正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

2回の徐州侵攻を整理し、地図を書く

・まず徐州侵攻に関する記事をピックアップ
・徐州侵攻の時系列をまとめる
・地図を書く

注意しなければならないのは、
後漢時代の地理区分(州郡)を考慮すること。
三国志は晋代の地理区分で書かれていることもある。

=========================================
後漢書陶謙伝:

初,曹操父嵩避難琅邪,時謙別將守陰平,士卒利嵩財寶,遂襲殺之。
初平四年,曹操擊謙,破彭城傅陽。
謙退保郯,操攻之不能克,乃還。過拔取慮、雎陵、夏丘,皆屠之。
凡殺男女數十萬人,雞犬無餘,泗水為之不流,自是五縣城保,無復行迹。
初三輔遭李傕亂,百姓流移依謙者皆殲。

 

武帝紀:
徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城。
秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出。

 

武帝紀:
夏,使荀彧、程昱守鄄城,復征陶謙,拔五城,遂略地至東海。
還過郯,謙將曹豹與劉備屯郯東,要太祖。
太祖擊破之,遂攻拔襄賁,所過多所殘戮。

 

陶謙伝:
初平四年,太祖征謙,攻拔十餘城,至彭城大戰。
謙兵敗走,死者萬數,泗水為之不流。
謙退守郯。太祖以糧少引軍還。

 

陶謙伝注吳書:
曹公父於泰山被殺,歸咎於謙。欲伐謙而畏其彊,乃表令州郡一時罷兵。
(略)
曹公得謙上事,知不罷兵。乃進攻彭城,多殺人民。
謙引兵擊之,青州刺史田楷亦以兵救謙。公引兵還。

 

陶謙伝:
興平元年,復東征,略定瑯邪、東海諸縣。
謙恐,欲走歸丹楊。

 

曹仁伝:
從征徐州,仁常督騎,為軍前鋒。
別攻陶謙將呂由,破之,還與大軍合彭城,大破謙軍。
從攻費、華、即墨、開陽,謙遣別將救諸縣,仁以騎擊破之。

※「從攻費」以降を二度目の侵攻時の記述と推測する。
※即墨は正しくは即丘
※琅邪国には「諸」という県があるが、
その「諸」という県はかなり北部にある。
ここでは諸々の県という意味だろう。

 

◆荀彧伝注曹瞞傳:
自京師遭董卓之亂,人民流移東出,多依彭城閒。
遇太祖至,坑殺男女數萬口於泗水,水為不流。
陶謙帥其眾軍武原,太祖不得進。
引軍從泗南攻取慮、睢陵、夏丘諸縣,皆屠之;雞犬亦盡,墟邑無復行人。

※ここでいう武原だが、
水經注図と、中国歴地図集とで、けっこう位置が違う。

 

于禁伝:
太祖召見與語,拜軍司馬,使將兵詣徐州,攻廣威,拔之,拜陷陳都尉。

※廣威は正しくは廣戚

 

◆先主伝:
袁紹公孫瓚,先主與 田楷 東屯齊。
曹公征徐州,徐州牧陶謙遣使告急於 田楷,楷與先主俱救之。
時先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎,又略得飢民數千人。
既到,謙以丹楊兵四千益先主,先主遂去楷歸謙。
謙表先主為豫州刺史,屯小沛。
=========================================

時系列ごとに整理する。

 

193年秋:一度目の徐州侵攻。

 

曹仁の騎兵隊が先陣となる。
曹仁が別動隊として陶謙の別軍(呂由隊)を撃破。
この頃だろうか、于禁が彭城国廣戚県を陥す。
曹操が彭城国傅陽県を破る。
曹仁曹操本軍と合流する。
彭城の大会戦で曹操が勝利する。
虐殺された死者のため、泗水が堰き止められる。
陶謙が武原に防衛線を張る。
曹操は泗水南岸へと転進する。
下邳国の取慮、睢陵、夏丘諸縣を屠る。
田楷と劉備が援軍に来る(郯を防備する?)。
軍糧の尽きた曹操が撤退する。(194年春)

 

194年夏:二度目の徐州侵攻。

 

曹操軍は瑯邪、東海方面に侵攻。
まず泰山南部の費県、華県を攻撃。
琅邪国即丘県を攻撃。
琅邪国開陽県を攻撃。
陶謙は各県へ救援部隊を派遣。
曹仁がその救援部隊を撃破。
曹操は軍を巡らし、東海国郯県へ接近。
郯東で曹豹、劉備を撃破。
東海国襄賁県を陥す。
この頃、兗州で反乱が起き、曹操は撤兵。

 

こうしてまとめて、自分の頭の中もスッキリした。
一度目の侵攻は彭城と、下邳。
二度目は琅邪と東海。
そして侵攻状況など考えると
陶謙劉備を小沛に置いたのは、二度目の後。

 

覚えておきたいのは、
一度目の侵攻時だと思われるが、
下邳国相の笮融が逃亡していることだ。
そして下邳国の中西部が破壊された。
では下邳県はどうだったのだろうか。
徐州侵攻で攻撃を受けたと明示されていないこと、
またこの直後の劉備呂布の統治下にあって
根拠地とされたことなどから
おそらく無事であったのではないかと思う。

 

武帝紀には
陶謙は城を守って出なかった」とあるが、
陶謙は州治(=州の首都)である郯に籠城したのでなく、
やはり武原で防衛したのだろう。
そして下邳が無事であったことを考えると
ここでいう武原とは武原県ではなく、
武原水口なのかも知れない。
武原西北に発する武原水は
途中、他の河川と合流して名前を変えつつ、
泗水に注ぐ。
その合流地点が武原水口である。

 

もっとも武原の話が出てくるのは「曹瞞伝」なのだが。

 

仮に(信憑性の薄い)曹瞞伝を無視すると、
下邳国の中西部破壊は他には出てこない。
しかし戦闘が半年以上に及ぶことを考えれば
戦場がほぼ彭城国のみということには
違和感を覚える。

 

さて、作成した地図を置いておく。

 





Google mapの地形図の上に線を引けば、
山地なども分かって非常に良いのだが、
著作権侵害になるため断念。
時間は掛かったが、
今後の考察の叩き台となる図が出来たかも知れぬ。

 

ただし気をつけなければいけないのは、
徐州侵攻に名前の出た県をメインに書き込んでいることで
記載していない県が多量にあることである。
それらの県がなぜ史料に出てこないのかを考察することで
新たに見えてくるものもある。
全県を記載した地図の方が間違いないのだが
ブログでの表示状況を鑑み、
最小限の情報量の地図としておいた。