正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

鍾離斐①(鍾離牧、黎斐)

三国志の三嗣主伝の評のあとに
注として陸機の「弁亡論」が長々と載っている。
ここに、呉末の名臣として「鍾離斐」なる人物が出てくる。
ここ1か所のみに登場する人物である。

 

この人物は、やはり呉中期~末期に活躍し、
三国志に伝もある鍾離牧と同一人物という見方もある。
また、257年の諸葛誕反乱に伴う戦闘で活躍した、
黎斐なる将軍と同一人物という見方もある。

 

それについて考える前提として
「弁亡論」に登場する人物、登場しない人物をまとめておく。

 

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三国志に伝があり、また、弁亡論に登場する人物】
劉基・士燮
張昭・張承・顧雍・諸葛瑾・歩騭
周瑜魯粛呂蒙
程普・黄蓋韓当・蔣欽・周泰・陳武・董襲・甘寧凌統潘璋丁奉
朱然・施績・呂範・朱桓
虞翻・陸績・張温・駱統
陸遜陸抗
賀斉・呂岱
潘濬・陸凱
呉範・趙達
楼玄・賀邵


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三国志に伝がないが、弁亡論に登場する人物】
張惇・趙咨・沈珩・范慎・孟宗・丁固・鍾離斐


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三国志に伝があるが、弁亡論に登場しない人物】
太史慈
張紘・厳畯・程秉・闞沢・薛綜
徐盛
朱治
陸瑁・吾粲・朱拠
全琮・周魴・鍾離牧
是儀・胡綜
劉惇
諸葛恪・滕胤・濮陽興
王蕃・韋昭・華覈


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伝を持つ人物の子孫について、
伝があるというグループに入れるべきか等、迷ったところである。
だいたいこんなところ、という感覚で見ていきたい。

 

まず、孫氏の宗室については全く触れられていない。
それは孫策孫権の時代に活躍した宗室は
早世したケースが多かったことがあるだろう。
また、呉の創業期と末期について論じているため、
中期に活躍した人々は余り載っていない。
そして、不名誉な結果を迎えた人物も
あまり出てこない。
全琮などは、その子孫が呉に背いたことは考慮されているのではないか。
(あるいは後継ぎ問題で陸氏と対立したからか?)

 

記載されない人物で言えば
太史慈、張紘なども盛り込みようがあったと思うが、
朱治と徐盛が書かれなかったのは不自然な気もする。
周魴についてはその功績は大きいと思うが
偽降による功ということで、書くのを避けたということがあったりしたのか。

 

さて、鍾離斐である。
弁亡論は、孫皓の時代においてもその最初の頃は
名臣はなお健在であったと述べる。
そこで列挙されたのが
陸抗・陸凱・施績・范慎・丁奉・鍾離斐・孟宗・丁固・樓玄・賀劭である。

 

丁奉・鍾離斐については、「以武毅稱」と紹介されている。
この鍾離斐は鍾離牧と同一人物なのだろうか。
丁奉はバリバリの武闘派であり、
一方の鍾離牧は軍功も多くありながらも、
官職で言えば、中書令などにもなっており、
山越平定でも名があり、丁奉と同タイプとは言い難い。
同時代人であれば、留平などを丁奉と並べるべきだろう。

 

ただし鍾離斐が鍾離牧とは別人だとすると、
弁亡論に鍾離牧は出てこないということになる。

 

孫皓は264年に皇帝に即位している。
鍾離牧は263年の蜀漢滅亡の際に
武陵太守となって武陵蛮を警戒した。
その後、公安督、濡須督、再び武陵太守へと移り
その時に死去した。
270年頃までは生きていそうだ。

 

つまり時期的にも経歴的にも功績的にも
孫皓の時代の当初の安泰を保証する名臣として申し分ない。
孫権の時代の名臣の列挙から朱治、徐盛らが
漏れ落ちるのは有り得ることかも知れないが
孫皓の時代の名臣の列挙から
鍾離牧が漏れ落ちるというのは不自然極まりない。
丁奉と横並びになるのは少し気になるにしても
他にこの時期の将軍では特筆すべき人物が少ないため
便宜的にグルーピングされたと解釈できると思う。

 

結論としては、
鍾離斐≠鍾離牧よりは
鍾離斐=鍾離牧の方が、色々な違和感は減る、と言える。

 

では鍾離斐と黎斐は同一人物なのか、
また、なぜこのような書き分けが起きたのか、
そちらについての考察は次回に。