正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

馮翊山賊の鄭甘

盧水胡のことは調べたいと思っていた。
が、先に馮翊山賊の鄭甘について書く。


曹操は220年1月に死去し、曹丕が魏王となる。
曹丕が皇帝となるのは220年の10月。
その間の5月に、馮翊山賊の鄭甘と王照が降伏してきたと言う。


注の王沈「魏書」によれば、「鄭甘、王照、盧水胡」が降伏してきた。
この3者が同じグループなのか、
盧水胡は降伏時期が同じだけで別グループなのかは不明。


221年5月、鄭甘が再び反逆したので、曹仁を送ってこれを斬った。
曹仁はこの前月に大将軍となっている。
どうやらそれに伴い、荊州方面担当を外れたようで(後任は夏侯尚)、
駐屯地を臨潁(許昌の近く)に移している。
このあと曹仁は揚州方面担当となり、合肥に出鎮する。


郭淮伝によれば、
郭淮張郃、楊秋を監督して、山賊鄭甘、盧水叛胡を平定したという。


張郃伝によれば、
張郃と曹真が安定盧水胡と東羌を討伐し、
帰還した後、夏侯尚と共に呉を攻撃したという(222年後半)。


一方、曹真伝を見ると
この時期の動きとしては220年の涼州反乱に費曜を派遣したことは書かれるが、
張郃伝にある「安定盧水胡と東羌」討伐に関する記述はない。


まず、鄭甘に関する2つに疑問を考える。
①鄭甘を討伐したのは誰か。
②鄭甘は何者か。


郭淮伝、張郃伝だけに注目すれば、
鎮西將軍,假節、都督雍涼州諸軍事の曹真を最高司令官とし、
鎮西長史、行征羌護軍の郭淮が討伐軍の監督役となり、
実際の討伐部隊は左將軍の張郃、冠軍將軍の楊秋が担当した。
このように見える。
そしてその討伐対象は「山賊鄭甘、盧水叛胡」、または、
「安定盧水胡、東羌」と書かれる。


しかしここには曹仁は出てこない。なぜか。


この時期、曹仁荊州方面司令官から外れて
いわば遊軍のように豫州に駐屯してので
そのリソースを使って鄭甘を討伐させたと理解していたが
もしかしたら文帝紀の「五月,鄭甘復叛,遣曹仁討斬之。」は
曹真の間違いなのかも知れない。


もちろんこの時期、涼州では反乱が頻発し、
蜀漢に備える必要もあろうから
曹真自ら鄭甘討伐に向かうことが出来たかといえば疑問だ。
だが曹真の指揮命令下で鄭甘討伐したことを
「鄭甘復叛,遣"曹真"討斬之。」と書くことは出来よう。
この場合は「派遣」の意味ではなく、単に「使役」を表しているのだろう。
そして曹真と曹仁が伝写の際に取り違えられたか。


これは絶対そうだとは言えないが、
曹真が正しいと私は考える。
とりわけ、郭淮伝には
郭淮張郃、楊秋を監督して山賊鄭甘を平定した」とあり
ここに曹仁が出てこないのは違和感がある。
一方、郭淮は曹真の幕僚であるのは明白であるから、
曹真の名前を略すのは不自然ではない。


次に、鄭甘は何者か、である。
ここまで見てきた内容からすれば
一方で「山賊鄭甘、盧水叛胡」と書かれ、
もう一方で「安定盧水胡、東羌」と書かれるのであるから
鄭甘=東羌と考えたくなってくる。
では「馮翊山賊鄭甘」と書かずに「東羌鄭甘」と書けばいいだけだが
あるいは鄭甘は漢人であり、
東羌を配下においた武装集団であったのだろうか。


郭淮伝では、この乱を平定した際、
「關中始定,民得安業」と書かれる。


しかしこれ以前の数年ほど、
関中がそれほど混乱していた様子はないので
少し違和感を感じる。

 

ただもしかしたら鄭甘は長年、乱を為していた集団なのかも知れない。
後漢の時代、匈奴が弱体化する一方で
政権を悩ませ続けたのは羌族であった。
金城、朧西の西方に居住する西羌、
安定、北地、馮翊の北方に居住する東羌。
その両方である。


そして後漢末から魏の時代にかけて
この羌族はかなり大人しくなっていっているように感じる。
その最後の火種のひとつが鄭甘であり、
「關中は始めて定まれり」とは100年、200年単位での表現で、
「ついに東羌の問題が片付いた」という気分を表したのだろうか。


なお、後漢の時代には馮翊の北方には并州の上郡が置かれたが、
霊帝の時代の末年に「流徙分散」したという。
魏の時代も、西晋の初期も、この地に郡は置かれなかった。
羌族も、他の北方民族も大人しくなっていたのに
不思議なことである。

 

 

次回は盧水胡について。