正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

李通の謎

李通は江夏郡平春県の人である。
義俠の人として長江、汝水の間で名を知られ
汝南の朗陵県で兵を挙げた。
その後、周直なる者の二千餘家を併せたり、
自勢力の内紛を収め、安定化させ、
さらに(汝南)黄巾を破るなどした。
建安初、許都に詣でて曹操に帰伏。
張繡、劉表らとの戦闘で活躍すると、
曹操は汝南二県を割き,
李通をその長官の陽安都尉とした。

 

これが李通の前半生であるが、
ここでの疑問は、出身県は江夏郡平春県であるのに、
挙兵したのは汝南郡の朗陵県だということ。

 

地図を置いておく。




こうして地図を見てまず考えるべきは
李通どうこうよりも、江夏郡の奇妙さである。

 

江夏郡の北境は淮水沿いとなっている。
問題は、その南方に山地が挟まれていることである。
それほど険峻な一帯でないようだが
なぜこのような郡境となるのか理解に苦しむ。

 

当時は河川が最大の交通路であろうから
なんらかの河川が江夏北境と南部を結んでいればいいが
特にそういうこともない。

 

この江夏北部の「飛び地」には4県あり、
西から平春、鄳、軑、西陽と並ぶ。
費禕は鄳人である。
晋書によれば、曹丕が弋陽郡を置いたが、
そこには軑、西陽が含まれている。
(※田豫は曹操の時代に弋陽太守になっているので
弋陽郡を置いたのは曹操ではないかと疑う)


上記を除くと、この4県は三国志には全然出てこない。
賈逵伝や満寵伝に出てくる西陽は
集解を見る限りは別の土地の名前のようである。
安慶府桐城県の東北だとの推測が書かれている。
上の地図であれば、舒の近くであろう。

 

私は、この4県について、実は
山岳地帯の南方にあった可能性はないかと、
その証拠を何とか探そうとしたことがある。
だが、得られたものは特になかった。
なお平春は東晋の時代に「春」の字を避諱して
平陽に名を変えたようである。
(※簡文宣鄭太后の名を避けた。寿春も寿陽へ改称)


平春はその後も名を変え続けたようで
そちらの調査は割愛するが、
おそらく現在の隨州市隨縣淮河鎮であろう。


そして、現在の隨州市の市境を見る限り、
「平春」だけが山南の地域に取り込まれる
奇妙な形が維持されている。
その「パートナー」は江夏の地域から
南陽郡南部=地図の隋県のあたり」へ変わったが
つまり、平春が山南と同じ行政区分となることに
違和感を持ってはいけないのだろう。

 

ただし、平春の所在地を疑った理由はもうひとつある。
なぜ、李通が平春で挙兵しなかったか、
ということである。
平春と朗陵は隣接している。
なぜ朗陵で旗揚げしたのか。

 

たとえば、もし平春が山南にあるなら
義侠の人、李通がそこで何らかの義挙、
たとえば仇討ちの助太刀など行い、
他州に亡命したことなども考えられよう。
だが、平春と朗陵が隣接しているのであれば
なぜ李通は朗陵で挙兵し、
その後も史書に平春の名前が出てこないのか。
それが不自然に思えた。

 

だが、この件はこれ以上考察が出来そうにない。
先に進もう。

 

よく分からないが、李通は故郷の平春には拠らず、
朗陵を根拠地とした。
挙兵したのはいつ頃か。


190年頃、汝南太守は徐璆である。
192年時点でもそれは継続している。
いつ徐璆は東海太守に転任するかについては
徐璆の記事の時にも書いたが
193年後半の曹操の徐州侵攻がきっかけだと考える。
徐璆は184年の黄巾の乱平定にも活躍した人物で
汝南太守、東海太守としての業績について
「所在化行」=教化が行きわたったと称賛される。


この頃の豫州はまさに「謎の豫州」だが
徐璆が健在の間は汝南は無事であったと仮定しよう。
であれば、李通の旗揚げは
三国志を読んで受ける印象(私の)よりだいぶ遅く、
194年頃なのではないかと思う。
このあたり、豫州の考察については
別の機会に行いたい。

 

さて、李通は曹操に帰伏し、張繍征討で活躍すると
二県を預けられて陽安都尉となった。
趙儼伝を読めば、一県は朗陵である。
もう一県は陽安であろう。
この朗陵と陽安は隣接しており、
間に挟まる県は存在しない。

 

だがこれもまた少し奇妙ではないのか。
汝南はだいたい37県くらいある。
もちろん郡の大きさは考慮する必要はあるが。
それにしても、なにをちまちまと
わずか2県を割く必要があろうか。


朗陵と陽安の北方、東方には諸県が乱立している。
汝南が大きすぎたのであれば
もっと大胆に分割する必要がある。
荊州との州境を任せるだけにしても
2県分ではカバーし切れない。

 

もしかしたら「二県」が「七県」や
「十二県」の間違いではないかと
私は妄想している。

 

それとも、陽安都尉以外にも
種々の都尉が新設され
分割統治されていたのだろうか。

 

曹操は196年に汝南黄巾を破り、降伏させた。
その頭目のひとり、劉辟などは処刑されず、
200年の官渡の戦いの頃に再び反旗を翻す。
劉辟も〇〇都尉に任命されていたのだろうか。


さて、次に考えるべきことがある。

 

江夏北境の「飛び地4県」はどうなったのか。
まさか劉表が任命した県令が
のんきに赴任していたとは思わない。
曹操劉表の「国境線」は
間違いなく、桐柏山、大別山にあったはずだ。
であれば、「飛び地4県」も李通に任されたのではないか。
少なくとも故郷の平春県だけでも。

 

三国の抗争が本格化すると
住民の強制移住がたびたび起こり、
国境地帯は無人化するが、
この「飛び地4県」も
あるいは一時的に無人化していたのだろうか。
いや、無人化するのは大きな戦闘のあった場合か、
屯田制に巻き込まれたケースだ。
李通が陽安都尉になった197-8年頃は
まだ屯田制も始まったばかり。
どちらのケースにも当てはまらない気がする。

 

答えは出なかった。
では疑問を取りまとめて残しておこう。

 

今日のまとめ
・江夏北部は山地で分断されていて奇妙。
・その「飛び地」はほとんど史書に記述がない
・おそらく曹操が実効支配していたはず(劉表ではなく)
・李通が故郷でなく、隣の朗陵で挙兵した不思議。
・陽安都尉がわずか2県管轄という不思議。