
それは誰に教わったのか、
あるいはWikiに書いてあったのを見たのか。
いずれにせよ、その理由のおおともを辿れば、
五胡十六国時代北涼の君主、沮渠蒙遜(368-433)であろう。


沮渠蒙遜は臨松盧水胡人と書かれ、
同時にその先祖は匈奴だとも書かれるからだ。
だが、月氏系や、羌系などの説もあるらしい。


とりあえずそれは忘れて、三国志の該当箇所を振り返る。
が、記事を書いたあとに作った地図を先に載せてしまう。

盧水胡の関連地図(3つの盧水)



さて、三国志の該当箇所は下記である。

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[一] 文帝紀:延康元年:注(王沈の魏書):
初,鄭甘、王照及盧水胡率其屬來降,
王得降書以示朝曰:「前欲有令吾討鮮卑者,吾不從而降;
又有欲使吾及今秋討盧水胡者,吾不聽,今又降。(後略)


[二] 文帝紀:黃初二年:注(王沈の魏書):
十一月辛未,鎮西將軍曹真命眾將及州郡兵討破叛胡治元多、盧水、封賞等,斬首五萬餘級,(後略)


[三] 梁習伝:注(魏略):
至二十二年,太祖拔漢中,諸軍還到長安,因留騎督太原烏丸王魯昔,使屯池陽,以備盧水。


[四] 張既伝:
涼州盧水胡伊健妓妾、治元多等反,河西大擾。


[五] 張郃伝:
詔郃與曹真討安定盧水胡及東羌,(後略)


[六] 郭淮伝:
又行征羌護軍,護左將軍張郃、冠軍將軍楊秋討山賊鄭甘、盧水叛胡,皆破平之。
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このうちの[二]、[四] については河西地帯の”涼州盧水胡”を指していると思われる。
これに関連する情報として蘇則伝の「武威三種胡」というものもある。
これは”涼州盧水胡”を内包して「三種」と言っているのか。


一方で[一]、[五]、[六]については"安定盧水胡"を指しているようだ。


[三]は後者に混ぜてもいいだろうか。
烏丸を馮翊の池陽県において、「盧水への備え」とした。
これは盧水胡を指しているはずだ。


さて、盧水胡についての疑問であるが、
その種族は何系の民族であったのかとか、
どこに起源を持つのかとか、色々とあるが、
三国志に出てくる”涼州盧水胡”、"安定盧水胡"が
どのような関係にあったのかというのも関心事項となる。


三国志集解の示すヒントを見てみる。
帝紀の[一]に応じて、盧水胡についての情報が5件、書かれている。
[二]以降の注には目新しいことは書いていない。
たいてい「文帝紀のところに注をつけた」と書かれている。


その5つの情報について、集解の典拠元の原文をコピーしてみる。
※⑤のみ集解そのままとした。(後述)

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後漢書西羌伝:
時燒何豪有婦人比銅鉗者,年百餘歲,多智筭,為種人所信向,皆從取計策。
時為盧水胡所擊,比銅鉗乃將其眾來依郡縣。


後漢書竇固伝:
固與忠率酒泉、敦煌、張掖甲卒及盧水羌胡萬二千騎出酒泉塞


後漢書竇固伝の李賢注:
湟水東經臨羌縣故城北,又東盧溪水注之,水出西南盧川,即其地也。


④北史僭偽附庸伝:
大沮渠蒙遜,本張掖臨松盧水人也。
匈奴有左沮渠官,蒙遜之先為此職,羌之酋豪曰大,故以官為氏,以大冠之。
世居盧水為酋豪。


⑤明史地理志:
甘州衞東南有盧水,亦曰沮渠川。
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集解の作者の盧弼はこれらを載せただけで自分の意見は述べない。


まず、②だが、涼州に駐屯していた竇固、耿忠が、
酒泉、敦煌、張掖の軍兵および盧水羌胡を率いて、
トルファンにいた匈奴を討伐した話である。
ここでは盧水胡ではなく盧水羌胡と書かれるが、
その種族が酒泉、敦煌、張掖ないし、その周縁に居住していたのではないかと推測できる。


それに対する李賢注が③である。
盧水羌胡というのは、盧水近隣に居住していた羌族、胡族を指すと思われるが、
では盧水はなにかという疑問に対する答えを書いている。
それは湟水の支流に盧溪水というものがあり、
その水源は西南の盧川だと言うのである。
確かにこの辺りは西羌の居住圏であろう。


これに符合するのが①である。
後漢代に存在を示した種族に燒當羌がいるが、
燒何羌はその亜種のようである。
燒何羌の豪族に100余歳の婦人がいて、頭目のようになっていたが、
盧水胡の攻撃を受けたので、郡県に帰伏した。


燒何羌が西羌であり、
盧水胡が盧溪水付近にいたのであれば、
そこに軍事衝突は起きても自然だろう。
つまり①③は矛盾を感じない。


少し気になるのは盧溪水、盧川という名称だが
隋書地理志の西平郡の項には、こうある。


>化隆舊魏曰廣威,西魏置澆河郡,後周廢郡,仁壽初改為化隆。
>有拔延山、湟水、盧水。


これから推察するに、「盧溪水、盧川」=隋書の盧水であり、
この名前の差異はとくに問題ではないだろう。


次に④である。ここからが注意である。
北涼の君主の沮渠蒙遜は、もとは”張掖臨松盧水人”であり、
祖先は匈奴の要職に就き、代々、盧水に居住した」


”張掖臨松盧水人”というのは
張掖臨松に住み着いた盧水胡人と読みたくもなる。
というのも、④は北史の記述であるが、
晋書において沮渠蒙遜は「臨松盧水胡人」と書かれるからだ。


①~④だけを見れば、湟水支流の盧溪水を根城にしたのが盧水胡で
それが張掖にも流入し、沮渠蒙遜の祖先となったのではないか。
そのような推察も出来ないことはない。


だがこれはおそらく⑤で否定される。
「甘州衞東南有盧水,亦曰沮渠川。」
甘州衞、これは張掖・酒泉にあたる地域のようだが、
ここには盧水があり、沮渠川とも呼ばれるという。


つまり、④⑤にフォーカスすると、盧水胡のルーツは
張掖の盧水であり、それがそのまま沮渠氏の根城ともなった。


⑤の典拠元を確認すると、張掖盧水の位置が浮かび上がる。


>甘州左衞倚。元甘州路。洪武初廢。二十三年十二月置甘州左衞。
>二十七年十一月罷。二十八年六月復置。
>武二十五年三月建肅王府。建文元年遷於蘭縣。
>西南有祁連山。西北有合黎山。
>東北有人祖山,山口有關,曰山南,嘉靖二十七年置。又東北有居延海。
>西有弱水,出西南山谷中,下流入焉。
>又有張掖河,流合弱水,其支流曰黑水河,仍合於張掖河。
>又東南有盧水,亦曰沮渠川。


甘州左衞=張掖と考えて良いようだが、
西南に祁連山、東北に居延海、西に弱水、
弱水支流に黑水河があり、東南に盧水、という位置関係のようだ。


では具体的に東南のどのあたりなのか。


臨松は漢魏、西晋ではその地名が史書に載らず、
ただし前涼の張天錫(在位363-376)が
張掖から分離して臨松郡を置いたとある。
で、臨松郡はより具体的にどこにあったのか。
Wikiを見ると「現在の甘粛省民楽県」との記述もあったが
史書でそれを示す根拠まではたどり着けなかった。
ただし民楽県のあたりには石窟があり(馬蹄寺石窟群)、
その中でも最古のものが「薤谷石窟」であるという。


晋書の隱逸伝によれば、
隠者の郭瑀が臨松薤谷に隠棲したが、
石窟を住居としたという。
おそらく考古学的にも、この地が臨松なのだろう。


張掖の東南部が根拠地であるのなら
曹丕の時代の"涼州盧水胡"の反乱と符合する。
張既が黄河を渡って討伐に向かうと、
涼州盧水胡は武威郡の顯美県に後退した。
張掖との郡境に近い地である。
つまり、ここでいう"涼州盧水胡"は
"張掖盧水胡"と考えてよいのではないか。
ただし前年に反乱した武威三種胡が
"張掖盧水胡"も含んでいたかは分からない。


こうして見てみると
魏初の"涼州盧水胡"の居住地は
西平郡の盧溪水よりは
張掖臨松盧水が有力のように思える。


この場合、西羌(?)の燒何羌との衝突の件に問題が生じる。
燒何羌の所在が西平郡であれば
張掖との間には祁連山があるからだ。
だがそもそも燒何羌の所在が西平郡というのも仮定であるし
あまり気にする意味もないかも知れない。


いずれにせよ、集解が盧水胡を涼州西部とだけ結び付け、
「安定盧水胡」について言及がないことは問題だ。
仕方がないので集解の代わりにヒントを集めていこう。


隋書地理志の安定郡の項には、こうある。


>陰盤、後魏置平涼郡,開皇初郡廢。有盧水。


陰盤は後漢代から安定郡に存在する県であり、
晋代にも地名として出てくる。
安定郡の東部に存在していた。
これは安定盧水胡の存在の根拠にもなりそうだが
同時に、その名称が張掖由来でも西平由来でもなく
この安定の盧水なのか、という新たな疑問も出てくる。


晋代以降、このあたりの盧水胡の痕跡は増えていく。
296年、匈奴のリーダーの度元(郝度元)は
「馮翊、北地馬蘭羌、盧水胡」を率いて反乱し、北地郡を破った。


また、安定太守の賈疋(賈詡の曾孫)は
南陽王の司馬模と対立して敗北し、「盧水へ奔った」。
これは正確な時期は不明だが、通鑑は311年の記事に入れている。
司馬模の本拠地は天水郡の上邽県。
この「盧水へ奔った」が、地名を指すのか、
「盧水胡のもとへ奔った」を意味するのかは分からない。
だが、逃げた先で賈疋は「胡」の彭蕩仲を助勢を受けて復活し、
反撃して安定郡を取り戻す。
後に彭蕩仲を殺害することになるが
資治通鑑の注では「蕩仲,安定盧水胡也」と書かれる。


また、晋書によれば386年頃、主不在の長安に入って
皇帝を称したのが「盧水郝奴」であるが
通鑑では「柘城盧水胡郝奴」と書かれる。
後に北魏に仕えたようで、404年の記事では「杏城盧水郝奴」と書かれる。
おそらく「杏城」が正しいのだろう。
この「杏城」はこの時代に頻出する、軍事拠点となった地である。


北魏の時代(446年)には、盧水胡の蓋吳が杏城で反乱したという。
南齊書では「羯胡」と書かれる。
もっともこれは北涼滅亡後であるため、
蓋吳=強制移住させられた張掖盧水胡、の可能性もあるのではと考えたが
宋書では「北地瀘水人蓋吳」と書かれている。


「瀘水」でも調べねばいけないようだが、もう十分だろう。
安定以東で盧水胡が確固として存在していることが分かる。
もちろん、時代の変遷に伴う移住の可能性は考慮せねばならないが。


さて、杏城の位置を確認しておこう。
元和郡縣圖志によるとどうやら現在の陝西省延安市洛川県のあたりか。
そうであれば、漢魏の頃の馮翊の北境あたりだろう。


ただしこれには少し疑問もある。
晋書で「貳縣虜帥」と書かれる彭沛穀は
通鑑では盧水胡と書かれる。
その所在の「貳縣」だが、通鑑の胡三省注に
「貳城,貳縣城也,在杏城西北、平涼東南。」とある。
ここも盧水胡の居住地であったろうか。
ただし、「杏城西北、平涼東南」というのがよく分からない。
胡三省は南宋の時代の人だが、
その時代の「平涼」はどこにあったのか。
西北から東南へ向かって、「平涼、貳縣、杏城」と並ぶようだが
延安市洛川県はそれなりの高緯度のため、
それだと平涼がかなり黄河に近づいてしまう。
現代の甘粛省平涼市は涇水の上流にあり、
杏城(延安市洛川県)より低緯度にある。
往年の平涼はもっと高緯度にあったか(現代の固原市?)、
杏城がもっと低緯度にあったか、という疑問が残る。


盧水という河川名も考えておこう。
この時代、山名や河川名の重複はいくらでもある。
それ自体は何の不思議もない。
「盧」を調べると、「炭櫃」などの意味があり、
転じて「黒」を指すという。
であれば、単に黒色の河川というだけであったか。
また、「蒲,葦」という意味もあるようだが
川沿いの植生から名付けたか。


安定郡の陰盤に盧水があったというのは、
あまり大きな意味はないのかも知れない。
たまたま同名となったか、
あるいは、安定に移った盧水胡が
故郷の景色に似た川に同じ名を名付けたか。


随分と雑駁な内容になってきたが、
無理やり、まとめに入る。


今日のまとめ
・盧水胡は盧水に居住した民族と思われる
・西平郡に盧水(=盧溪水)がある。
・張掖東南部の臨松にも盧水がある。
・安定郡の陰盤県に盧水がある。
・各地の盧水胡は同一民族かどうか等は不明(未考察)
・魏初に反乱を起こした涼州盧水胡は張掖が拠点と考える
・それは北涼の沮渠蒙遜の祖先であろう。
・安定以東の盧水胡も定期的に史書に登場している。
三国志集解は安定盧水胡をスルーしているので要注意