正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

涼州と雍州の整理(邯鄲商と張猛)

後漢末の金城太守、魏初の侍中の蘇則。
その蘇則のことを書こうとし
であれば涼州の地図もあった方が良かろうと
ちまちまと地図を作っていたのだが、
その前に一度、涼州と雍州のことを整理しておいた方がいいだろう。

 

以前、九州復古の記事を書いたときにも触れたはずだが
後漢末になるまで雍州というのは設置されていなかった。
(雍州という言葉時代は漢代以前の地名としては存在していた。)
京兆、馮翊、扶風は、司隸に所属した。
その3郡以西の地はすべて涼州の所属である。

 

だが献帝の時代に黄河以西の四郡(河西四郡)を分けて
あらたに雍州(または廱州とも)を置いた。

 

のちに213年、全国14州を再編して古代の9州を復古させた。
この時、司隸涼州は廃止される。
司隸のうち弘農以東の地域は冀州豫州に併合され、
京兆、馮翊以西の地域はすべて雍州となる。

 

曹丕が魏王となると、また涼州を置いたという。
その涼州は金城を南端とする河西地方を版図とする。
雍州は京兆から隴西までの東西に伸びた地帯である。
いわゆる「関中」と呼ばれる地域と、「隴右」と呼ばれる地域である。

 

頭の整理のために、「涼・雍」変遷の図を置いておく。



また、より詳細な地図を置いておく。(194年頃の州郡境を想定)

「隴右」とはこの地図でいう「漢陽」「隴西」の両地域である。
のちに「武都」「陰平」を併せて「秦州」として分離される。
晋書によれば、秦州は魏初に設置されるが
しばらくして廃止されたという。
だが本当に設置されたのか少し疑問である。
秦州は西晋以降に存在感が出てくる。

 

今日書きたいのは雍州新設に関することなのだが
まずは郡のことを整理しておく。

 

まず194年に安定、扶風から1県ずつ割いて新平郡を新設する。
長安の李傕政権は195年に仲間割れを始め、
混乱を極めていく。
194年は韓遂馬騰軍との戦いなど混乱の予兆はあったが
まだ政権のハンドリングは出来ていたのだろうか。
その中で、意図あっての新平郡の設置なのだろう。

 

張掖属国は西海郡に改名(昇格?)するが
晋書によれば195年に武威太守の張雅の要請を受けての対応という。
上で書いたこと(195年の混乱)と矛盾するが
張雅の要請を追認したというだけであろうか。

 

安定、北地の北境だが、後漢の安定期においては
黄河のあたり(地図の賀蘭山のあたり)まで伸び、
黄河沿岸には富平県があった。
北地郡は霊帝の代に鮮卑の攻撃を受けたが、それも撃退したようである。
ただし中国歴史地図集を見るに、曹魏の頃にはかなり縮小されて、
富平県は馮翊領内に間借りしているかのような書き方をされていて、
後漢代の北地の旧領はすべて手放したかのように見える。

 

元和郡県図志に富平県の移動について書かれており、
「魏文帝」という文言も出てくる。
「富平縣,本漢舊縣,屬北地郡。後魏文帝自懷德城移於今理」
しかしこれは文意も合わせて考えると、ここでいう「後」は「後に」ではなく、
「後魏=元魏(北魏)」の事である可能性がある。
北魏に「文帝」はいないが、西魏に文帝はおり、
これを指して「後魏文帝」と書くケースが元和郡県図志には多いように見える。
もっとも、曹魏の時代に北地郡をほとんど手放したかのように思える点は変わらない。
おそらく曹魏の時代に富平県も移された。
その後、西魏の時に「懷德城」から「今の場所」へと移された、という意味だろうか。

 

曹魏時代の北地郡廃棄の理由はなんだろうか。
おそらく鮮卑の軻比能の活動と関係があるのではないか。
賀蘭山のあたりの黄河流域は、時代をくだって
五胡十六国の頃になっても遊牧民族の活動が活発な地域である。
このあたり、「曹魏が廃棄した地域」についてはまた改めて調べてみたい。

 

西平郡については設置時期は不明だが
韓遂が閻行を西平太守としたようなので
雍州設置に続いて、けっこう早くから存在していたかも知れない。
金城郡から湟水両岸の地を分けたのだろう。
なお、豫州には西平県があり、
こちらもよく出てくる地名なので注意が必要だ。

(◆※追記。失念していたが、杜畿が西平太守に任命されたが、赴任する直前に河東に異動となった事例がある。これは205年頃のことなので、この時点で西平郡が置かれていたと思われる。)


次に漢陽郡を見る。
おそらくこれが正史三国志を読むうえでの混乱の原因のひとつだが
後漢代の漢陽郡は、魏の時代に天水郡と改名する。
さらに三分割され、南安郡、廣魏郡が新設される。
廣魏郡は晋代に略陽郡と改称する。
南安郡は西境にあって南北に細長い。
天水と廣魏は奇妙に入り組んでいるが、
北部、東部を廣魏が領しているような形である。
この分割が正しいのか、これに何の意味があるのか、
考える価値はあるだろう。

 

晋書によれば南安郡は漢代に置かれたとのことだが
三国志を読む限りはハッキリしない。
漢末魏初に置かれたのだろうか。
存在感が出てくるのは諸葛亮の北伐の頃からである。

 

廣魏郡に至っては記述が少なく、
諸葛亮死後に少し出てくる程度である。

 

(◆※追記。他には後漢末には漢興郡なるものがあり、游楚が太守となっている。集解によれば、これは扶風西部を郡として独立させたものらしい。魏初には廃止されているようだ。)

 

(◆※追記。三国志集解の張既伝の方ではこのあたりのことについて詳細な記述があった。時間ができたたら今回の記事に加筆しておきたい。)

 

ついでと言っては何だが、漢中郡にも触れておく。
後漢時代の漢中郡は、三国の時代に至ると
西部を蜀漢が、東部を魏が支配した。
その結果、魏は東部を荊州編入し、郡を新設した。
魏興、上庸、西城などの郡名で知られる地域である。
また、漢中郡が一時期は漢寧郡に改称されていたこともあるが
今回は踏み込まないでおこう。

 

さて、次こそが本題、と言ってはなんだが、
邯鄲商と張猛のことである。
張猛の父は後漢書に立伝されている張奐である。
敦煌郡の人で、異民族との戦いで功績をあげた。
後に弘農郡華陰県に住み、そこで葬られた。
子の張猛は郡の功曹となった。

 

ここが第一の疑問である。
張猛は敦煌郡の功曹だったのか、弘農郡の功曹だったのか。
張猛のことに書く最初の段で「本敦煌人」と書かれているので
もはや彼自身は弘農人として扱われていたのかも知れない。
であれば、弘農郡の功曹だったということか。

 

その張猛は河西四郡が涼州から孤立しつつあるとして
別州の設置を要請した。
そこで朝廷は雍州を置き、
陳留人の邯鄲商を刺史とし、四郡を担当させた。
その時、武威太守にも欠員が出たため、
父親が河西で威名があったことから、張猛を太守とした。

 

さて、四郡とはどの郡を指すのか。
西端から4つ選べば敦煌、酒泉、張掖、武威である。
ただし金城もその領域のほとんどは黄河以西である。
後漢書注では武威の代わりに金城を入れている。
しかし地理的には金城の代わりに武威を入れるのは奇妙だ。
武威までの4郡と考えるは方が自然であろう。
※金城までの5郡と考えた方がもっと自然だが
「四郡」という表記がたびたび出てくるのでそれは違うかも知れない。

 

(◆※追記。晋書地理志によれば河西五郡という区分があり、このとき雍州として自立したのはこの五郡だとする。四郡だとは書かれない。これは自然である。このあと張掖属国は西海郡となり、金城から西平郡が分割され、であれば、雍州の管轄は合計7郡となったか。また、張掖郡から「西郡」が分離独立したのも後漢末という記載がある。これは別途検討する。)

 

雍州新設は、三国志注の典略では建安初の事とするが
後漢書では194年の事としている。
これは後で考える。

 

このあと、邯鄲商と張猛とは仲違いをし、
邯鄲商は張猛に殺害される。
これまた典略では209年の出来事とするが、
後漢書では206年とされる。

 

典略によれば韓遂が上奏して210年に張猛を討伐。
張猛は自害した。

 

さて、邯鄲商が死んだのはいつか。
普通に考えれば、209年に殺害され、
それを受けて翌年に韓遂が張猛を討伐と考えるのが自然だろう。
ただし、たとえば隴西郡の枹罕県には
宋建なる者が王を名乗って180年代以来、割拠している。
宋建は後に夏侯淵によって滅ぼされる(214年頃)。
これを放置しているのに、なぜ韓遂は張猛をすぐに攻撃したか、
それはよく分からない。

 

であれば、206年に邯鄲商が死亡するも、
韓遂が張猛を攻撃したのはその4年後ということもあり得るのか。
その場合、雍州刺史が殺害されたまま、
曹操政権は後任も送り込まずに4年間放置したことになる。
これは不自然だ。

 

209年に邯鄲商が死亡、
210年に張猛討伐、
211年に馬超韓遂の乱。
これであれば、しばらく雍州が放置されたとしても
それなりに理解は出来る。
213年には九州復古により、涼州・雍州は統合され、
雍州刺史には徐奕が任じられる。

 

さて、1つ前の疑問に戻る。
邯鄲商はいつ雍州刺史となったか。
194年か、建安初(196年以降)か。

 

前者の場合、任命は李傕政権である。
194年は混乱が始まりつつあるが、
決定的な崩壊には至っていなかった。
その中でもたらされた施策ということか。
陳留人の邯鄲商が刺史となるが、
董卓政権の時から朝廷にいた人物ということになろう。

 

後者の場合は、任命者は曹操政権である。
しかも曹操政権が李傕を討伐するのは198年であるため、
雍州設置はその戦後の西方政策の一環か。
陳留人の邯鄲商が刺史となったというのは
兗州に縁の深い、曹操政権との関連も感じさせる。

 

しかし、もし邯鄲商が曹操陣営の人物であれば
その詳細がもっと書かれていいはずだ。
ましてや大役を任された人物。
よほど曹操の信頼が厚かったのか、荀彧により推薦されたのか。
それが一切出てこないのは不自然である。
さらに言えば、雍州設置が曹操政権の施策であるならば
それは武帝紀に書かれるべき内容である。
それがないということは、
やはり曹操政権以前の出来事と考えるのが自然ではないだろうか。

 

私の見立てでは雍州設置は194年(後漢書の方が正しい)。
邯鄲商の死亡は209年(典略の方が正しい)。
良いとこどりの結論でいいのかという気もするが、
それが一番自然である。

 

ただしこの場合、195年に武威太守の張雅の要請により、
張掖属国は西海郡に改名したという晋書と記録と合わない。
194年の雍州設置と同時に張猛が武威太守となったはずだから。
あるいは張雅=張猛なのだろうか。

 

また、邯鄲商が16年の長きに渡って刺史を勤めたことになるが
それは自然なことなのか。
邯鄲商と張猛とは赴任の道中に仲違いしたようなので
それから16年間後に怒りが爆発して?殺し合いに発展したというのは
ちょっと考えにくいのではないか。
雍州新設が199年頃、邯鄲商死亡が206年ということはないのか。
しかしこれでも7年の開きがあり、
そもそも道中に仲違いしたという記述が真実なのか怪しくなってくる。

 

とりとめもない記事になったが、
涼州、雍州について地図を作っておけたのは良かった。
次回は蘇則の予定。