正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

張紘と陳琳は射陽県出身なのか(あと張飛のこと)

今日は陶謙の出身県について考察しようとしたのだが
調査途中に別の疑問がでてきたので
テーマをそちらに変更する。

 

張紘の出身県についてである。

 

そもそもの考察のスタートは陶謙だった。
陶謙三国志では「丹楊人」、
後漢書では「丹陽人」と記載される。
荊州西部に「丹楊」という地名はあるが
陶謙については揚州の「丹陽」出身が正しい。

 

問題はここで言う「丹陽人」が
「丹陽郡出身」という意味で、出身県は不詳なのか、
あるいは「丹陽郡丹陽県出身」という意味なのかである。

 

後漢書の注では「丹陽郡丹陽県出身」としている。
それはいったん措く。
次回以降に考察する。

 

つまり史書においては、郡名と県名に重複があるような場合、
それを省略して書くことがあり、紛らわしいことになる。

 

ざっと調べると
後漢時代の下記の郡おいては同名の県が存在する。
(遺漏もあろう)

 

【司隷】河南、弘農
豫州】沛、陳、魯
冀州】魏、鉅鹿、陳留、任城
【徐州】琅邪、彭城、廣陵、下邳
青州】平原、樂安
荊州】零陵、桂陽
【揚州】丹陽、呉
益州】廣漢
涼州】武都、金城、敦煌
并州】五原、雲中
【幽州】涿、廣陽、代
【交州】漁陽、合浦

 

なお、私の印象では、郡名が一文字の場合は
ちゃんと県まで記載されることが多い印象。


たとえば、
「盧毓字子家,涿郡涿人也」
「陸績字公紀,吳郡吳人也」


もっとも、「吳人」とだけ書いて済ませてしまうと
国号の呉との勘違いも招くので
とりわけ呉県出身者については
郡名もちゃんと記している印象だ。

 

だが二字名の郡については
三国志においては常に省略されているように思う。
たとえば陳留郡陳留県の出身について
陳留陳留人、とは書かない。

※もっとも晋書などではそのようなケースもあったかと思う。

 

繰り返しとなるが、こうした記載方法のため、
A郡A県を指しているのか、
A郡(県は不詳)という意味なのか、
判断に困ることが出てくる。

 

郡県で重複しない場合は分かりやすい。
たとえば、三国志蜀書にたくさん出てくる南陽人である。

 

黃忠字漢升,南陽
陳震字孝起,南陽
呂乂字季陽,南陽
李嚴字正方,南陽
王連字文儀,南陽
許慈字仁篤,南陽

 

南陽郡には南陽県はなかったはずなので
上記の人々の出身県は不明である。

 

一方、呉の場合だが
三国志編纂前にちゃんと史書の編纂されていたせいか、
出身県不詳の人は少ないように思う。
三国志に立伝されているクラスの人物では
王蕃が廬江の何県出身か分からないくらいか。
他の県名省略の人物については
「A郡A県」パターンであり、あえて省略されている可能性がある。

 

たとえば張紘である。
「張紘字子綱,廣陵人。」
これは、廣陵郡廣陵県の出身であることを示す可能性がある。

 

だが、ふとWikiを見たら
彼を廣陵郡射陽県の人と書いてある。
日本語Wikiには典拠がない。
中文Wikiには明確なソースはないものの、
判断の根拠とした史料を挙げている。

 

それが言うには
「張紘は陳琳と同郷の人である」
「陳琳は臧洪と同郷の人である」
「臧洪は廣陵郡射陽県の人である」
「だから、張紘と陳琳も廣陵郡射陽県の人である」
ということらしい。

 

根拠としてる史料を引いておく。

 

張紘伝注:
「吳書曰:紘見柟榴枕,愛其文,為作賦。
陳琳在北見之,以示人曰:「此吾鄉里張子綱所作也。」」

(抄訳)陳琳は張紘の賦を見て、人々に言った。
これは私の鄉里(=同郷人?)の張紘の作品である。

 

臧洪伝本文:
「臧洪字子源,廣陵射陽人也」
「紹令洪邑人陳琳書與洪,喻以禍福,責以恩義。」

(抄訳)袁紹は臧洪の邑人(=同郷人?)の陳琳に手紙を書かせた。

 

だが、ちょっと待って欲しい
「吾鄉里」や「邑人」を同県出身者と見なすには
また別の根拠が必要ではないのか。

 

たとえば、「鄉里」で調べると、下記のような記述が見つかる。

 

邴原伝注の「邴原別傳」:
欲遠游學,詣安丘孫崧。崧辭曰:「君鄉里鄭君,君知之乎?」

(抄訳)邴原が遊学して孫崧を訪ねると、孫崧は言った。
「あなたの鄉里(=同郷人?)に鄭君(鄭玄)がいますが・・・」

 

だが、邴原は北海朱虛人であり、鄭玄は北海高密人である。
つまり、「鄉里」は同郡出身の範囲まで意味するということが分かる。

 

また、「邑人」についても調べた。
こちらは晋書の例となる。

 

庾袞伝本文:
「嘗與諸兄過邑人陳準兄弟,諸兄友之,皆拜其母,袞獨不拜。」

(抄訳)庾袞はかつて邑人(=同郷人?)の陳準兄弟を訪ねた。

 

庾袞は潁川鄢陵人、陳準は潁川許昌人である。
つまり、「邑人」も同郡出身者までを範囲としている。

 

※庾氏には、魏の九卿クラスの大物に庾嶷がおり
その弟の子孫は西晋東晋で隆盛した。
陳準は陳羣の叔父の子孫で、西晋で三公となった。

 

さらに、思いついたところで「鄉人」も調べておこう。

 

劉放伝(孫資伝)注の「晉陽秋」:
「楚鄉人王濟,豪俊公子也,為本州大中正。」

(抄訳)孫楚の鄉人の王濟は豪俊公子であった。

 

孫楚は太原中都人、王濟は太原晉陽人である。
つまり、「鄉人」も同郡出身者までを範囲としている。

 

以上のことを考えると
張紘や陳琳を廣陵郡射陽県の人と見なせる根拠にはならない。
もちろん、陳琳など色んな史料に名前が残っているだろうから
私の知らないところで射陽県人とハッキリ書かれているかも知れない。
だが現状でWikiで挙がっている根拠は間違っている。
両者とも廣陵郡廣陵人の可能性は高いと言わざるを得ない。

 

と、こんなことを言っておきながら、
陶謙は丹陽郡丹陽県の人ではないのでは?
ということを次回にやっていきたい。

 

最後に。

あんまりWikiをあげつらっても仕方ないのだが、
張飛についても気になることがあった。
三国志張飛伝ではこう書かれる。
張飛字益德,涿郡人」

 

この書き方はこれまで見たものとは違う。
「A郡にA県が存在する」パターンだが、
明確に「郡」と書いている。
つまり、張飛の出身県は不明である。
だが、日本語Wikiでは涿郡涿県出身と書いてあった。
一方で、中文Wikiでは「涿郡」とまでしか書いていない。

 

三国志演義張飛の登場シーンを調べても、
特に涿県出身とは書いていないようだ。
私が見落としている何かがあるかも知れないが、
ここは中文Wikiの慎重さが正しいのだと思っておこう。