正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

儒者の董遇(明帝・曹叡と儒者の関係)

タイトルは大仰だが、サラッと書きたい。

 

前回、軍師祭酒について調べたが
そこに正体不明の軍師祭酒・董蒙なる者がいた。
また、軍謀祭酒の董芬なる者の記述も見つけた。

董蒙と董芬、字面が似ていると言えば似ている。
これは同一人物なのではないかとハタと気づいた。

 

そこで董芬を探ろうと調べていたら
とっくの昔に三国志ファンがこの可能性に言及しているのを見つけた。
その時、デジャブを感じたが
もしかしたらその言及について過去に目にしたこともあったかも知れない。
まぁ三国志について調べていると
こういうことはよくある。

 

董蒙は213年に軍師祭酒・南鄉亭侯であったことしか分からない。
董芬は華佗伝注の典論に出てくる。
つまり作者である曹丕の同時代である。弘農人だという。

 

さて、弘農の董氏と言えば、董遇という儒者がいる。
王朗伝注の魏略に記事がある。
魏略で立伝されていたようである。
また、文帝紀にも名前が出てくる。

 

董遇は字を季直といい、弘農人である。
朴訥な人柄で学問を好んだ。
興平年間(194-195)に関中が荒れると、
兄の季中と共に段煨を頼った。
建安年間、後漢の黃門侍郎となった。
漢魏禅譲の際にも董遇の名前が出てくる。
曹丕の時代になると外に出されて郡守となったが
曹叡の時代には中央に戻って
侍中、大司農となり数年して死去した。

 

以下はかなり意訳だが、
「董遇は学生に対しての教え方が
突き放したスタイルであったため、
学ぶ者は少なかったという。」

 

ここから2つのことを書きたい。

 

最初のトピックは、「董遇から董蒙をあぶりだす」である。

 

董遇の兄の季中。
これは董遇の字の季直と符合するので、
季中というのも字であろう。
この季中こそが董芬(=董蒙)ではないだろうか。
そう推察する理由は多くない。
1つは弘農出身という共通点。
もう1つは董蒙の爵位の問題である。

 

前回見た213年の軍師祭酒10名、
そのうち爵位が記載されたのは5名である。

 

董昭(千秋亭侯)
薛洪(都亭侯)
董蒙(南鄉亭侯)
王粲(関内侯)
傅巽(関内侯)

 

※傅巽はあの勧進の記述では未記載だが、
別の箇所で関内侯だったと分かる。
王粲に続けて書かれたために省略されたと推察できる。

 

董昭は一時期は張楊のもとにあったが
後に朝廷に召され、その後に曹操の協力者となった。
しかし千秋亭侯に封じられるのはそれから10年後くらい。
烏丸征討に貢献してからである。

 

薛洪もまた張楊の遺臣であるが、
官渡の戦い前夜、曹操に降伏した。
その功績を認められての都亭侯であろう。

 

王粲と傅巽は劉琮を曹操に降伏させた功で
関内侯となっている。

 

つまり爵位を得るには、
武功を立てるか、
敵対勢力から曹操陣営へ降伏するか、
あるいは名家の子弟として爵位を嗣ぐか、である。
この後漢末の時期にあっては
単に勤勉に職務を全うするだけでは
爵位を与えられはしない。

 

ではなぜ董蒙(=董芬)は亭侯なのか。
董蒙=董遇の兄であったと仮定して
理由を3つ想像してみる。

 

まず、董蒙兄弟は段煨を頼った。
段煨は李傕政権の幹部で、弘農郡の華陰県に駐屯していた。
献帝長安から逃避行をした際にはこれを援助している(195年)。
後に朝廷が謁者僕射の裴茂を使わして
李傕討伐を行った際にはこれに従軍している(198年)。

 

可能性①:
董蒙は段煨に仕えて李傕討伐に参加し、功績をあげた。

 

可能性②:
董蒙は段煨に仕えて信任を得て、段煨を曹操政権に降伏させた。

 

可能性③:
以前に陳紀のことを書いた際、段煨が李傕討伐後も
しばらく弘農に留まっていたのではないかと推測した。
つまり、董蒙も段煨の側近として弘農にいた。
そして、202年に袁尚配下の郭援が河東郡に侵攻した際、
河東郡は弘農の北隣である)
董蒙は従軍して功績をあげた。
これは張既、嚴幹が同エリアで功績をあげて封爵されたのに通じる。

 

この想像はまずまずの線をついている気がする。

 

さて、次のトピックである。

 

それは、朴訥な儒学者の董遇が
明帝(曹叡)の侍中になっている「謎」だ。

 

曹操が選んだ最初の侍中には博識なものが2名いたが
朴訥な学者タイプではない。
曹丕の時代についてもいずれ書こうと思うが
彼が選んだのも智謀の人である。

 

曹叡についてのイメージを思い起こそう。
彼は父親の死の直前に太子となった「苦労人」である。
いわば帝王学は授かっていないとも言える。
が、即位すると、とりわけ軍事面で独自の才能を発揮し、
蜀漢孫呉の度重なる侵入を
100点とも言える出来で防いだ。
一方で、宮殿の造営に熱心であり、
それに対する直諫の言が山ほど三国志に残っている。
そして、貴族の子弟たちの軽佻浮薄な振る舞いを嫌い、
彼らを政権から遠ざけたのも印象深いだろう。

 

しかしもうひとつ曹叡の特色を記憶しておくとするなら
それは儒者を重んじたことである。

 

帝紀にこうある。
即位からおよそ2年後の228年6月詔勅を下し、
博士を選りすぐって、才能に応じて
侍中、散騎常侍とするよう命じた。

 

※ちくま訳も見ているが、若干、訳に違和感はある。
が、大意は外していないであろう。

 

郡守に「左遷」されていた董遇が
中央に戻ったのもこれが関係しているだろう。
しかもただ戻っただけではなく、
一挙に皇帝のアドバイザーたる侍中になったのだ。

 

実際に明帝時代を調べていくと
儒学者の重用されているのがよく分かるのである。
高堂隆、蘇林あたりは有名であろうか。

 

本当はこのあたりのことを
整理して提示できれば良いのだが
それは数時間で書きなぐる記事ではない。
別の機会に書きたいと思っている。
ただ、曹叡儒者の関係は要注目、というのは
早いうちにメモとして残しておきたかった。

 

今日のまとめ
・謎の軍師祭酒、董蒙は弘農出身の可能性あり。
・その場合、儒者の董遇の兄ではないかと想像する
・董蒙の爵位がポイント。段煨に仕えた関係で爵位を得たか。
・(弟の)董遇は明帝時代に重用される
・明帝は一貫して儒者を重用していた