正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

軍師祭酒の廃止時期を考える

今回はかなりグダグダかつ推測だらけの記事となったが、
臆せず公開してしまおう。

 

前回は侍中の記事だったが
魏公国が発足し、侍中が置かれる前は
軍師祭酒がおもに「曹操の相談相手」だったろう。

 

司空軍師祭酒は198年1月に置かれたようで
おそらく郭嘉はその発足時からのメンバーである。
初期には侯聲(侯声)なる人物もおり、
屯田制についての議論が残っているので
その取り扱う内容は軍事に留まらない。

 

軍師祭酒で一番気になるところは
表記の統一感のなさで
軍祭酒、軍謀祭酒、祭酒などとも書かれる。
これは晋の司馬師の名を避諱するため、
色々と書き換えられたから、らしい。
※この辺り、あまり踏み込まないでおく

 

司空時代に軍師祭酒に任じられた者としては
他に董昭、陳琳、阮瑀がいる。
路粹も司空時代の任官で間違いないだろう。

(◆※追記。董昭は「轉拜司空軍祭酒」と書かれるが、時期的に丞相軍師祭酒の間違いでは?と思わないでもない)

 

その後、曹操が丞相になると
丞相府にも軍師祭酒が置かれたようで、
列伝を見ると袁渙、王朗、王粲、杜襲、杜夔らが
任命されているのが分かる。

 

そして曹操が魏公に任命された際、
これを受けるよう勧進した臣下の名前が残っている。

 

そのうち軍師祭酒の箇所を抜き出す。

 

軍師祭酒千秋亭侯董昭、
都亭侯薛洪、
南鄉亭侯董蒙、
關內侯王粲、
傅巽、
祭酒王選、
袁渙、
王朗、
張承、
任藩、
杜襲

 

中ほどにある「祭酒王選」というのがよく分からない。
これに続く「領護軍將軍王圖」とは
夏侯淵のことではないか、という推測は以前に書いたが
色々と誤字の多い記事である。
「祭酒王選」が衍字(=不要な文字の混入)であっても
おかしくはない。
これを無視すれば、ちょうど10名になる。
もっとも、董蒙、任藩の正体不明の2名も残る。

 

彼らの正体も探りたいところだが
もっと気になるのは「軍師祭酒という職はその後どうなったか」、
である。

 

「祭酒王選」は無視する。
董蒙、任藩も他の箇所に出てこない。
王粲、杜襲は侍中になった。
袁渙は六卿になった。
薛洪はこれ以後は消息不明。

 

曹丕が魏王になった際に散騎常侍が置かれたが
その頃に傅巽が散騎常侍となったのは分かっている。
その間の経歴は不明。

 

さて、残りは董昭、王朗、張承。

 

王朗は
「魏國初建,以軍祭酒領魏郡太守」と書かれる。
魏公国が発足すると、軍師祭酒の肩書きで
魏郡太守を兼任したというのである。

 

張承も似た記述がある。
「魏國初建,承以丞相參軍祭酒領趙郡太守,政化大行。」
魏公国が発足すると、『參軍祭酒』の肩書きで
趙郡太守を兼任したというのである。

 

ちくま訳8巻の三国官職表を見ると
「參軍の長期在任者が參軍祭酒に任命された」と書かれる。
だが本当にそうか。
確かに張承は213年以前に參軍となっているが
213年時点で軍師祭酒であったのは無視できない。
であれば、「參」の字は衍字で
「軍(師)祭酒の肩書きで趙郡太守を兼任した」の方が自然だろう。

 

ラストは董昭。
董昭は曹丕が魏王となった際に將作大匠という
九卿クラスの職に就いたのは分かっている。

 

さて、ここまで書いてきて何が言いたいかというと
魏公国の発足とほぼ同時に、軍師祭酒は廃止されたのではないのか、
ということである。

 

王朗と張承が軍師祭酒と太守を兼任したというのがよく分からないが
後に太守のうち上位のものが将軍号を帯びるように
両者を特別扱いして兼任させたということだろうか。

 

とは言え、ほどなくして王朗は異動となる。
少府に「栄転」するのだが、これは215年頃ではないかと推測する。
のちに王朗は奉常となるが、奉常が設置されたのが216年で
王朗が初代奉常だと思われるからだ。
であれば、軍師祭酒の肩書きを帯び続ける必要もない。

 

張承はと言えば、曹操の西征の際に召されて参軍となるが
道中、長安に至ったところで死去したという。
213年以後の西征と言えば
215年の張魯討伐か、218年の劉備討伐である。
私は215年の張魯討伐時ではないかと思う。
213年から218年までずっと趙郡太守でいるのは
ちょっと長いかな、という消極的な理由である。
張承は名士中の名士であって、
六卿や尚書への異動があっておかしくないはずだ。
趙郡太守のまま放っておかれるのは違和感がある。

 

となれば、215年頃には軍師祭酒の兼任者はいなくなっていた。
いや、213年当初は兼任であっても、ほどなく
軍師祭酒が廃止されたとも十分に考えられるのではないか。

 

董昭のことを無視すれば、である。


続けて、董昭以外の考察を進めていく。

 

ひとつ気になるのは路粹のことである。
路粹は軍謀祭酒になったとだけ書かれ、
それが司空時代なのか、丞相時代なのかも不明である。
ただし陳琳、阮瑀と共に記室(=文書)を担当した。
陳琳は後に(丞相)門下督、
阮瑀は(丞相)倉曹掾屬となった。
そして二人とも213年の勧進には名を見せない。
一方の路粹は214年に祕書令になったという。
では路粹は214年まで軍師祭酒だったのか。
しかし路粹もまた勧進には名が出てこない。

 

この3人は「文筆のスペシャリスト」である。
陳琳、阮瑀が異動になっているのなら
そもそも記室の取り扱いが軍師祭酒から離れたのかも知れぬ。
であれば、路粹もまたその時に異動になったのではないか。
となれば、路粹のことは無視できるかも知れない。

 

次に考えるべきは李義である。
李義は(右扶風の)平陵県令になり、宂從僕射に栄転すると
ついに顕職を歴任したという。
213年、魏国が十郡を与えられると(魏公国が発足すると)、
(丞相府に)請われて軍祭酒となり、また魏の尚書左僕射となった。
これが本当なら、やはり215年頃までは軍師祭酒はあったのかも知れない。
あるいはもっと後まであったのかも知れない。
ただし、そのあと唐突に出てくる尚書左僕射が疑念を生む。
本当は魏の尚書となり、そのあとに左僕射になった、とかではないのか。
この頃の魏の尚書は判明しているメンバーが少なく、
空きの席は少なくない。
もっとも、顕職を歴任したというのが後漢尚書のことなどを指し
その経験はそちらで十分にあったのかも知れない。
左僕射になったのはいつか。
涼茂が異動になった215年頃か。
毛玠が失脚した216年頃か。

(◆※追記。原文は「請義以為軍祭酒,又為魏尚書左僕射」であるが、
「魏の尚書、(ついで)(尚書)左僕射になった」と読むことも出来るはずで、
その解釈の方が自然かも知れない。)

 

残りの2つの「ノイズ」にも触れておこう。

 

賈逵伝には不思議な記述が出てくる。
賈逵は曹操の時代末期に丞相主簿となったが、
その後、諫議大夫に栄転する。
曹操死後、鄴令、魏郡太守となったが
次に「復爲丞相主簿祭酒」、つまり
ふたたび丞相主簿祭酒になったという。
これは文脈からして「再び丞相主簿」というのが正しく
「祭酒」は衍字ではないだろうか。
いずれにしても曹丕の時代のことであり、
いったんは無視して良いだろう。

 

華佗伝には「軍謀祭酒弘農董芬」なる記載がある。
これはいつの時代のことか不明である。
別の機会に考えよう。


さて、213年の魏公国の発足と共に
軍師祭酒が廃止となり、
ある者は尚書に、ある者は六卿に
ある者は侍中になったという解釈ができれば
それが一番美しいと思っていた。

 

王朗と張承がしばらく兼任していたとしても
それも215年頃には終わった。
李義にしても本当に軍師祭酒になっていたとしても
216年-217年には尚書左僕射に異動になったはずだ。

 

となると、董昭がひとりぼっちで軍師祭酒の席を守ったのだろうか。
あるいは傅巽なども一緒だったのか。
それもあり得ないことではないだろう。
ただ、董昭は、魏公国が誕生し、
漢から「国を奪う」にあたっての最大の功績者のひとりのはずだ。
魏の権力強化を恥じることなく進言し続けたのが董昭だ。
それを軍師祭酒のまま据え置くというのは
ただちに冷遇とは言えないかも知れないが
果たして本当にそうなのか、と疑問が湧く。

 

では、もし董昭が異動、栄転していたのであれば
どの職がふさわしかったのだろうか。
後漢の太中大夫なのか。
魏の権力強化を推進した人物には似合わない。
魏の尚書なのか。
いや、実務メインの役職はイメージと違う。
では丞相長史か。
董昭の功績に比して釣り合わない気がする。

 

217年、王粲が死去し、おそらく同じころ和洽が異動となった。
だが、侍中として補充されたと思われるのは陳羣しかいない。
もしかしたらこの頃、一時的に侍中になっていることはないだろうか。
いずれにしても推測の域を出ない。

 

あらためて漢魏禅譲の際の上奏文を見ると
董昭は「督軍御史・將作大匠」として出てくる。
この「督軍御史」というのがよく分からず、
とは言えいつか考察せねばならないのだが
もしかしたら、213年以降の董昭は
督軍御史という立場で曹操に近侍していたのだろうか。

 

今日のまとめ
・魏公国成立以降、軍師祭酒となった者が激減している(ように見える)
・魏公国と合わせて、あるいはしばらくして軍師祭酒は廃止されたのでは?
・董昭は213年に軍師祭酒だった。
220年に將作大匠になるまでずっと軍師祭酒だったと本当に言えるのか。