正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

董承と萇奴が曹洪軍を阻んだ、とは?

195年、呂布を破り兗州を平定した曹操
年末に豫州の陳国へと転進。
袁術が置いた陳相の袁嗣を降伏させた(196年1月)。


195年の時点で陳王国は滅んでいた(197年ではなく)、
というのが前回の記事での推測である。


このあとの曹操の動向である。


三国志魏書武帝紀:
建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降。
太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,
衞將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進。
汝南、潁川黃巾何儀、劉辟、黃邵、何曼等,眾各數萬,初應袁術,又附孫堅
二月,太祖進軍討破之,斬辟、邵等,儀及其眾皆降。天子拜太祖建德將軍,
夏六月,遷鎮東將軍,封費亭侯。
秋七月,楊奉、韓暹以天子還洛陽,奉別屯梁。太祖遂至洛陽,衞京都,暹遁走。


・1月、袁嗣を降伏させる。
・天子を迎えに曹洪を送るが、董承と萇奴に妨害される。
・2月、汝南、潁川黃巾を討伐。
・7月、天子が洛陽に帰還する。曹操が洛陽に至る。


このあと、献帝が許に入るのは8月である。
ここでの最大の疑問が下記である。


「衞將軍の董承と袁術配下の將の萇奴が険阻な地を盾にして曹洪の進軍を阻んだ」


この一文にはいくつもの謎が混在している


・なぜ董承は曹洪を拒絶したのか
・険阻な地とはどこか
・董承と袁術は協力関係にあったのか
・萇奴とはいったい何者なのか


私の関心は萇奴であるが、
董承についても考えねばいけない。


ここで地図を置いておく。




まず豫州の情勢である。
袁術は陳国まで侵攻していたが
揚州から陳国へは2つの河川が通じている。
汝陰、項を通る潁水と、山桑、譙を通る濄水である。
その流域は袁術が抑えていたはずだ。


そこから西に外れた土地には
許褚と李通がいた。(許褚については推測)
また、豫州の東部であるが、
魯国は徐州の東海王国の封土でもあったので
劉備が抑えていた可能性は高い。
沛県(=小沛)は当然、劉備支配下にあり、
その南方は相県あたりまで支配していたのではないか(推測)。


では梁国はどうだったのか。
後漢末において、まったく存在感のない梁国。


陳国については袁術の軍糧要請を拒絶し、
王と国相が暗殺されたという経緯がある。
これは後漢書資治通鑑では197年のこととしているが、
195年が正しいのではないかというのが私の推測だ。
これから考えると、梁王国もやはり軍糧を要請されたのではないか。
そして要請を受け入れることで、攻撃を忌避できたのではないか。
つまり、表向きは「親・袁術」の立場を取ることで
領内の平穏は保たれていたのかも知れない。
史書に登場しないというのは、
どの戦闘にも巻き込まれなかったのかも知れない。


次に曹操軍を考える。
194年夏に兗州で反乱が起こり、
195年秋にやっと呂布を追い出した。
雍丘に籠城した張超を破り、
兗州反乱が終了したのが195年12月。


この間、注意すべきなのが曹洪の動向である。


曹洪伝:
太祖征徐州,張邈舉兗州叛迎呂布
時大饑荒,洪將兵在前,先據東平、范,聚粮穀以繼軍。
太祖討邈、布於濮陽,布破走,
遂據東阿,轉擊濟陰、山陽、中牟、陽武、京、密十餘縣,皆拔之。
以前後功拜鷹揚校尉,遷揚武中郎將。


曹操が濮陽で呂布を破ったあと
曹洪は)転戦して十余県を陥した、という。
その功績により、鷹揚校尉に任命された。


まず、十余県を陥した主語は不明なのだが
ちくま訳では括弧をつけて曹洪であると補っている。
前後の文脈を考えればそれは正しいのかも知れない。
もっとも、初期の曹操陣営の幹部である曹洪
いまさら校尉に任命される?などの疑問もある。
曹操兗州刺史になった頃に校尉となり、
兗州反乱を制圧した際に中郎將になったのではないか、
つまり曹洪伝の記事が前後したのではないか(よくある)。
そう思うのだが、今回の主題でないので無視する。


問題は、曹洪が陥した十余県である。
ここには、州外の県が含まれている。
河南尹の東部の「中牟、陽武、京、密」の4県である。
この4県を結んだ四方の内側には他県は存在しない。
つまり河南尹に関してはこの4県だけ制圧した可能性もあるし、
他の諸県が「十余県」に含まれる可能性もある。


では、なぜ攻撃したのか。
呂布勢力を支援していた県だったのか。
呂布軍の退路を断つだめ、兗州西境を制圧する必要があったのか。
呂布と親しい張楊に対する牽制の意味があったのか。
答えは出ない。


そもそも、兗州平定後、曹操は天子を迎えるために
曹洪を西方に派遣したのだから
「中牟、陽武、京、密」を制圧したのはこの時の話なのかも知れない。
曹洪伝の記事が不正確に圧縮されている可能性もゼロではない。


というのも、この4県にほど近いのが新鄭県である。
この頃、新鄭県長だったのが楊沛であり、
曹操が天子を迎えにいく際に新鄭県を通った逸話がある。
河南の東部に曹操軍が進出するのは
やはり196年に入ってからだったのではないかという疑念が残る。


一方の、献帝の動きも見ねばならない。
長安の李傕・郭汜の政権は内紛を繰り返した挙句、
献帝の奪い合いが内紛の原因と考えたのか、
献帝を東方に送り返すという決断をくだす。
それだけでも奇妙なことだが、
あとでそれを後悔して、東遷する献帝を追撃することになる。
何ともちぐはぐな判断である。
もし李傕が献帝を手元においていたなら
東方諸侯の運命も大きく変わったことだろう。
曹操献帝を奉戴することもなく、
三国時代の到来はなかったかも知れない。


さて、献帝は195年の7月甲子の日に長安を出立する。
調べてみるとこの7月には甲子の日はないように思われ、
6月末の甲子の日の間違いのような気もするが
暦の問題に手を出すのはやめておく。
そのあと、献帝は、李傕軍の追撃を受け、
大きなところでは4回の戦闘があり、
1回目と3回目では勝利、2回目と4回目で大敗北を喫している。
やっと落ち着けたのは12月に河東郡の安邑県に入ってからだ。
このあと、196年の6月まで献帝は安邑県に留まっている。
半年もの期間である。
今までこの事に気づいていなかったが
これは考察すべき事かも知れない。


さて、河東で献帝と共にあった勢力を確認しておく。
まず、献帝の東遷の主人公として、董承と楊奉がいる。
霊帝の母、つまり献帝の祖母が董氏であるが、
董承はその一族とされる。
董卓の一族とする説もあるが、これは今回は無視する。
楊奉はもとは河東の白波賊であるが、
李傕に仕えたあとこれに離反し、献帝の東遷に従った。


献帝が華陰から陝へと進む最中に味方に引き入れたのが
白波賊と匈奴である。
匈奴は右賢王(左賢王という説も)の去卑が援軍となった。
この195年、正確な時期は不明だが、
匈奴単于於夫羅が死去し、弟の呼廚泉が継ぐ事態となる。
その匈奴の本拠地は河東の北部の平陽のあたりだったようだが
匈奴全体が献帝を支援していたのか
右賢王の去卑だけが支援していたのかはよく分からない。


白波賊はいいとして、河東太守の王邑に触れねばならない。
後漢書董卓伝によれば、献帝が安邑県に至ったとき、
王邑は「奉獻綿帛」し、列侯に封じられた。
おそらくこの時に鎮北将軍に任命された。
王邑は北地郡涇陽県の人で、
たとえば李傕は北地郡「泥陽」県の人であり、
両者がどのような関係であったかは不明だが
おそらく董卓~李傕政権により任命された太守だろうか。
王邑は206年まで河東太守を務めた。


王邑が長らく河東にあって、
白波賊や匈奴とどう折り合いをつけていたのか
これはいつか考察せねばならない。


また、協力者としては河内太守の張楊がいる。
献帝黄河を渡り、安邑に至る前、
張楊が数千人を派遣して糧米を届けている。


つまりこの「安邑政権」を支えたのは


①董承および朝臣
②もと白波賊の楊奉
③白波賊の李樂、韓暹、胡才
匈奴右賢王の去卑
⑤河東太守の王邑
⑥河内太守の張楊


の6つの勢力である。


この政権は6か月に渡り成立したが
その序盤にひとつの内紛が起きている。


後漢書献帝紀によれば
196年2月に韓暹が董承を攻撃したという。
その顛末は不明。
だが、資治通鑑によれば
董承は野王県に逃げたという。
張楊の根拠地である。


さて、ここから本題である。
以上の情勢を踏まえて、もう一度下記の記述と謎を考える。


「衞將軍の董承と袁術配下の將の萇奴が険阻な地を盾にして曹洪の進軍を阻んだ」

・なぜ董承は曹洪を拒絶したのか
・険阻な地とはどこか
・董承と袁術配下は協力関係にあったのか
・萇奴とはいったい何者なのか


この4つの謎にとどまらない、更なる謎が噴出している。


武帝紀によれば、1月に陳国を攻撃し、
2月に黄巾賊を攻撃。
曹洪の派遣はその間に記述されている。
しかしその頃、献帝は安邑におり、
諸勢力に取り囲まれている状況である。
「貢献」のために曹洪を派遣したなら分かるが、
「天子を迎える」ために曹洪を派遣というのは
あまりにも警戒心がなさすぎであろう。


では「天子を迎える」という表現は史家の潤色だとして
単に天子へのご機嫌伺いの使者だったということだろうか。
そしてそれを董承に妨害されたということか。
もしそうなら、それは董承が安邑から逃走したあとのことであろう。
董承がかなり東方に移動していて、
曹洪の進路とバッティングしたということだ。
それは野王県なのか。
しかしそこが険阻な地とは思えないし、
また、野王を通過するのであれば、
それを許可するか否かは張楊の判断になるはずだ。


あるいは、董承が張楊に合流する前、
一時的に汜水関あたりに駐留していた時期もあるのか。
そしてそこで曹洪を阻んだのか。


董承の動向についてはもう少し考える必要がある。


後漢書の趙岐伝によれば
献帝が洛陽帰還を計画したのは興平元年(194年)のことで、
董承を派遣して宮室を修理させたという。
このとき趙岐は劉表への使者となり、洛陽復旧の援助をさせた。


だが通鑑では時期が違う。
興平元年ではなく、建安元年(196年)、
董承が張楊のもとへ逃げたあとの話となっている。
張楊が董承を送って洛陽を復旧させたという。
そして趙岐は劉表を説得して、それの援助をさせた。


この通鑑の解釈を信じると、話に整合性が出てくる面もある。
つまり、董承は一定の期間、単独で洛陽に駐屯していた。
それは3月とか4月のことであろうが、
その頃に曹洪が西へ「ご挨拶」に伺ったのであれば、
予期せぬ軍隊の接近に対し、
董承がそれを「阻んだ」ということは発生し得よう。


ただし。
献帝が7月に洛陽に入った頃も、とても復興したとは言えない状況だった。
これは三国志董卓伝にくわしく書かれており
ほぼ同内容のことが後漢書献帝紀や通鑑にも踏襲されている。


三国志董卓伝:
天子入洛陽,宮室燒盡,街陌荒蕪,百官披荊棘,依丘牆閒。
州郡各擁兵自衞,莫有至者。
飢窮稍甚,尚書郎以下,自出樵采,或飢死牆壁閒。


董承が数か月前に洛陽に入り、劉表の援助で復興作業していたとは
とても思えない状況である。


本当に建安元年に董承は洛陽の復興をしていたのか。
実は趙岐伝が正しく、194年に一時的に復興作業していて、
その作業は途中で頓挫して
その後ふたたび洛陽は荒廃したということではないのか。


行き詰ったところで三国志集解を見る。
そこでは通鑑考異を引いている。
通鑑考異いわく、「武帝紀では1月に天子を迎えに曹洪を送ったとあるが、
荀彧伝ではそれは許都平定後の話である。荀彧伝に従う」。


もともと武帝紀の話では、曹操が天子を迎えようとした際、
それに賛成しない者もいたが、荀彧と程昱がこれを勧めた、という。


荀彧伝を見てみる。


荀彧伝:
建安元年,太祖擊破黃巾。漢獻帝自河東還洛陽。
太祖議奉迎都許,或以山東未平,
韓暹、楊奉新將天子到洛陽,北連張楊,未可卒制。


こちらでは黄巾平定後、
さらには献帝の洛陽帰還後の話となっている。
確かに「疑念を持つ者がいる中、荀彧は勧めた」
という点は共通しているが、
通鑑考異が2つの記事の差異を時期だけと見なしているのは
間違いである。


荀彧伝には、曹洪を派遣し
董承に阻まれたという情報は無い。


では、それは単に記述漏れという可能性はあるのか。
7月に献帝が洛陽に戻り、曹操曹洪を派遣するが
董承は一時的にそれを阻んだ。
そのあと使者は通じ、献帝は許都へ遷った。
そういう可能性はあるのか。


まず、短期間にそんな目まぐるしい展開があり得るか。
これだけでも無理があると言えるが、
もう一つは「袁術の将軍の萇奴」のことである。


やっと「萇奴」まで辿り着けた。


曹操は1月に陳国を制圧し、
2月に潁川・汝南の黄巾を破った。
なんらかの理由で河南に袁術配下の「萇奴」がいたとして
その後7月まで自立できていたというのか。
そして董承と連合したというのか。
とても信じられないが、まずは袁術軍のことを考えよう。


曹操呂布と1年以上に渡って兗州で争っていた頃、
どうやら袁術豫州に侵出していた。
しかし小沛を抑えていたのは劉備である。
劉備はもう少し南方まで抑えていたかも知れない。


そして汝南の西南端については李通が独立している。
私の推測では「許褚の砦」は汝南の中央部にあった。


汝南西北部と潁川には黄巾賊が勢力を張っていた。
この黄巾について武帝紀では「初應袁術,又附孫堅」と、
通鑑では「擁眾附袁術」とだけ書く。


この孫堅のところは色々と混乱を生むが
親・袁術であったことは間違いない。


では、袁術はその「親・袁術」の潁川郡を通って、
洛陽付近にも進出しており、それが「萇奴」だったのだろうか。


その場合、「親・袁術」とはいえ他勢力の領土を越えた「飛び地」となる。
そもそも袁術豫州の支配領域が縦に細長いのも違和感があるが
さらに「飛び地」となってまで北方に支配地を欲した理由は何なのか。


大義名分なく豫州に進出している以上は、
まず豫州全域の支配を目指す方が自然であろう。
つまり汝南の南部の制圧は当然であろうし、
東北部を有する劉備との対決もあっておかしくない。
そもそも、これ以前に袁術は徐州侵攻を考えて
廬江太守の陸康に軍糧を要求したという経緯もある。
そして実際に196年に徐州に侵攻する。
河南まで突出するのは戦略リソースの無駄遣いではないのか。


195年冬、献帝が曹陽亭の地で李傕に敗北した際に
袁術は漢の命運が尽きていると思い、
皇帝を自称する考えを群下に示す。
この時は主簿の閻象に反対され
実際に皇帝となるのは197年だが
おそらく袁術の野望はずっと変わらなかったはずだ。
つまり朝廷には見切りをつけていた。


であれば、洛陽付近に配下を残して
朝廷工作をするような計画があったとは思えない。


では袁術の河南進出は絶対になかったのかと言われれば
もちろんそうだとは言えない。
何らかの意図があり進出した可能性もあれば
「あるじ不在の土地だから進出しておこう」と
安易な判断をした可能性もある。


しかし単純に誤記の可能性もある。
この頃、董承は張楊と協力関係にあったわけで
袁術將萇奴」が「張楊將萇奴」であれば
もっと自然に感じられるだろう。
劉表將萇奴」であれば、
この頃、董承と劉表が洛陽を復興していたという証左になり得る。


そして最後の議題である。
それは「萇奴」とは誰かという問題だ。
袁術の配下が河南にいたということへの違和感の他に
萇奴なる者が本当に実在したかという疑念だ。
まずこれは人名として成立するのか。
その違和感がある。


まず名前の「奴」だが、
臧霸の一名が「奴寇」、吳敦は「黯奴」という例がある。
もっともこれは本名ではない。
が、本名としてなら、武帝紀の205年の記事に出てくる。


>故安趙犢、霍奴等殺幽州刺史、涿郡太守。


霍奴なる人物がいたことになり、「奴」という名前は成立するのかも知れない。


一方で、「萇」である。
これも見慣れないためにかなり怪しんでいたが
どうやら萇姓は存在する。
周の時代に萇弘なる者がおり、出身地は蜀。
この萇弘は西南夷だとする説もあるようである。


しかし萇姓は存在するとして、ひとつ微妙な問題がある。


それは献帝の祖父、つまり霊帝の父の解犢亭侯の劉萇である。
劉萇はどうやら早くに亡くなり、
霊帝はまず解犢亭侯を継ぎ、後に皇帝に即位したが、
劉萇は「孝仁皇」の尊号を追って送られた。


後漢の時代は傍系から皇帝が立つたび、
その実父に対して尊号が送られた。
一方、魏では明帝がこれを廃止した。
本来の礼においては、傍系が本家を継ぐ場合、
当然本家を奉ずるべきであり、
亡父に「皇」の位を送れと進言する臣下があれば、その者を殺せ。
とまで明帝は言っている。


さて、霊帝に話を戻すと、祖父の劉淑にも「孝元皇」を贈っている。
その曾祖父の河間王の劉開は桓帝の祖父でもあり、
桓帝が「孝崇皇」を送っている。
劉開の父は後漢第3代皇帝の章帝である。

つまり、献帝の血筋はこうである。
章帝(劉炟)- 孝穆皇(劉開) - 孝元皇(劉淑) - 孝仁皇(劉萇) - 霊帝 - 献帝

霊帝の父であり、献帝の祖父である孝仁皇の劉萇。
この「萇」の字は避諱の対象であったのは間違いない。
賀斉の祖父の慶純は安帝に仕え、
安帝の父(劉慶)の名を避けて賀姓に変えたという話がある。
この時期、萇姓の人々が改姓したとは思わないが、
史書に残す際には必ず変更されたはずだ。
もちろん三国志の執筆は後漢終焉後だが、
元ネタは後漢時代に書かれたもののはずである。
著名人ならばその後に再修正されて
本名に戻されただろうが
一度しか出てこない萇奴のようなマイナーな人物について
それほど手厚い対応が可能だったかどうか。


こう考えていくと、
他に出てこない「萇奴」なる名称が史書に生き残ったことが奇跡である。
「萇奴」を含む一文が他の謎を含むことを考えると
この一文自体の信憑性が低いと言わざるを得ない。

(★※追記。「萇奴」って、「匈奴」の誤記ではないかとㇷと考えた。
もっとも、その場合も簡単には意味が通じないが、
検討すべき内容がある気がする。)

さて、まとめるような内容もないのであるが、
ポイントとなる箇所だけ箇条書きにして終わりにする。

呂布との対決中に曹洪が河南尹の東部を制圧していた記述あり
・ただし時期的に呂布追放後、献帝奉戴前夜の可能性あり
献帝奉戴のため曹洪が派遣されたという
・が、献帝の安邑滞在時に派遣されたというのは疑問
・距離の問題もあるし、献帝を囲む諸勢力の問題もある

曹洪軍を、董承と萇奴(袁術配下)が阻んだという
・董承は野王か洛陽にいた可能性がある
・野王は張楊の根拠地。張楊の名が出ないのは不自然
・洛陽であれば曹洪を阻む可能性はある
・董承は196年に張楊の指示により洛陽復興作業をしたという
・が、洛陽が復興した気配なし
後漢書によれば董承は194年に洛陽復興作業をした
・その時、劉表の支援を受けたとされる
・董承の洛陽復興が事実かどうか、別途検討が必要
・この時期、董承と連合するのは、袁術よりも張楊劉表の方が自然

袁術軍が河南まで進出していた可能性に疑義がある
袁術は汝南南部なり、徐州なりを優先すべきはずだ
袁術が皇帝自称を考えた時期からするに、朝廷工作も不要だった

・萇奴は不自然な名に思えるが、人名として成立し得る
・ただし後漢の孝仁皇(劉萇)の避諱と対象となったはず
・萇奴の名が後漢末の史料に残った可能性に疑義がある